第103話 そして絶望に『夢』と名付けた

 ――燃える。


 燃える、燃える、燃えていく。

 何もかもが一緒にまとめて燃えていく。

 灼熱の炎が目に映る全てを燃やしていく。

 全て、全て、全て――



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「どんな死に方よりも焼死がもっとも辛い死に方だ」


 ……なんて話をどこかで聞いたことがあったが、それはまさにその通りだと思う。もし「それはいくら何でも大袈裟なんじゃないだろうか」なんて思った人が居るなら、一度目に映る全てが燃えるくらいまで炎に追いつめられてみるといい。そうすればきっとこの気持ちが分かるはずだ。


『……』


 炎が燃え広がり始めてまだ僅か5分。

 しかし、記憶の中の俺は既に立ち上がる力も、抵抗する力も失っていた。


『……ごぶっ』


 身体が動くのは、時折零れ落ちる咳のときだけ。まあ、それもまさに死に掛けの弱々しい小さな小さな咳なのだが。


『……』


 辛い。


 まだ身体に炎は燃え移ってはいないが、この時既に俺の中にあった感情はこの一つだけだった。


 辛い、辛い、辛い。


「痛い」とか「熱い」とは違う。「苦しい」とも微妙に異なる。


 辛い。


 それはただただ……辛かった。


『……ぁ』


 何のつもりか、意味もなく小さな声を零す俺。

 それは何か縋る為だったのか、それとも何かをする為だったのか。何の為にそうしたのかは分からないが……とりあえず、俺は直後にその行動に後悔した。


 辛い。


 ただ、小さく声を出すだけで何本も針が喉に突き刺さったかのような痛みが走る。

 そしてその痛みに悶え身体を動かすと痛み、その痛みに思わず目を瞑ると痛み、あまりの痛みに涙を流すと痛み。

 ……痛み、痛み、痛み。

 何をしても、どんなことをしても「痛み」が走る。……それが何より辛い。


『っ……』


 炎は残酷だ。

 何故なら炎は人間の大切な部分を一遍に苦しめてくるからだ。


 まず目が痛い。

 あまりの熱さに眼球が乾燥する、毒々しい煙が容赦なく目を刺激する。

 炎は涙を流す慈悲すらくれない。開いていても、閉じていても痛い。


 次に鼻が苦しい。

 何かが焼ける臭いも、何かが焦げる臭いも、黒い煙の臭いも、全てが苦しい。悪臭はただでさえ弱っている思考をさらに鈍らせる。

 しかも恐ろしいことに、まだここにこの後もう一つ悪臭が追加されるのだ。それは何かって? そんなの決まっている。

 それは――肉の臭いだ。もっと具体的に言うと肉の焼ける臭い、人の肉……つまり自分の肉の焼ける臭いのことだ。


 そして次は肌。

 これはもう単純だ。熱い、そして熱さが強すぎて痛い。

 じくじくとした痛みがいつまでも焼き付いているかのように痛い。本当に火の傷で『火傷』とはよく言ったものだ。


 最後は耳。

 この辛さは多分一番残酷だと思う。

 別に直接的な辛さはないのだが、その分炎の音はきっと最後まで俺を苦しめるだろう。それが今からでもよくよく分かる。

 ……聞こえてくるのは『パチパチ』と何かが焼ける音に、『ギシギシ』と何かが壊れる音、そしてもうきっと二度と見ることは出来ない『外』の音。

 この『外』の音が一番厄介だ。なんでって? 簡単なことさ、こんな音が聞こえてきたら――死にたくない、なんて思ってしまうじゃないか。


 ……死の直前で、死ぬ覚悟をさせてくれないことほど残酷なことはないだろう。


『……』


 だから俺はこの瞬間もなお、諦めきれなかった。

 もうどうしようもないのに、もう助かりようもないのに、もう希望を持つだけ余計に苦しいだけなのに。

 諦められない、諦めきれない。


 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。



 ……死にたくない。



『……』


 だが、そんな風に心の中で叫んだって無駄なものは無駄だ。そんな強欲な願いを懇願したって叶うはずがない。……いや、叶ってはいけない。

 そう、叶ってはいけないのだ。叶わざるべきことなのだ。

 ここでその願いが叶えばもっと後悔する、今は気づいていないがここで香名ってしまったならさらに辛い事になる。

 だから叶ってはいけない。――なのに、


『……ッ!』


『……、……?』


『……ああああぁあぁああああ! 晴馬――!!!』


『――』


 運命は残忍だ。

 奴等は……こういう時に限って、こちらの願いを叶えてくれやがる。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



『晴馬――!!! 大丈夫!?』


『……』


『……ま、まだ息はある。早く、ここから出ないと……』


 心配そうにこちらを見下ろす姉さんに、俺は何一つ返事をすることが出来なかった。

 本当なら、返事をして少しでも安心させてあげたいのに、まるで自分の身体ではないかのようにまるで動かない。

 もうそこまで弱り切ってしまったのだろうか。


『……』


『……痛っ! ……大丈夫、すぐにここから出してあげるから。もうちょっとだけ我慢してね……』


 そういう姉さんは少し辛そうな顔をしながら俺を抱え上げる。……その腕は所々が赤くなっていた。

 しかも、それは良く見れば腕だけではない。それは顔にも、足にも。まるで赤い傷がその身体を汚しているかのように、じくじくと悪辣に輝いている。


 ……それが火傷なのだ、と気付くのにはそう時間は掛からなかった。


『……』


 当然だ。

 こんな炎の中に居れば火傷の一つや二つして当たり前だろう。

 ……ましてや、こんな火の海の中に誰かを助けに来たりしたのであれば。


『……良し。晴馬、ちょっと辛いかもしれないけど我慢してね。少し乱暴に走らないと多分間に合わないから』


『……』


 きっと火傷はじくじくと痛むだろう。きっと姉さんにも俺と同じ辛さが駆け巡っていることだろう。

 それなのに――姉さんは顔色一つ乱すことはない。それどころか抱え上げた俺を安心させようといつもの優しい声で語りかけてくれる。

 こんなどうしようもない俺を、傲慢な思い上がりで勝手に死に掛けた俺を、この人は、まだ――。


『……!? しまっ!!! そんな……柱が、倒れて――!!!』


 ……だが、そんな勇士を姉さんが見せたとしても、運命はそれを賛美して手助け――なんてことはしてくれない。いや、寧ろきっとそれならさらに辛い試練を課すことだろう。実際、今その残忍な悪意がそこに形と現れている。


 まさに今から駆け出していく――という、その瞬間。

 まるで立ち塞がるように炎に包まれた柱が行く手を阻む。おまけに倒れた先は見事に玄関。……つまり、出入り口が塞がれた。


『……ッ!!!』


 なら、もうそこからは出られない。

 残る出口は……反対側のベランダの窓のみ。しかし――、


『……こっちも、か』


 そこも倒れた棚や机に阻まれ、二人が通ることは到底不可能だった。

 ……二人は。


『……』


『……』


 追いつめてくる残酷な事実を姉さんはしっかりと確認し、しばしその場に立ち尽くす。そんな姉さんを意識が朦朧としていた幼少期の俺は、何も分かっていない無邪気そうな顔でボーっと眺めていた。自分がどういう状況にあるのかさえ、忘れかけながら。


『……ふふっ』


『?』


 そんな俺の様子が滑稽だったのか、それとも別の理由か。

 ボケーッとした俺の顔を見下ろして、姉さんは小さく……そして慈愛に満ちた優しい笑顔でそっと笑う。そして――、


『……ごめんね』


『……?』


 そのままの優しさを込めて、姉さんは何かに謝っていた。


『ごめんね、晴馬。きっと、本当に貴方の事を考えるならこんな無茶はするべきじゃなかったよね。それは……薄々姉さんも気が付いてはいたんだ』


『……』


『出来っこないはずなのに、貴方は私が育てるーなんて無茶言っちゃって。結果、私はたくさん貴方からいろいろな物を奪ってしまった。もっとちゃんとした環境で生活していれば、きっと今の貴方は健康になれただろうし、こんな貧乏な生活もしなくてすんだ。そして何より……もっとちゃんとした「本当の幸せ」を知れたはずだった』


 ……姉さんは、何を、言っているんだろうか。

 本当の幸せ? 俺は不幸なのか? ……違う。そんなこと思ったこともない。自分が不幸だなんて、そんなこと一度も――。


『それは違うよ、晴馬。…貴方はね、ただ知らないだけなの。世の中にはささやかな幸せでさえ、もっと大きなものがたくさんあるってことを。貴方はもっと大きな幸せを知らない、だから今の不幸に気付けていない。……まあ、それも私のせいなんだけど』


『……』


『酷い話でしょう? 自分の弟から「不幸」の認識まで奪い取っちゃうなんて。……でもね、しょうがないの。だって姉さんは我が儘だから。知らなかったかもしれないけど、貴方の姉さんはすごーく我が儘だったのよ?』


『……』


『だからお父さんとお母さんにもたっくさん我が儘を言って、そして弟の貴方にもいーっぱい我が儘をしちゃった。自分勝手、って言われても仕方がないくらいに。それが悪いことだとは分かってるんだけどね……姉さん、我が儘だから止められなくて』


 そして、テヘッと言いたげないたずらっ気に満ちた表情をする姉さん。

 そのまま一呼吸を置いて……次に見せたのは、今までに見たことないくらいに優しさと儚さに満ちた表情だった。


 ……きっと、俺はその顔を死ぬまで忘れないだろう。

 だって、それは――、


『だからね……申し訳ないけど、姉さんは最後まで我が儘を言わせてもらうよ』


『……?』


『……晴馬。どうか、お幸せに』


『……姉……さん……?』




『元気でね』




『……、――ッ!?』


 瞬間、俺は宙を舞っていた。

 それが姉さんに投げ飛ばされたのだと気付いたのは、その数秒後。

 それに気付いた時には、俺はもう窓の外に飛び出し涼しい風にその身を包まれていた。……姉さんを取り残して。


『――――――――!!!!!!!!!!!!』


 声にならない声を叫ぶ。

 言葉にならない言葉を発する。

 されど、それは全て無意味に朽ちる。



 ああ、きっと俺はあの姉さんの顔を死ぬまで忘れないだろう。

 だって、それは――、




 俺が最後に見た、姉さんの顔だったのだから。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※











 それから、俺が高校生になるまでどうしたのかははっきり言ってあまり覚えていない。それは比喩でも大袈裟でもなく、本当に俺は大して覚えていないのだ。

 全部霧に包まれたみたいになって、思い出そうとしても思い出せない。

 一体俺はどんな小学校生活後半を送り、どのような中学校生活をしたのかまるで思い起こせないのだ。


 まあ、それもある意味当然だろう。何故なら俺はあの日、『命』以外の全てを失ってしまったのだから。

 善人ならば誰しもが持つ幸せになる権利も、俺が俺としてこの先を生きていく意義も、価値も、文字通り全て、何もかも。


 だから、きっとこんな壊れかけの人生に意味なんてものはもう無いのだろう。

 恐らく俺の……天宮晴馬の人生は、何よりも無意味で、無価値で、滑稽で、愚かで、そして醜いもののはずだ。

 


 ――だが、それでも決して諦める事は許されない。



 身勝手に終わらせる事も、自分勝手に諦める事も、決して俺には許されないし……許さない。


 だって、俺は姉さんに願われたから、願われてしまったから。

 『お幸せに』と『元気でね』と。


 なら生き残ってしまった俺はその願いに報いる他ないだろう。

 だから俺は、こんな壊れかけの人生でも、上っ面の笑顔と出来損ないの幸せを重ねて今日を生き続ける。『幸せになる』という夢を俺はどこまでだって追いかけ続けてみせる。


 願われた最後の祈りに報いる為に――

 例え俺の全ての幸せを踏みにじったとしても、俺は絶対にになってみせる。







【後書き雑談トピックス】

 ……と、そんな訳で。最弱勇者の英雄譚はこの「ハルマ過去編」、つまり第10『1』話からのストーリーをもってついに本格始動していきます。

(前置きに100話使うとかどうなってんだ)

 果たして、壊れかけの少年は異世界で『弱さ』を噛み締めながら何を得るのか。それは今後のお楽しみに。




 ……それにしても、一番大切な日であるはずの『誕生日』が同時に姉の『命日』でもあるとは何たる皮肉なのか。



 次回 第104話「森林の小屋」

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