六
「おーい、楽しくやってるかい」
わたしが来た道のほうから声がした。
黒い男の声だ。
影とわたしが声のしたほうへ顔を向けると、黒い男がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
黒いジャケットに黒ズボン、それから黒いハットの姿。
風で折れそうなほど細身の体。
特徴のない顔。
影が手を振って男のほうへ走っていく。
「また予想が外れたー」
楽しくなんかない。
わたしは喰われるところだったのだ。
それにモグラウサギが赤黒い土砂にわたしのことを話せば捕まってしまう。
そう思いながら走っていく影を目で追っていると、男の前まできたところでふっと消えてしまった。
黒い男は気にする様子もなく、わたしのところへ歩いてきた。
「どうでしたかユーナさん」
「その件についてはありがとうございます。でもわたしが気がつかなければ喰われるところだったんですけど」
「申し訳ない」
「それで、一体全体どういうことなのか、説明してくれませんか。さっきの影、あなたのものだと思うのですが。それとあの赤い生き物。モグラウサギ。アリス。あとわたし帰りたいんですけど、捕まる前に。あとアンタ誰」
「いやあ、恐ろしいですよねー」
「早く」
「はい。じゃあ事の始まりから。あなたがこっちに誘拐されてきたことはガロから聞いてますよね。モグラウサギに誘拐されてきた人はあなただけではなく、もっと多くいます。こういうことは大昔からあって、連れてこられた人間をこっちではアリスと呼んでいる。その味がこっちで大変人気なものですから、みんな探してるというわけです」
「じゃああなたもわたしを?」
「まあ――いえ、味を知ってる記憶は影のほうに移していますので、今の僕はあなたを美味しそうだとは思っていません。さっきの影には味の記憶を移していましたが、今では別の影に移っています。僕は都合のいい記憶だけ影に与えたり、受け取ったりできるんですよ。いいでしょう?」
「だから嘘がつけない相手でもうまくやれたんですね」
「そういうことです。あの赤いの――名前は人間の言葉ではうまく発音できないのでアカイノと呼びますが――アカイノの前では嘘が通用しません。それに加えて厄介なことに、周囲に漂った名前を捕らえて、その名前の人間を帰れなくする。ほら、アカイノだけアリスのことを****って呼ぶでしょう。まだあなたの名前がこの辺の空間に漂っていなかったのでそうなったのです」
「それ、どうやって発音してるんですか」
「呪文のようなものを中途半端に終わらせると、結果的にそう聞こえるのです。この呪文は簡単に言うと、空気に漂う名前を接着するためのもので、周囲の空間に目新しい名前がなければ使う必要がないので接着剤だけ残る感じです」
「#$%&?」
「おしい。****です」
「*$%*?」
「それ以上はやめましょう。人間には危ない」
「はーい」
魔女の才能があるのかもしれない。
「そういうわけで、僕は苦労してるということです。助ける人間は多いし、厄介な事情も多い。それに影を出せばその分だけ疲れます」
「ああ、それであんなところで倒れて……最初は怪しい人だと思ってました」
「いいんです。僕が好きで勝手にやってるだけなので」
「何かご褒美がもらえたりするんですか」
「スマイルがもらえます」
「物好きですね」
「よく言われます」
「そういえばお名前は、聞かないほうがいいですよね」
「いいんですよ。僕にしょっぱい呪いは効きません。それにあなたはもう知ってると思いますよ」
「……ガロ?」
「百点!」
「よしゃ。――あ、そういえば勉強の途中だったんだ。帰らないと。でもどうやったら帰れるんでしょう」
「モグラウサギにもう一度穴を掘らせるのが早いでしょうね」
「でも今頃はアカイノとわたしのことを話しているのかも……」
「それについてはご安心を。もう捕まえてありますから――おーい、こっち」
ガロは元来た道のほうへ呼び掛けた。
するとそこからやってきたのは、十人くらいの影と、それに両手両足を掴まれて運ばれる白くて大きなウサギだった。
あれがモグラウサギか。
モグラウサギは暴れようともがいているが、しっかり掴まれているため逃げることができないでいる。
ついにわたしたちの目の前までやってきて、モグラウサギは影たちに手足を掴まれながらそこに立たされた。
ガロがモグラウサギに言う。
「どうしてここへ来ていただいたかはおわかりですね」
「へんッ、嫌だね。おまえらなんかのために穴は掘らねえぞ」
モグラウサギは甲高い声で穴掘りを拒んだ。
また腹が立ってきたけど、気持ちを鎮めてガロにたずねる。
「どうしましょう。なんか嫌がってますけど」
「大丈夫ですよ。何か四角いもの、持ってませんか?」
四角いもの。
ポケットに手を入れると、スマホが入っていた。
そういえば、電波が届かないから役に立たないと思ってポケットにしまったままにしていた。
「これでいいですか」
取り出してガロに見せる。
「バッチリです。それをモグラウサギに近づけてください」
どういうことかはわからないけれど、言われたままにスマホを持った手をモグラウサギに近づけていく。
そっぽを向いていたモグラウサギはそれに気づくと、額から大粒の汗を大量にかきはじめ、表情がみるみるうちに苦悶で歪んでいく。
ガロが横で言う。
「四角いもの、苦手なんですよ、彼」
なるほど。
スマホをモグラウサギの鼻先へ近づける頃には、もう息も止めていたらしく口を閉じたままもがきながら顎を上げており、そろそろ限界らしいことがわかった。
スマホを持った手を下げる。
モグラウサギが口を開いて夢中で呼吸を再開した。
わたしはモグラウサギにたずねる。
「くっつけたりしないので、よろしくお願いします」
「くっつけたら死んじゃうよ! いいよ、わかったよ、やればいいんだろ!」
穴を掘ってくれるらしい。
その答えを聞いた影たちが手を離すと、モグラウサギは小言をぶつぶつと言いながら真上に高く飛び、空中で姿勢を変えて頭から真っ逆さまに地面に向かった。
モグラウサギは落ちていく勢いそのまま地面を掘り進むように、あたりに土をまき散らしながら体を沈めていく。
そしてすぐに、穴だけを残して姿が見えなくなった。
「逃げたりしてないでしょうか」
ガロにたずねる。
「心配ないさ。そうしたらまたすぐに捕まえる。モグラウサギもそれはわかっているはずだよ」
「ということは、もうこの穴から帰れるのでしょうか」
「その通り。このまま穴に入って進めば、すぐに目が覚める」
「目が覚める?」
「そう。僕はガロのほかに、夢オチの紳士とも呼ばれていてね、助けた人たちは目が覚めて、そしてこの悪夢のことはすぐに忘れる。いい仕事するでしょう?」
「まあ、そうですけど。忘れちゃうのはなんかちょっともったいないです」
「物好きですね」
「よく言われます」
ガロは小さく微笑んだ。
そして言う。
「さあ、アカイノがモグラウサギを探して戻って来るまえにお帰りなさい」
「そうですね。そうすることにします」
穴に足から入っていく。
足先はどこにもぶつからず、穴は横にも広いことがわかった。
「ではお気をつけて」
「はい。いろいろとお世話になりました」
ガロはわたしに手を伸ばした。
だがわたしは体を腕だけで支えているので、握手は一瞬できるかどうか、といったところだろう。
「おやすみなさい」
柔らかな手が、頭を優しく撫でた。
影たちの拍手喝采があたりに響く。
そのうちわたしの意識はぼんやりとしだし、力なく穴へと落ちていく。
穴の枠のなかで、ガロが手を振っていた。
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