闇を喰らう口

 愛美まなみの、少しゆがんだ半開きの口を見ると、僕はどうしても舌を入れたくなる。この口をしているとき、愛美の瞳はうっとりとぬれていて、淫乱だとか、あばずれだとか、時代遅れの言葉が頭に浮かぶ。


 男を性的に挑発する女のことを、今なら、そんな蔑称を使わずに、セクシーとか魅惑的だとか言うんだろう。でも、僕は、卑わいに開いたこの口を、そんな上品な言葉で形容したくない。


 僕がその口に舌を入れると、愛美は簡単に、さっきの女でなくなる。柔らかく開いて、立っていられないくらいに溶けた愛美を、僕は抱く。めちゃくちゃに抱いて欲しいとせがまれるので、僕はそうする。愛美が壊れたりしないように、とても神経を使う。身をゆだねているのは愛美なのに、支配されているのは僕のほうだ。


 でも、愛美を抱いているときだけ、僕は生きる価値のある人間になった気がする。


 愛美が満足げに僕のとなりに横たわるとき、そんな気持ちは幻想なのだと思い知る。僕は、愛美を抱いて幸福だと感じたことがない。幸せな夜なんてものは、恋だとか愛だとかいう、高尚な感情を持つ人たちの特権だ。


 服を着て帰るとき、愛美は「またね。」と言って笑う。その口元は両方の口角がきっちりと均等に上がっていて、高価な人形のように、すましている。それは、みんなが知っている愛美で、そこに、僕だけが知っている愛美はもういない。


 その整った顔を見るとき、強い感情が湧き上がるけれど、なんという感情なのかよくわからない。焦燥。怒り。軽い殺意。それらを混ぜたような、でもそのどれでもないもの。僕のアパートのドアがバタンと閉まり、愛美の姿が見えなくなると、僕はすでに、あのゆがんだ口がまた見たいと思っている。


「ねえ。私、大連だいれんに行くことにしたの。」僕のアパートで、そう言った愛美の口は、例によって半開きだ。考える前に体が反応して、僕はその口を自分の口でふさぐ。ふさいだ口の奥のほうから、「ん」と声にならない声が聞こえる。今夜は、この声だけを聞いていたい。愛美の、次の言葉は聞きたくない。


「プロポーズされたのよ。大連に一緒に来ないかって言われて、ついて行くことにしたわ。」終わった後、ベッドに横たわった愛美が言う。僕が聞いてもいないのに。


「言葉は話せるの。」と僕が聞くと、「ええ。」と愛美は上品にほほ笑む。


「私は得意だもの、そういうの。あっちの日本人とも、地元の人とも仲良くできるわ。」そう言う愛美は、僕とは違う世界の住人のように、よそよそしく見えて、僕は不機嫌になる。


 みんなが知っている愛美は、正しいことしかしない。いい大学を出て、いい会社に就職して、将来有望な恋人がいて、もうすぐ結婚する。新天地ではたくさんの友人を作り、白いカーテンのゆれる応接間で、正しく淹れられたお茶を一緒に飲んだりするんだろう。


 愛美が、僕みたいなロクでもない前科者に惹かれる理由を、僕は知っている。昔、映画館のとなりのバーで働いていたころ、客としてやってきた愛美と、たまたま二人きりになった。そのとき、僕が人を殺したことがあると教えたら、「どうやって?」と愛美は聞いた。その目は好奇心で鈍く光っていて、くちびるはよだれが垂れそうなくらい湿っていた。愛美のまわりには、僕みたいな闇を持っている人間がいない。愛美は、僕の闇を喰らいに、僕のアパートにやってくる。


 愛美が僕の闇をおいしそうに咀嚼するとき、僕は救われた気になる。でも、愛美が去った後は、苛立ちのようなザラザラとしたものだけが残る。そうだ。愛美は淫乱でもあばずれでもなくて、ずるいのだ。なんでも持っているくせに、退屈しのぎに僕を訪ねてくる愛美のずるさを想うとき、僕はとがった感情に胸をチクチクとさされる。


「大連になんか行きたくない。」ある夜、僕がアパートのドアを開けると、ドアの前に立っていた愛美からいきなりそう言われた。その目は下を向いていて、口は引き結ばれていた。半開きでも、均等に口角が上がった口でもなかった。僕が見たことのない愛美だった。


「入れば。」と僕が言っても、愛美はドアの前で硬直して動かない。「大連に、行きたくないの。」と愛美はもう一度言った。


 愛美は、気まぐれに僕に会いに来ているんだと思っていた。でも、もしそれが僕の勘違いだったとしたら。あのすました笑顔の愛美は、ちっとも幸福なんかじゃなくて、ほんとうは窒息寸前だったのだとしたら。愛美を抱いているときだけ、僕がまともに呼吸ができていたように、愛美も僕の闇を食べることで、やっと生きていたんだとしたら。


 僕は、きつく結ばれた口に、ふれたいと思った。本当はずっと、あのすましたくちびるにだって、舌をはせたいと思っていた。僕がさわってもいいのは、物欲しそうに半開きになった口だけなのだと思い込んでいた。


 僕は、愛美を抱き上げてアパートの中に入れた。ベッドに座らせてから「僕と一緒になるか?」と聞いた。愛美は口をぎゅっと結んだままコクンとうなずくと、泣き始めて「ごめんなさい。」と言った。「私、あなたと一緒じゃないと、生きていけない。」


 僕は、今まで見たことのない形をした愛美の口を、そっと舐める。愛美には、まだ僕が知らない口がたくさんあるんだろう。いつか、この口が所帯染みて、僕に小言でも言うようになってくれたら。それはとても幸福なことのように思われた。


 愛美が僕の闇を喰らい、僕は愛美に闇を食べてもらう。そうやって二人、パッとしない人生を、とぼとぼ歩んでもいいのかもしれない。そうやってしか生きていけないんなら。


 恋や愛というものは、もともと高尚なものなんかじゃないのだろう。僕はその夜、愛美を抱いて、初めて幸せだと思った。



(了)


追記:以下の条件で書いた作品です。

『幸せな夜』『映画館』『白いカーテン』『声』『抱き上げる』からひとつ言葉を選んで、薄紫な物語を作る。

(ひとつではなく、ぜんぶ入れてしまいました。)

https://kakuyomu.jp/users/matsuko0421/news/1177354055047987260#comment-1177354055054034180


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