ぶらんこに乗ったおじさん
バラクラバをかぶるのは、顔を虫さされから守るためだ。防寒にもなるし、持ってきてて、ほんっとよかったって思う。
寝袋と、着がえの入ったボストンバックを一つ。でたらめに電車に乗って、名前も知らない駅でおりた。
駅からちょっと歩いたところにある公園で、小さい大人が一人ぎりぎり入る大きさの、トンネルの遊具を見つけた。その夜、寝袋に入って、バラクラバをかぶって、トンネルの中で一泊した。誰にも見つからなかったから、次の日も同じように公園で寝た。今夜も、またそうしようと思ってる。
家を出るとき、「捜さないでください。」とよくある文を紙に書いて、「連絡は取れませんよ。」という意味をこめて、私の携帯電話を
「おまえは、ホントにバカだよなぁ。」て夫に言われるのが、昔はちっとも嫌じゃなかった。そこには愛があったと思う。結婚して二年。同じことを、心底うんざりした顔で言われるようになって、私はだんだん小さくなっていった。
顔がかわいいだけのバカ女。
おぼっちゃん育ちの夫は、そんな品の悪い言い方をしないけど、私のことをきっとそう思ってる。いや、もう今は「顔がかわいい」とすら思われてない気がする。
どんなバカでも入れる短大を適当に出て、資格も特技も将来の夢もないまま、合コンで出会った彼に気に入られて、プロポーズされた。
すごろくの「上がり」だと思った。宝クジに当たった気分だった。ほんっとにバカだった。大しておもしろいことも言えないし、料理も得意じゃない。結婚してから半年もしないうちに、夫は私に冷めた。なんとかしようとがんばったことは、ぜんぶ裏目に出た。
自分の存在がめちゃくちゃ小さくなったころ、夫が帰って来たドアの音を聞いて、私は過呼吸になった。近くにあったビニール袋を口にあてて、自分でなんとかした。台所の床にヘタりこんで、もうろうとしたまま「おかえりー」と半笑いした私を、夫はあきれ返った顔で見下ろした。その顔を見て、「私、この家にいたら、いつか死ぬ。」と思った。その夜、私はサイフと寝袋とボストンバック一つ持って家を出た。
昼間は、散歩したり、図書館に行ったりしてヒマをつぶす。寝泊まりしてる公園には、起きてる時は極力いないようにしてる。ときどき、自分の将来を思って、「うわーっ」てなるときがあるけど、家に帰る気にはならない。
今日は銭湯に行って、コインランドリーで洗濯した。お金はまだある。夫と別の、私名義の口座作っといて、ほんっとよかったって思う。
夜、公園に誰もいなくなったのを確認してから、トンネルの中に入る。夜八時に寝て、朝四時に起きた。起きて公園の水道で歯をみがいたら、すぐに公園を出る。めだたないところにあるからか、今のところ、私が寝ている間に誰かが公園に来たことはない。
*
公園に泊まり始めて三日目の夜、ぶらんこがキイキイする音を聞いて、私は目を覚ました。誰か人が来たのかな。腕時計を見ると、夜九時をちょっとすぎていた。ドキドキしながら、トンネルの中からそっと外をのぞいた。スーツの上にコートを着たおじさんが、ぶらんこの上にちょこんと座ってた。携帯をいじるでもなく、夜空をずっとながめたまま、おじさんは二時間くらいぼーっとして、帰ってった。寒くないのかなぁって思った。
おじさんは、定期的にやってきた。毎日じゃなかったけど、二日か三日に一回くらいのペースで、ふらりと公園に来て、ぶらんこに座って、長い間ぼーっとしてから帰った。「家に帰りたくないのかな。」と思って、勝手に親近感がわいた。おじさんを
公園で寝泊まりするようになって二週間くらいたったころ、いつも通り、そのおじさんはやってきた。あいかわらず、ぶらんこにちょこんと座って、キイキイゆらしながら空を見てた。そのとき、ワンワンと犬の鳴き声がして、私はビクッと起きた。トンネルの足元のほうに、その犬はいて、私のほうにむかって吠えた。
野犬だ、と反射的に思って、私は寝袋から出て、くつもはかないでトンネルを出た。私が走ると犬は私を追っかけた。こわくて無我夢中で走ってるうち、ころんで、ひざをすりむいた。
「待て!」と低く通る声がして、犬がピタッと止まった。ぶらんこに乗ってたおじさんだった。おじさんは、犬に走りよると「いい子だ。」と言って犬の頭をなでた。
*
私は今、おじさんの家にいる。犬は近所の飼い犬だったらしく、探していた中年の女性が、ペコペコとおじさんに頭を下げて引き取って行った。ひざをすりむいた私は、おじさんの家で手当てをしてもらうことになった。
「女性が、あんなところで一人で寝てたら、危ないですよ。」とおじさんは言った。ごもっともだ。おじさんは、五十代後半に見える。中肉中背より、やや背が低い、小さめのおじさんだ。
事情があるのだろうと察してくれたのか、「今日はここに泊まっていきなさい。」と言って、和室が二間しかないアパートに
そこから、私とおじさんのヘンテコな生活が始まった。「今日は泊まっていきなさい」と言われていたのに、私はおじさんの家に居すわった。おじさんは私を追い出さなかった。せめてものお礼に、掃除洗濯をして、ご飯を作っておじさんのことを待った。料理が得意じゃないので、カレーとか焼きそばとか、小学生でも作れるような料理を、パッケージの説明に書いてあるとおりに作った。
「ありがとう。」とおじさんは言って、おいしそうに食べた。一週間くらいしたころ、おじさんが出勤したあとで、一万円札が二枚、ちゃぶ台に置いてあった。「足りなくなったら言ってください。」とメモがそえてあった。
そんな生活が一ヶ月くらいして、毎日おじさんが夜八時には帰宅することに気づいた。公園でぶらんこをキイキイいわせながら、二時間もヒマをつぶしていたおじさんが、私の作ったご飯を食べに、家に帰ってくる。私はそれが死ぬほどうれしくて、毎日せっせと、パッケージを見ながら簡単なご飯を作った。
おじさんの名前は山田さんと言った。私はおじさんを山田さんと呼び、おじさんは私を、みゆきさんと呼ぶようになった。
ある金曜日、山田さんがめずらしくビールを買ってきた。
「妻の命日なんです。」と言った。
お
「妻は、裕福な家のお嬢さんでした。僕は、こんな容姿で、学歴も低くて、稼ぎの悪い仕事をしていましたから、家の人みんなに結婚を反対されました。僕たちは、駆け落ちして結婚しました。運命の恋だと思っていました。」
カラになったグラスに手を置いたまま、遠くを見て山田さんが言った。私が市販のルーで作ったクリームシチューに、山田さんはまったく手をつけていない。
「妻は、三年前に自殺したんです。大事に育てられた娘さんでした。あんな人生を送って、あんなふうに死ぬことなんて、ないはずの人だったのに。」
そこまで言うと、山田さんはクリームシチューに目を落とした。でも、やっぱり食べなかった。
王様の耳はロバの耳だ、と私は思った。誰かに言いたくて言いたくて、井戸に向かって叫ぶような気持ちで、私に昔話をしているんだろう。
「奥さん、もし実家に帰れたんなら、帰ってたと思いますよ。」思い切って、そう言った。私はバカだけど、井戸じゃない。山田さんに沈黙以外のものを返してあげたかった。
「私は、実家も、婚家も、飛び出しました。どっちにも帰れなかったから、公園で寝泊まりしてたんです。ほんとうに奥さんが実家で大事にされてた人なら、実家に帰ってたと思います。」
山田さんは、一瞬だけ泣きそうな顔になって、でも泣かなくて、いつもの山田さんの顔にもどってクリームシチューを一口食べた。それから、ご飯にむかって「ありがとう。」と言った。
その夜、私は山田さんがいる
*
それから一週間後、今度は私がビールを買ってきた。山田さんにお
「運命の恋は、両思いじゃないといけないんでしょうか。」
山田さんは、チャーハンを食べるのをやめて、私のほうを見た。たよりなさげにホワンと丸い、私の好きな山田さんの顔。
「短大まで出させてもらったのに、私は自分の親が好きじゃありません。二年も面倒をみてもらったのに、夫のことも嫌いです。そもそも、好きだから結婚したんじゃなくて、私を気に入ってくれたから結婚したんです。」
そこまで言って、私は山田さんの顔をもう一度見た。私の話を、眉毛を八の字にして、一生懸命に聞いてくれていた。胸がいっぱいになって、涙がでた。
「私は、人に与えるだけ与えてもらって、なにも返してこなかった人間です。誰にも愛されなかったし、誰のことも好きじゃなかった。役立たずのまま、さみしく死んで終わりなんだと思っていました。でも、山田さんに会えた。私の片思いですけど、運命の恋だと思っています。」
山田さんは、なにも言わずに、ティッシュの箱を持ってきて、私の前に置いた。「すみません。」と私は言って、ティッシュで涙をぬぐった。
「ありがとう。」と山田さんは言って、私が作ったチャーハンをぜんぶ食べた。
その夜、私はまた、山田さんの
「僕は、そういうことができないんです。」と山田さんは困った声で言った。
「いいんです。」と私は言って、山田さんの服を脱がせた。肌をぴったりとつけて、私は山田さんを抱きしめた。山田さんの肌は、私の肌と比べると弾力がなくて、ぷよぷよとして気持ちよかった。
「人の肌は、気持ちがいいですね。」と山田さんは言った。
「そうですね。」私は山田さんの胸に、猫みたいに顔をなすりつけながら言った。
「妻とも、こういうふうにすればよかったのかもしれません。そしたら、なにか違ってたかもしれない。」と山田さんは言った。
「奥さんが亡くなったのは、山田さんのせいじゃないと思います。」一生懸命考えたあとで私は言った。私は、自分が思っていることを、うまく説明することができない。もっと上手に何か言えればいいのにと思った。
「私が公園で寝泊まりするハメになったのも、夫のせいじゃありません。」と付け加えた。
山田さんは黙っていた。
「でも、私が初めて人を好きなれたのは、山田さんのおかげです。山田さんに会えたから。」
山田さんがなにも言わないので、私たちはしばらく、そのままじっとしていた。山田さんの心臓の音を、私は泣きたい気持ちで聞いた。
「運命なんて、若い人が使うようなことばは、私はもう使いませんが。」と山田さんが口を開いた。
「こんな年若いすてきな娘さんが、裸で
これから、どうなるのかわからない。私がバカで、大して役にも立たない人間なのは、変わらない。でも、山田さんが私のとなりで、笑ってくれている。
他になにもいらない。
(終)
追記:以下の条件で書いた短編です。
――
「運命の恋・ぶらんこ・ゆず茶」
上記3ワードから好きな2ワードを組み合わせて、薄紫な恋物語を作ってみてください。
条件は、「脱いでいること」。
何を脱いでもいいです。
帽子でも上着でも靴でも、パンツァーダストでもラ・ぺルラでもなんだっていい。
お話のどこかで、キャラになにかを脱がせてください。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054934664317/episodes/1177354054942885090
――
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