~可憐! 君たちが望んでも、もう遅い~
大人が泣くのを、あたしは初めて見た。
「おや。これはこれは懐かしい人がいますね」
そう言って神殿の奥から出てきたのは孤児院の先生だった。あたしも知ってるおばあちゃん先生で、いつも優しかったのを覚えてる。
あたしの事を助けようともしてくれたけれど、でもダメだった。さっき声をかけてくれた神様だって、あたしを助けることができなかったのだ。おばあちゃん先生にも無理だったに違いない。
そんな先生が、懐かしい人と言った。
はじめはあたしのことかと思った。
でも違った。
先生の視線はあたしじゃなくて師匠に向いていた。
「……せんせい」
師匠は顔をくしゃりとさせて、くちびるを震わせた。
「おやおや、泣き虫は治ったと思ったんだけど。ひとりで帰ってくるほど寂しかったのかい?」
師匠は首を振る。
帰ってきた?
師匠は旅人で、誰かといっしょだったのだろうか。
「せ、せんせい」
震える師匠の声。その瞳からはポロポロと涙がこぼれていた。
師匠は泣いていた。
大人が泣いてる姿を、あたしは初めて見た。
悪い意味で泣く人を――人生に絶望したり、失敗したり、暴力をふるわれてボコボコにされて路地裏で泣く大人は何人も見てきた。
でも。
良い意味で泣く大人は、路地裏にはひとりもいなかった。
だから。
師匠が泣く姿は、どこか安心してしまったような気がする。
泣いちゃいけない。
泣いたら負けだ。
それは、世界の常識だと思ってた。
泣いたら終わりで、泣いたところで誰も助けてくれない。
それは無駄な行為であり、無駄に弱さを見せるだけのもの。
神様が与えた失敗。
そんな風に、聞いたことがある。
でも。
師匠はポロポロと涙を見せて、あたしの横で膝をついた。
「覚えてて、くれたんですか」
「当たり前じゃないの。あなた達が旅に出たその日から、毎日ラビアン様に旅の無事をお願いしていたんですもの」
おばあちゃん先生が神殿でいつも祈りをささげていたのを見たことがある。
それは孤児院の子ども達の無事と未来を祈っていたはず。でも、その中には師匠も含まれていたんだ。
その事実を知って、師匠は笑顔になりながら、やっぱり泣いていた。
「師匠、大丈夫ですか?」
「す、すまん、パル。ごめん。どうしようも、ない……」
みっともないだろ、と謝る師匠にあたしは首を横に振った。
「大丈夫です」
あたしは師匠がいつもしてくれたように、師匠の頭をなでた。頭をなでられると、落ち着くというか、気分が良くなる。
ここにいても良いんだ、みたいな気持ちになれるから好き。
だから師匠の頭を撫でた。
「あなたは……もしかしてカーエルレゥム――」
そんなあたしを見て、おばあちゃん先生が言った。
「――」
あたしは首を横に振る。
「パルヴァスです。あたしは、あたしの名前はパルヴァスです。エラント師匠の弟子です」
そう……言い切った。
戻るつもりもないし、戻れるはずがない。
だから、あたしの名前はパルヴァスだ。
もう、その名前の子どもは孤児院なんかにいない。この世に、カーエルレゥムはもう存在しない。
「パルヴァス……分かったわ、パルヴァス。それからエラント……そう。あなたは今、エラントなのね」
「はい、先生」
おばあちゃん先生がゆっくりと歩いて来て、師匠の前に屈んだ。いつも、あたし達に視線を合わせてくれて、話をしてくれる。話を聞いてくれる。
いつもそうしてくれたように、先生は師匠の前でも同じように目線を合わせた。
「何も泣くことはないわエラント。あなたが無事だったのですもの。ということは、あの子も無事なんでしょう?」
「はい。でも、俺は……俺だけ、ひとりで……すいません、ごめん、なさい……先生」
「いいのよ、いいの。誰もあなたを責めないし、ラビアン様だって許しているもの。責める者は誰ひとりいません。責められる人だっていないわ。ねぇ、そうでしょう?」
師匠は先生の言葉にうなづく。
あたしには、師匠に何があったのか知らない。それでも、師匠がひとりで帰ってきたのを、後悔しているのはちょっと分かった。
あんなに凄い力を持っているのに、師匠はどうしたんだろう?
仲間がいたのに、そうじゃなくなったんだろうか?
分からない。
分からないけど――あたしは、師匠のおかげで今、ここにいる。誰かが師匠の心を傷つけたおかげで、師匠はこの街に帰ってきて、それであたしはお腹いっぱい食べることができた。
師匠の弟子になって、助けられた。
――なんだか複雑な気分。
「……ぁ」
だからこそ、神殿奥からこっちを見てきた視線に応えることにした。
師匠だって弟子に泣いてる姿を見せたくないはずだ。
席を外す、というんだっけ。
あたしは神殿の奥、光の精霊女王の像が立つその横にあった回廊へと進んだ。
「こっち来い」
そこにいたのは……孤児院の少年たちだ。
薄汚れたそろいの制服を着た少年が三人、あたしを呼びつけていた。
回廊を先に歩く少年の後を歩いていく。
その先には中庭があり、綺麗に手入れされた花壇があった。孤児院の憩いの場所でもあり、何もする事が無い時は、よくこの中庭に座っていたのをおぼえている。
今は孤児たちの姿もなく、あたし達だけだった。
「ここなら神様も先生も見ていない」
少年の中で、ひとりが立ち止まって言う。
神様は見てると思うけどな。
あたしは空を見上げる。天井なんて無い、青空が見えていた。もちろん、そこに天井があったとしても、神様は見てくれている。
でも、何もしてくれないけど。
光の精霊女王さまは、あたしを見守っていてくれたけど……助けてはくれなかった。
助けてくれたのは師匠だ。
だからあたしにとって、神様じゃなくて師匠が一番だ。
「おまえ、帰ってきたのか?」
空を見ていた視線を戻す。
ニヤニヤと、少年が笑っていた。
あたしは首を横に振る。
「帰らない」
「ふん。おい」
「へへ」
少年が命じると、他のふたりがあたしに近づいてきた。取り囲むように後ろに回る。
師匠は……しばらく先生と話してるはずだ。
いま、この場に大人の姿は無い。
あたしと、こいつらしかいない。
「いい服着てんじゃん」
「誰に買ってもらったんだ? さっきのおっさんか?」
にやにやと笑いながら、少年ふたりがあたしの左右の後ろに移動する。
嫌な気分だった。
さっき食べたお昼ごはんの美味しいサンドイッチが、全部戻ってきそうになるくらいに、嫌な気分だった。
「そうよ。あたしの師匠に買ってもらったわ」
「ふん。なにが師匠だ。おまえは何も出来ない。俺たちが飼ってやるんだからな」
あたしは鼻を鳴らした。
孤児院に残り続けて、何もしていないくせに。弱い人間から奪うことしかできないくせに。先生からコソコソと隠れるだけで、なにもできないくせに。
そんなおまえらに――
――何ができるって言うんだ。
「あやまったら許してやるぞ」
「あたしがあやまるんだ。なんでよ? あやまるのはそっちじゃない?」
「は?」
あたしはニヤリと笑った。
「あ~ぁ、昨日お腹い~っぱい食べた美味しい美味しいコーンスープ、また食べたいなぁ。ぶ厚いお肉もあってさ、噛んだらじゅわ~って美味しい肉汁が出てくるの。サラダだって美味しかったな。カリカリなパンみたいなのが乗ってて、野菜なのにそれと一緒に食べると美味しいのよね。なんでもない、ただのゆで卵がさ、半熟でトロ~って溢れてきてさ。今まで食べたことのある卵って何だったのってびっくりしたよね。あぁ~、孤児院なんかにいたら、一生食べられないでしょうね」
あたしは、ことさらに自慢するように。
美味しい美味しいごはんの話を、貧しい貧しい孤児たちにしてあげた。
そう。
おまえ達が一生食べられない豪華な夕飯だ。
あたしが、泣きながら食べた、世界で一番美味しかった夕飯の話だ!
「な、何が言いたい」
「もうおまえらと話すことなんて何も無いってことだ!」
「おまえら、おさえつけろ!」
あたしは師匠にもらったナイフを背中から抜く。そのまま練習していた魔力糸を指から出した。
ぶっつけ本番!
でも、できた!
まだまだ太いけど、毛糸みたいにモケモケで太いけど!
でも、強度は充分にある!
ナイフの柄に開いてた穴に通して、あたしは即席の武器を作った。
「うわ!?」
それを振り回し、頭上で回転させる。
近づいてきたら、自動的に切れてしまうから、簡単に近づけない。
「ひ、卑怯だぞ!」
「女の子相手に三人で来るほうが卑怯だ! あたしは! もう二度と! おまえらなんかに! おまえらなんかにぃ!」
泣くのは恥ずかしいことだと思ってた。
泣いたら負けだと思ってた。
でも。
大人が泣いているのを初めて見た。
あたしが世界一だと思ってる師匠が、泣いていたんだ。
感情を抑えなくてもいいことを、さっき見た。
あたしは泣いた。
昔々、孤児院であったことがいろいろと浮かんできて、思い出してしまって。
あたしは泣いた。
「うわああああああああ!」
もう二度と。
あたしは、屈しない。
ぜったいに。
屈しない!
目の前の、名前を覚えたくもなかった少年たちに屈しない!
誰も助けてくれなかった孤児院の子ども達に屈しない!
あたしは。
あたしは勝ったんだ!
逃げたんじゃない。
負けたんじゃない!
師匠を見つけて、師匠との駆け引きに勝って、弟子になった!
あたしは!
あたしは人生の勝負に勝ったんだ!
だから!
だからぁ!
「そこまでだ」
いつの間にか師匠が横に立っていた。
音も無く、気配も無く、魔力糸を使って振り回していたはずのナイフを、いとも簡単に掴んで師匠はあたしの隣に立っていた。
「――帰るぞパル」
師匠はそれだけ言うと、ナイフをあたしに返してくれた。ううん、本当は師匠の投げナイフだから、もう一度あたしに持たせてくれた、が正確だ。
「……はい」
あたしはうなづいて、ナイフをホルダーにしまった。
「そ、そんなおっさんに股開いて、こびてんじゃねーぞビッチが!」
少年が言った。
あたしは師匠の顔を見る。
おっさんより、お兄さんって顔だけど。
師匠は少年の言葉に動じることなく、肩をすくめた。
だけど――
「ふ」
ニヤリとあたしにだけ分かるように笑って見せた。
どこか、子どもみたいな笑顔。
今まであたしが見てきた大人たちは、ぜったいに浮かべることのなかった……イタズラっ子みたいな笑顔で、あたしを見た。
「来い、パル」
「はい」
師匠はあたしを抱き寄せると、わざとらしくあたしの胸をさわりながら抱き上げた。
「残念だったな、おまえら。こいつは俺の物だ」
「なっ!?」
驚く少年たちの顔を見て、師匠はくつくつと悪そうに笑う。どう見ても演技だけど、師匠と面識が無かったら分からないかもしれない。
まるで強欲な商人みたいな顔。
これも盗賊スキルのひとつなのかもしれない。
だからあたしも乗っておくことにした。
「あん。師匠、見られると恥ずかしい」
「なんだ、見せつけてやろうかと思ったんだけどな。仕方ない、たまにはお姫様の言うことも聞いてやるか」
師匠はそう言うと、少年たちにくるりと背中を見せて移動する。
「ま、待てよ! 待てカーエルレゥム――」
「その名であたしを呼ぶな!」
あたしは師匠に抱かれたまま叫んだ。
「あたしの名はパルヴァスだ! 薄汚い孤児が、もう二度とその名前であたしを呼ぶな!」
「――」
返事は無かった。
答えもなかったし、応えもなかった。
だから。
あたしと孤児院は、これっきりで。
もう二度と縁を結ぶことのない場所になった。
「師匠」
「なんだ?」
「……ありがとうございます」
泣きながら、あたしは言った。
「どういたしまして」
師匠も。
ちょっぴり泣いていた。
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