五

 木々をなぎ倒す音は収まり、次に聞こえるのは這う音だった。

 後ろからやってきた何かが木の生えていない広場に入ったのだ。

 這う音というより、引きずる音のほうが近い。

 何か重いものを引きずるような音が近づいてくる。

「おい」

 地鳴りに似た声が後ろから響いた。

 振り向くことができない。

 体が完全に硬直していたのだ。

 恐怖から逃れるように、わたしは影の言葉を頭の中で繰り返した。

 ――君は言われた通り正直に答えればいい。

 意味を考える余裕はなく、ひたすらその穏やかな響きを思い出した。

 そしてついに、視界に巨大なものが映りこむ。

「おい、おまえら」

 声のしたほうへなんとか視線を向ける。

 毒々しい色の山だった。

 赤黒い何かが土砂のようにびっしりと積み重なっている。それが地を這って移動しているのだ。見上げるような高さ。それを構成している赤黒いものは動物か何かの一部らしいことがすぐにわかったが、細部は見ることはしなかった。直感がそうしないほうがいいことを告げていた。

 赤黒い土砂はわたしと影の視線の先までやってきて、

「****はどこだ。いまここにきただろう」

 と言った。

 ――****?

 わたしが聞き取れなかったのではない。

 その部分だけ言葉がぼやけていたのだ。

 誰かを探しているようだ。

 そして今ここに来た誰か、といえば――

 わたししかいない。

 影は穏やかな口調で答える。

「いや、見なかったね。さっき紛れ込んできたアリスのことだろう? 僕も捕まえて喰おうと思って探しているところさ。予想が正しければすぐそこから出てくるはずなんだが、どうやらハズレたみたいだ」

「ほんとうか。うそはわかるぞ。うそなら、くうぞ」

「それならわかるだろう。僕は見ていない。彼女も、ね?」

 影がわたしのほうへ顔を向けた。

 表情はわからない。

 赤黒い土砂と影が探しているのはアリスで、目的は捕まえて喰らうことらしい。アリスというのは人間だろうか。どちらにしても穏やかな話ではない。

 わたしもまだ出会っていないので頷いた。

 赤黒い土砂は少し間をおいて、

「たしかに、うそはない。おまえら、なまえは」

「名前? 僕はガロ。彼女は友人の友人のユーナ」

 友人? ユーナ? 勘違いだ。わたしはユーナじゃない。

 すると赤黒い土砂は、

「そいつ、うそだというかおだ、うそなら、くう」

 漂う腐臭が濃くなったような気がした。

「え? 僕はそう聞いてるんだけど、君、違うの? 名前は?」

「わたしの名前は――」

 ――名前は言うなと聞いている。

 さっき影が言った言葉が脳裏に浮かび口が止まる。

 なぜそんなことを言ったのか疑問には思っていた。

 それが、もしこの状況のことを言っていたなら?

 まさか、そんなわけはないだろう。

 でも、今はそれがとても正しいことのように思えた。

 この場に漂う沈黙と殺気のようなものがそうさせるのか、不思議なことに本当の名前を言ってしまえばその瞬間に世界が終わるような気がしてならない。

「おまえ、なまえは」

 赤黒い土砂が触手のようなものをニュッと伸ばしてくる。

 取って喰う気だろうか。

 影は首を傾げる。

「あれえ、おかしいなあ。友人にそう聞いているんだけど」

 友人というのは黒い男のことだろう。

 どうやったのかは知らないが、影は本当にそう聞いたらしい。

 ――君は言われた通り正直に答えればいい。

 ふいに、あの穏やかな言葉を思い出す。

 同時に、脳髄でパチリと火花が弾けた。

 つまり閃いたことがある。

「すみません、忘れてました。名前はユーナと言われています」

 名前は言うな

 名前はいうな

 名前はゆうな

 名前はユーナ

 完全にハッタリだった。

 だが「名前は言うな」と言われたことを、言われたようにそのまま言っただけなので嘘はない。

 赤黒い土砂はわたしの言葉をたしかめるように、目の前で触手を止めた。

 触手の先には、無数の目があった。

 その数と猛烈な腐臭で意識が遠のきそうになる。

「嘘は言っていません」

 一つの目に視線を定め、ハッキリ言った。

「うそはない」

 赤黒い土砂は言った。

 目の前の触手がスルリと本体に引っ込んでいく。

 ハッタリが通じたのだ。

 安どのため息をつく。

 赤黒い土砂はつづけて、

「くうのはおれだ。もぐらうさぎにきけばわかることだ。くうのはおれだ」

 そう言って、枝葉を押しのけながら森の奥へと向かっていった。

 影は手を振ってそれを見送り、わたしのほうを向く。

「君はうっかりさんだなあ。自分の名前も忘れるなんて。まあ済んだことさ。しかしやつはズルいなあ。モグラウサギに顔が利くからって直接訊きに行くなんて」

「モグラウサギって?」

「おや、君は知らないのか。モグラウサギは向こうの世界の月にいるんだけどね、今日みたいな地獄晴れの日は、円形のものを伝ってこっちの空を見にやってくるんだ。それでそのときお土産としてアリス――向こうの人間を持ってくるんだけど、それが美味いのなんのってことは君も知ってるよね。だから僕も過去のデータからその人間が現れる場所を予測したんだが、今日もハズレちゃったというわけさ」

「そのモグラウサギって、どんな色をしてるの」

「たしか白だったね」

 アリス、わたしだわ。

 手段は不明だが影は、黒い男からわたしが友人だと聞いたらしい。

 名前についても勘違いしてか――騙されてかそれを知らない。

 つまり黒い男はわたしを助けたのではないか?

「あなたはまだお土産を探すの?」

「僕はもうあきらめるよ。モグラウサギがあいつに教えちゃえばすぐに捕まるだろうから、今回はもうチャンスがない」

 どうしよう。

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