大人の純愛 短編集

かしこまりこ

また会いましょう

 スティーブさんが、一人で私の家を訪ねてきたのは、初めてのことだった。


「オレゴンに帰ります。」と彼は流暢りゅうちょうな日本語で言った。翻訳を生業なりわいとしている彼は、東京の外れに古い民家を持っていて、オレゴンの田舎いなかにも家があった。彼の妻と二人で、二つの住居を行ったり来たりしていた。


 スティーブさんがオレゴンに帰るのは、めずらしいことではない。それなのに、こうしてわざわざ一人で私を訪ねてきて、あいさつに来たのは、何かあったのだろうとピンときた。


 玄関先で立ったままだったので、とりあえず家に入るように勧めたが、スティーブさんは、やんわりと辞退した。


「私の余命は、あと半年もないと言われました。オレゴンの田舎に戻って、余生をすごすことにしました。」


 いつも通りの、おだやかな調子で彼は言った。私は彼の言った言葉をゆっくりと反芻はんすうした。落ち着いた笑顔の彼の顔を前に、私もなるべく冷静でいるように努力した。


「あなたが死んだら、私の一部も一緒に死ぬよ。」


 私がそう言うと、彼は衝撃を受けた顔で、二、三度まばたきをした。私が言ったことにびっくりしたのか。私がめずらしく英語で話したことにおどろいたのか。おそらく、その両方だろう。


 スティーブさんは、ずっと私の小説を英語訳してきた翻訳家だ。私はしつこく何度も自分の文章を読み返すほうだが、その私よりもさらに、彼のほうが私の作品を読みこんでいると思う。私の小説を翻訳するとき、彼はいつもたくさんの質問をしてきた。質問の量が、私の書いた文章よりも多いくらいだった。彼に細かい質問をされることで初めて、こういうことが言いたかったんだ、と自分が気づくことさえあった。


 あまり多くはないが、小説のなかに性描写もあった。ラブシーンに関係する数多くの質問には閉口したが、彼があまりにも真面目なので、私も真面目に答えた。彼が私の作品のラブシーンを翻訳すると、原文よりもよほど官能的で情緒ある仕上がりになることがままあった。


 きっと、彼はベッドでロマンティックな人なのだろうと思った。私の夫はそういうタイプではなかったので、彼の妻がうらやましく思うことすらあった。


「スティーブさんの翻訳は、私の原作よりも、ずっとエロティックだと思う。」と私がほめると、


「もう少し、あっさりと仕上げたほうがいいかもしれませんね。」と彼は難しい顔で言った。


「そんなことしたら、許さないからね。」と私は笑ったものだ。


 私と、私の夫と、スティーブさんと、スティーブさんの妻の四人で、よく一緒にご飯を食べたり、たまに旅行に行ったりした。私はスティーブさんの妻と仲が良く、夫はスティーブさんのことが大好きだったし、スティーブさんも夫のことを尊敬していた。


 仏教的な考え方に傾倒けいとうしていたスティーブさんは、私の夫のことを、自分よりも魂の階級が高い人なのだと言っていた。自分よりも多く輪廻転生をくり返して、たくさん徳を積んだ人なのだと。


 私は、実はそれはスティーブさんのほうだと思っていた。スティーブさんは自分のことを、取るに足らない存在だと思っているフシがあった。彼は、自分が持っている全てのものに対して、身分不相応な幸運だと感謝していた。彼の妻と結婚できたことや、私の作品の翻訳を手がけるようになったことも。詳しくは知らないが、彼はとても不幸な生い立ちなのだと、その昔、彼の妻が教えてくれた。


 玄関先で、スティーブさんは、そっと私の手をとった。彼が私の体にふれるのは、初めてのことだった。それが、お互いに伴侶がいる私と彼の、けじめだった。


 きっと、今日でお別れなのだ。次に会うときは、オレゴンの田舎で、彼のお葬式に参列するときになるのだろう。


 スティーブさんは、私の手をとったまま、じっと私を見つめた。燃えるように情熱的な瞳だった。私も負けないように見つめ返した。


 一見、おだやかな彼が、だれよりも情熱的であることを、私はずっと昔から知っていた。その情熱の全てをかけて、私の作品を翻訳し続けてきたことも。彼は、私の作品の一番の理解者であり、私の作品を最も愛した読者だった。それは、私自身を誰よりも理解し、愛し続けてくれたことと、同じことだった。


 私は夫とずっと一緒に人生を歩んできた。そして、スティーブさんとも、同じように共に生きてきた。私とスティーブさんは、ソウルメイトで、それは私とスティーブさんが二人とも、他の人と幸せな結婚をしていたことと、全く矛盾しなかった。


「アイラブユー」彼の目を見つめたまま、私は英語で言った。この気持ちを、アイラブユーよりも的確に伝えることができる、日本語が思いつかなかったから。


 スティーブさんが、困った顔になって考え込んだ。彼は、作家の私よりもさらに、言葉に繊細な人だった。英語をカタカナに置きかえることを嫌い、日本人の私がひざを打つような日本語訳を、あっさり考えつくことができた。それなのに、「実力がない」と言いはって、英語から日本語に翻訳する仕事を引き受けることは、一切なかった。彼はいつも日本語から美しい英語に翻訳をした。


 スティーブさんは、しばらくの間考えていたが、あきらめたように首をかしげて、はにかんだ笑顔になった。


「I love you too.」と彼は言った。


 それから、彼は私の手の甲にそっと口づけをした。彼の熱が、そこから体内に流れ込んでくるような感覚があった。私は、口づけをされていない方の手を、ぎゅっと胸のあたりでにぎった。


 私は目を閉じて、深呼吸をした。玄関先の陽だまりで、春のそよ風が私たち二人をそっとなでていった。体じゅうに、ぎゅっといれていた力を、スッと抜いて目を開けた。スティーブさんは、お祈りでもしているかのように、私の手の甲に口づけしたまま、目を閉じていた。


 つながっている、と思った。このとき、私とスティーブさんはひとつだった。


 私の夫が他界したとき、スティーブさんは、私のことをとても心配してくれた。


「人の一生は、とても短い。きっとすぐに、来世で会えますよ。」と真剣で静かに、独特のなぐさめ方をしてくれた。


「スティーブさん、私は、そんなに待たなくてもいいのよ。だって、主人は今もいるもの、ここに。」と私は笑って言った。本心だった。


 彼は、おどろいた時のくせで、まばたきを何回かした。それから、「僕が死んだとき、家内もそう思ってくれるとうれしいな。」と言った。


 私の夫は73歳で亡くなった。健康な人だったから、もっと長く生きると思っていた。私は、もうすぐ夫の年齢を追いこしてしまう。スティーブさんは、私よりも2つほど若い。なのにまた一人、私よりも先に、愛する人が逝ってしまう。


 スティーブさんは、私の手からくちびるをはなした。それから、紳士的な笑顔で言った。


「来世で会いましょう。」


「そうね。そうしましょう。」と私は笑った。


 彼は、死ぬことなんて、怖くない人なんだと、勝手に思っていた。そんなはずはなかった。彼は、人に迷惑をかけることを極端に嫌った。自分が死んだ後でさえ。そんな彼の、本当にささやかな我儘わがまま。彼が死んだ後、私に忘れて欲しくなかったんだろう。彼がいなくなったら、その分だけ、いなくなった痕跡が残ることを確かめたかったんだろう。


 スティーブさんがこの世を去るときは、私の一部が一緒に逝く。彼はそのことを知って安心したのだと思う。


 一礼して去っていたスティーブさんを、私は玄関先で見送った。彼は妻と一緒にオレゴンに帰る。お葬式には、必ず参列しようと思った。そこで、スティーブさんの話を、彼の妻とたくさんしよう。


 夫は輪廻転生なんて信じていなかったし、私も完全に信じているとは言いがたい。


 それでも、もし、来世というものがあるとしたら、私とスティーブさんはいつか夫婦になるんだろうか。それとも、今みたいな仕事仲間なのか、親子や兄弟かもしれない。そのどれでもいいと思った。


 スティーブさんなら、きっと私を見つけてくれる。


(終)


追記:以下の条件で書いた短編です。


してないけど、えっち

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る