第101話 瑠璃色の携帯電話
――高台の先。視線の奥に広がっていたのは、この世のものとは思えない程の絶景だった。
「うおお!!!」
バビロニアを出発してから早3日。次なる目的地である海王国を目指すハルマ達は、その途中に森の高台に辿り着いていた。
そこは今まで歩いていた鬱蒼とした森とは違い、視界が開けていてとても開放感が清々しい。だが今この場で注目するべきは何よりも、その先に広がる息を呑む絶景の方だろう。
高台から見下ろす視線の先。
そこに広がっていたのは――水平線までまでしっかり見える広大な海と、そこに沈んでいく赤々と燃える夕日だった。
つまり、それはまさに日の入りのその瞬間という訳である。
それは遠い水平線の上で、赤と青の混じる空と海の輝きがなんとも言えぬ神秘的な美しさを作り出していた。
「すっげえ……! 日の入りって、こんなに綺麗なもんなのか!!!」
「ああ、そうだよ。僕もたまに旅先で目にすることがあったんだけど。その度に何度も見ても心が癒されたものだ。しかし……その感じだと、ハルマは日の入りを見るのは今回が初めてなのかな?」
「そうだなー。まあ、元の世界はこっちと違って、そんなすぐに海がある訳じゃないんだよ。だからちゃんとした日の入りを見ようと思ったら、割とそれなりの準備が必要になんのさ」
「そうなのか……。やはり、そっちの世界もそっちの世界なりで大変さがあるんだね」
「そうだぜ。元の世界にはモンスターが居ないぶん、こっちにはない脅威がたくさん――と、この話は止めておこう。こんなこと話してたら気分が暗くなる。……にしてもホント凄いな。そうだ! せっかく何だし写真撮っておこう!」
「……シャシン?」
ルンルン気分でバッグをまさぐるハルマに対し、ホムラ達は聞き慣れない『シャシン』という単語に首を傾げる。
これは最近知ったことなのだが、どうやたこちらの世界には『カメラ』というものが存在しないらしい。故にホムラ達は『写真』と言われても何の事なのか分からないのである。
……まあ、正確に言うとハルマもカメラ自体は今は持っていないのだが、その代わりになるスーパー便利グッズがあるのだ。それは――、
「タッタラー♪ ガラケ~」
「……なんだ、そのドラ声。キモ」
「辛辣!?」
そう、ガラケーである。(スマホじゃねえのかよってツッコミは置いといて)
某青タヌ……もといネコロボのような声を出しながら、ハルマはバッグからガラケーを取り出して早速カメラモードをON。
普段ならバッテリーを気にして、あまりガラケーを使いたがらない彼なのだが……今回ばかりはそうでもないようだ。寧ろ今回はバッテリーなどなんのその、といった感じでパシャパシャと写真を連打連打である。どうやら余程の日の入りの絶景が気に入ったようだ。
……で、それはそれとして。もはや元の世界では定番と言える青ネコロボネタまで通じないのは少し寂しかった。ユウキはこのネタは使わなかったのだろうか?
「まあ、それは考えてもしかないか……。と。よし、絶景写真ゲッツ! ネットには上げられないから、とりあえず待ち受けにしておこう」
「……ああ、シャシンって何のことかと思ったら、それのことなのね。……確か、時間が切り取れる道具なんだっけ?」
「うーん……。確か前にも言ったけど、これはそこまで凄いものでは――ああ……でも、まあいいか。うん、そういう認識で問題ないよ」
微妙に間違ったホムラの認識。しかし、ハルマはそれを少し悩んだ末結局直さずに話を進めていくことにした。もちろん始めは正しく訂正しようかとも思ったのだが……よく考えたら、訂正したところでハルマも詳しい原理を良く知らないので、結局明確な写真の説明が出来なかったのである。
なので、ここはもう『時間を切り取るアイテム』としておくことに。別にそこまで大きな間違いではないし、これでもそう問題はないだろう。
……と思ったのだが、
「え? なんですか、それ。私そんなアイテム初めて聞いたんですけど。ハルマくんそんなスーパーアイテム持ってるんですか!?」
「……ん」
そりゃまあ、そんな大げさな言い方をすれば、初めて見る人は興味を持ってしまうことだろう。……具体的に言うと、シャンプーが凄いキラッキラした目でガラケーを見ている。
「えっと……。うん、まあこんな感じでね。切り取った時間を絵みたいに出来るんだよ」
「おお……! これは凄いですね!」
「そう? ……なんならシャンプーの写真も撮ったげようか?」
「え? ……えっと、それは大丈夫なんですか。魂とか取られたりしません?」
「おお……。やっぱどの時代のどの世界でも、写真見て思うのはそういう迷信なんだな……」
異世界でも写真を初めてみた人間は同じ反応をするということに、ちょっと謎の感動を感じるハルマ。元の世界とは遠く離れていても、根底の部分では繋がっているんだな……となんか変なしみじみ感を感じたのである。
「大丈夫、大丈夫。これはそんな怖い機能ないから。てか、そんなのがあるんだとしたらもう俺はとっくに死んでるよ」
「そ、そうですか。まあ、それなら……」
「……あれ? 確か……お前って、こっちに転生する時に1回死んだことあるんじゃなかったっけ?」
「あ」
「え?」
撮る寸前にジバ公の鋭い指摘が飛んでくる。
……そう、実はハルマはこっちに転生してくる際に1回死んでいる。つまり冗談ではなく真面目に『もうとっくに死んでいる』訳なのだが……。
「……」
「……って、違う! それは写真の影響ではないから! 普通に事故で電車に撥ねられたの!」
「……本当? シャシンの呪いとかじゃなくて?」
「そんな機能ないって! ……ないからね!?」
必死に弁明するもホムラ達は若干引き気味。
そもそもハルマ自体が説得力皆無過ぎるせいで、一ミリも写真の安全性を伝えることが出来ていなかった。……まあ実際、それが関係なくとも死んだことある人間に『死なないから大丈夫!』と言われても、まったく安心なんて出来ないだろう。
なんならハルマ本人だって、自分が言われる側なら間違いなく信用しない。
「分かった! じゃあ、ここれ俺が自撮りするから。 それで俺が何ともなかったら安全だって証明できるだろ?」
「え、いや……。正直言うと、そんな危ないことしなくても……」
「危、なく、ない! 幼稚園生でも普通に出来る行為ですから! 見てろ!」
「あ――!」
瞬間、その場に走る緊張感。
高校生の自撮りにここまで重苦しい緊張感が走ったのは、多分これが全ての世界を合わせても最初で最後だろう。
……自撮りするだけで命懸けの決戦! みたいな雰囲気になるなんて、流石にハルマも夢にも思わなかった。
「……! ……あれ? ハルマ、なんともないの?」
「ないよ。ほら、どっからどう見ても健全元気なハルマさんです! そうでしょう?」
「……うん、まあ、そうだね」
「ほらね? ……それじゃ、今度はみんなで写真撮ろうぜ!」
「「「「あ、それは遠慮します」」」」
「いや、なんでさ!?」
綺麗にハモるホムラ達。どうやらとりあえず安全とは分かってとしても、自分達がそれをする気にまではならなかったようである。
結果、ハルマの(疑似)命懸けの自撮りは無意味に終わったのであった。ちなみに自撮り写真はその後消した、なんかパリピみたいで嫌だったし。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
さて、そんな訳で写真拒絶されてしまったハルマは、絶景をバックにパーティ全員で集合写真を撮ることは出来なかった。
……これはハルマ的にはかなり残念だったようで、さっきから明らかに聞こえる声量でぐちぐちを文句を垂れ流している。
「悲しい、悲しいよ俺は。せっかくここにみんなでの思い出の一枚を残そうと思ったのに……」
「ごめんなさい、ハルマくん……。でも、流石に私も命は惜しいんです……」
「いや、だから死なないって。自撮りしても俺死ななかったでしょ? 結局ちゃんと生きてたじゃん」
「……お前は1回死んでるから大丈夫だった、という可能性を僕らは捨てきれないんだよ。そんな状態だから」
「なに、その考察!? ってか、そもそもこれがそんな特級レベルの呪具だったら今までの戦いでも使ってるでしょうが、もっと冷静に考えろよ」
「……ええ。でもなぁ……」
まだ疑わしそうな視線でガラケーをジバ公は睨む。どうやらハルマの説明&説得はよっぽど信頼されていないらしい。
あれからそれなりに時間は経っているのだが、4人ともカメラを受け入れてくれる様子はまったくなかった。てか、もう完全に特級の呪具扱いになっている。
……まあ、実際にはこんなので呪いの霊と戦ったら、まず間違いく殺されるのだが(一応使ってる人も居たけど)。
「くそ、まさかただの集合写真でこんなことにここまで苦戦すると思わなかった……。 ちくしょう……! てかユウキ、カメラくらいはちゃんと伝承しとけよ……!」
「いや、いくら何でもそれは理不尽過ぎるんじゃないかなぁ……」
「……というか、そういう言い方をするってことは、その呪具ってハルマの世界だと案外普通に手に入る物なの?」
「だから呪具じゃないって。……で、まあ買おうと思えば普通に買う事は出来るよ。今の時代、高校生……つまり、俺くらいの年齢ならほぼ全員持ってるし、小学生……えっと、つまり7、8歳の子でも持ってる奴は持ってると思う」
「……なに? ハルマの世界って戦争でもしてるの?」
「してないよ!? 寧ろ去年で終戦から75年経ってるくらいに平和な国だよ!?」
「……なるほど。もうみんな、正面からの全面戦争じゃなくて、陰ながらの呪殺に移行してるって訳なのね」
「君、頑なに俺の話を聞き入れないね?」
どうやら、もう完全にそっちの方向性で思考が固められてしまったらしい。
その証拠にさっきからずっと説明しているのに、ホムラ達はこっちの言っていることを一ミリも聞き入れてくれる様子がなかった。
……いや、てか普通にどんな世界だよ。子供が当たり前のように呪具持ち歩いてる世界って。なんか全面戦争が起こってる世界よりある意味怖いわ。
と、そんな訳でホムラ達に『ハルマの元の世界ディストピア説』が浮かび上がっていくなか……シャンプーが一つ、何気なく質問してきた。
「えっと、ハルマくん」
「ん?」
「その、じゃあハルマくんもそれは自分で買ったんですか?」
「え? ……あー、えっと」
「……?」
それは、シャンプーにとっては別に深い意味があった訳ではない、言葉の意味のままの質問だったのだが……ハルマにはその質問に対し、何か思うことがあったのだろうか。その質問を聞いてハルマは少し微妙な表情をして何かを考え込んでしまった。
……だが、それはほんの一瞬だけ。その後、またすぐにいつもの調子を何事もなく取り戻す。
「……あ、ごめん。えっと、それで? これをどうやって手に入れたのか、だっけ?」
「あ、えっと、そうなんですけど……。……大丈夫でしたか? もしかしたら私はなにか良くない質問を……」
「いや、全然そんなんではないから大丈夫! ……良し。せっかくだ、この機会に『俺の宝物 ~ガラケーの秘密だニャン!~』をみんなに語ろうじゃないか!」
「……」
すっかりいつものテンションに戻り、さも演説を始めるかのように振る舞うハルマ。その様子に対しホムラ達は、まだ少しさっきのつっかかりがまだ若干に気にはなっていたが……今は特になんともなさそうなので、とりあえずはそのまま話を聞くことにした。
「んん。では、さて皆さんご立会い。今から語るは俺のガラケーのその秘密でございます。この珍しい瑠璃色のカラーリングをしたガラケー。……実はこれ、ちょっーと特別なアイテムなのです。それは――」
「……それは?」
「実はこれ、俺が初めて貰った誕生日プレゼントなんです!」
「……、……へ?」
「え? 『へ?』って何さ? ……なんか俺変なこと言った?」
「いや、そうじゃないけど……。『特別』なんて言うから、なんかもっと凄い何かなのかと思っちゃった」
「ああ、そゆこと。いや、残念ながら機種自体はちょっとカラーが珍しいってだけで、別にどこでも買えたフツーのガラケーだよ。まあ子供の誕生日プレゼントだし、そんなに高いのは買わないわな」
実際、それは別にプレミア版とかでもない。本当に何処にでも売っていたガラケーなのである。今の時代では完全にスマホに時代が移行したので、買いにくいかもしれないが。
「なるほど、初めての誕生日プレゼントか。確かにそれは大切な物、宝物と言っても過言ではないね。……ちなみに、それは誰から貰った誕生日プレゼントなんだい?」
「ああ、これは姉さんがくれた誕生日プレゼントなんだ。貰ったのは小1……じゃなくて7歳の頃。姉さんから『いつでも話ができるように』って理由で貰ったんだよ」
「へえ……それはまた随分仲の良い姉さんだな。……てか、ハルマお前お姉さん居たんだ」
「そう、実は居るんですよ。……前にホムラには話したけどね」
「うん、知ってるわよ。私の兄さんくらい良い人だったんでしょう?」
「そうそう。……まあ、俺まだホムラの兄さんのことはよく知らないけど」
まあ、それに関してはホムラに聞けば教えてくれそうだが……。
多分ホムラに兄トークを始めされたら最低でも3時間は話が続くような気がしてならないので、今のところは聞かないでおいているのである。
……流石にハルマもそんな長時間話を続けるのはキツい。
「……と、まあそんな訳で! 答えとしてはこのガラケーは姉さんから貰ったもので、俺にとっては初めて貰った誕生日プレゼントという宝物なのでした! ……で、そんな宝物にぜひみんなとの思い出も記したいと思いましてね?」
「「「「いや、それは遠慮します」」」」
「デジャヴ!?」
本日2回目のハモり。
ガラケーがハルマにとってとても大切なものであると知っても……やはり命に関わる問題は少し怖いホムラ達なのであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
さて、結局訪れた高台でそれなりにガラケートークを弾ませたハルマ達は、今日のところはそのままそこで野宿することになった。
みんなの意見的にも流石に夜の森を歩くくらいなら、視界も開けていてそれなりには快適なここで野宿する方が良い、となったのである。
そんな訳でハルマ達は気持ち良い風を浴びながら、各々の眠りについていた。
そんななか、ハルマは――
―???―
『ほーら! 弱虫ハルマ! 取れるもんなら取ってみなー!』
『くそ……! 調子に乗りやがって!!!』
……目の前に広がる光景に、ハルマは一瞬何が起こったのか理解出来なかった。
先程までとは全く違う元の世界の街にありそうな公園のような場所、自由に動かないどころか勝手に動く身体、そしてどこか見覚えがあるような気はするが明確思い出せない目の前の少年……。
と、一見あまりにも不可思議な状態に陥ったかのように思えたのだが……冷静に考えればそれはそう騒ぐほどのことでもなかった。
なぜならこれは、
(ああ、夢か)
そう、これはただの夢なのである。
一瞬あまりにもリアルなので困惑したが、別にどこかに転移したという訳ではなかった。なぜなら目の前に広がる光景は夢は夢でも過去の夢、つまりハルマの昔の記憶なのだ。
(さっき、ガラケートークしたからかな?)
多分あれでいろいろと昔のことを思い出した結果、こんな夢を見ているのだろう。まったく……なんとも影響を受けやすいものである。まさかこんな一瞬で分かりやすく反映されるとは。
……だが、まあ見てしまっているものはしょうがない。
どうせ夢であることに変わりはないのだ、なら目が覚めるまで見届けていくとしようじゃないか。
さて、そんな夢は今どんな場面なのかというと……。
『ほらほら! 返してほしいんじゃないのか?』
『この! ズルいぞ、お前!!!』
まだ6、7歳の頃の俺が意地悪をされている場面だった。
相手は俺より頭一つ大きい大柄な坊主頭の少年。何があってこうなったのかはもう覚えていないが、俺はどうやらその少年に帽子を盗られてしまったようである。
それを俺はなんとか取り返そうとするのだが……なかなか上手くいかない。
『やーい、ノロマ! お前、それで走ってるのか?』
『うるさい!』
走れば走る程に距離が開いていく俺と少年。まあ、それは当然そうなるはずのだった。理由は簡単、……前にホムラには言ったが俺は小さな頃は病弱だったのだ。
姉さんの話では俺は生まれた時に死に掛け、赤ん坊の頃も何度も死ぬ寸前までいったらしい。
まあそれでもなんとか生き延びて、無事物心が着く年までには成長は出来たのだが……。それでもまだまだ俺は弱い子供だった。
病気なんて毎年のようにしていたし、小学校もよく休んでいた。おまけに体育なんてした日には必ず倒れるくらいに体力もない、そんな脆弱な子供だったのである。
そんな俺が、あんな運動得意そうな少年に走って追いつけるはずもないのは当然だ。まあ、それを分かったあの少年もやっていたのだろうけど。
『ははは! そんなんじゃ一生掛かっても追いつけないぞ!』
『黙れ……! この弱い者イジメしか出来ない卑怯者が!!!』
『……あ?』
『――ッ!』
まだ小1の割りにはキレの良い罵倒をする俺。
その語彙力には関心するが……この状況でそんなことを言ったらどうなるのかまでは想像出来なかったのだろうか。
……この場でそんなことを言ったらどうなるか、答えは一つ。罵倒された少年は素直に怒り、俺に殴りかかろうとするだろう。
実際、目の前の夢の光景でも、
『なんだ、お前。弱いくせに生意気だぞ』
『なんだよ……。殴るってのか、まだ口でしか言ってないのに』
『うるせぇ!』
『うっ――!』
その通りになっていた。
身勝手で教育のなっていないイジメっ子に口論を仕掛けてに意味がない。なのだが、幼少期の俺は無意味にもそれをしてしまい、怒りを買って殴られてしまったのである。
俺もなんとか抵抗し、抗戦しようとしているが……まあもちろん手に負える相手なはずもなかった。まあ、病弱な少年VS大柄なイジメっ子なんて勝負になってしまったら、そうなるのは当たり前なのだが。
『弱いくせに生意気なんだよ、お前! こないだもお前、俺のこと先生にチクっただろ!!!』
『あ、当たり前だ……。お前が悪いんだから……、自業自得だろうが……』
『うるせえ! お前、そのせいで俺がどれだけ怒られたか分かってんのか!』
大柄な少年はそのまま俺を突き倒し、馬乗りになって殴りかかる。
普通ここまでくれば誰かが止めに入りそうなものだが、なんとも状況の悪いことにそこは建物の物陰。人目に映らない場所なので、なかなか誰も止めに入ってこない。
『うっ――! ぐっ――!』
そのまましばらく、俺が少年に殴られる状態が続いていたのだが……。
次の瞬間、突如としてその場にハリのある女性の声が響いた。
『ちょっと!? 何してるの!?』
『――! やっべ!』
『な、貴方! また晴馬を!!! ちょっと、もう今日という今日は許さないからね!』
『い、いや、違……俺は……!』
『違わない! 今、この目でしっかりと見ました!!!』
『……!』
女性の有無を言わさぬ発言に、少年は分かりやすく青ざめる。
そのまま彼はスタコラと逃げ出していったのだが……まあ、多分そのまま逃げ切れはしないだろう。今の状況からして、きっとこの後で親と先生にたっぷりと叱られるはずだ。……まあ、その辺りは覚えていないので、もうどうなったのかは分からないのだが。
さて、そんな逃げ出していった少年を女性は少し苛立たし気に睨んでいたが、すぐにその視線は少年から倒れ込む俺に移された。
そして、今度は先ほどとは打って変わった優しい口調で俺に話しかける。
『晴馬、大丈夫!?』
『……大丈夫。別に、そんな痛くないし』
『強がるんじゃないの! ああ……酷い、顔腫れてるじゃない……。服も泥だらけだし……』
『……』
『ちょっと待って。とりあえず顔を冷やさないと……』
そう言って、女性はサッとハンカチに包まれた保冷剤を取り出し、腫れた己の頬に優しく当ててくれた。
そしてそのまま女性は俺の目を真っすぐに見て、どこか少しだけ呆れたような口調で、しかしやはり優しく話しかえる。
『晴馬、貴方また逃げなかったんでしょう? ……いつも言ってるじゃない、悔しいのは分かるし、確かに悪いのは相手。だけど、それでも貴方じゃ勝てないんだから素直に逃げなさいって』
『そんなの嫌だよ。だって、確かに僕の方が身体は弱いかもしれないけど、それでも心は絶対に僕の方がアイツよりも強いんだもの。だから、あんな弱い者いじめしか出来ない奴から逃げるなんて絶対に嫌だ』
『もう、本当に頑固なんだから……。本当、晴馬のそういうところお母さんにそっくりね』
そう言って、今度は反対の頬を冷やしつつ女性は俺の顔の泥を拭っていく。
この、俺に優しくしてくれる女性が誰なのか……それはもう言うまでもないだろう。
……この女性の名前は天宮秋葉――つまり、俺の姉さんだ。
俺より7つ年上の姉さんはこの時には14歳。
しかし、姉さんは父さんと母さんが小さい頃に亡くなったせいか、異様なまでに大人びており、今の俺から見てもとても14歳には見えなかった。
真っすぐを綺麗に伸ばされた綺麗な黒髪に、大人びた雰囲気がありながらも優しい顔つき。そしてそんな姉さんの声は俺の中の刺々した感情を丸めてしまうかのような、柔らかさがある。
身長だけは年相応といった感じだが、それ以外はもうどこからどう見ても大人そうのものだ。なんなら背が低いと言えば普通に大人と誤魔化せそうなほどに。
『……はい、これで応急処置は終わり。ここからは家に帰ってからするからね。……それで晴馬、歩ける?』
『いや、流石にそれくら……、……』
『無理じゃない。なら、しょうがない。はい、捕まって』
『……ごめんなさい』
『別に謝らなくても大丈夫よ。晴馬は軽いからね』
ニコッと優しい笑顔を浮かべ、姉さんは俺を軽くひょいとおぶってしまう。そしてそのままその柔らかい声で何かを話しながら家へと歩き始めた。
……ああ、やはりそうだ。
これの夢は過去の記憶だ。かつて俺が見ていた光景、かつて俺がいた場所をこうやって他人目線で見ているのである。
ああ、しかし――ダメだ―――。
やはりどうしても―――どうしても思ってしまうことがある。
俺はどうしても――姉さんのあの優しい声を聞いていると―――いると――
――死にたくなる。
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