15 ミルワード夫人について

 夕方には、エグバートが帰宅した。


「ただいま戻った」

「おかえりなさい。お仕事、どうでしたか?」


 玄関で出迎えたシェリルにコートを渡したエグバートはその問いに、穏やかな笑みを返してくれた。


「思っていたよりも、うまくいった。周りの官僚たちは私を見て怪訝そうな顔をしたが……陛下のおっしゃるとおりに動き、助言をしていると自然に、受け入れてもらえるようになった」

「そうですか……それならよかったです」


 騎士王子から囚われの身になり文官になった彼が王城で嫌な思いをしないか心配していたが、エグバートはうまく立ち回ったようでほっとした。


「まあ、といっても初日だから重要な仕事を割り振られることはなくて、書類整理や荷運びくらいがほとんどだったけれどね。だが、そこらの文官よりも重いものを持てるから、お役に立てたみたいだ」

「あはは、確かにエグバート様なら、私の一人や二人くらい、楽に抱えてしまえそうですものね」

「……試してみるか?」

「えっ?」


 聞き返したシェリルの前に、エグバートが跪いた。

 そして両腕を広げて、シェリルの胸ほどの目線の高さからこちらを見上げてくる。


「可愛い妻を楽に持ち上げられることを、証明してみせようか。おいで、シェリル」

「え……い、いえ、悪いですよ! あの、やっぱり私、それなりに重いですし……」


 間違いなく、彼がこれまで王城で接してきただろう貴族の令嬢よりずっと重い。

 太っている、というほどではないだろうが、よく食べよく眠るシェリルの体は、肉がほしいところには付かず、余計なところには付いている。


 コートを抱えたままじりじりと後退すると、エグバートはきゅっと眉を寄せた。


「……そんなに嫌だったか、すまない」

「あ、いえ、そうじゃないです! ただ……多分見た目よりも重いと思うので」

「そのようなことはないと、断言する。……嫌ではないのなら、失礼する」

「ぎゃっ!?」


 ここで、「きゃっ!」と可愛らしい悲鳴を上げられない自分が憎らしい。


 エグバートは一気に距離を詰めると、すくい上げるようにシェリルの体を抱き上げた。左腕をシェリルの両膝の裏に回し、右腕で腰から肩にかけて支え、難なく立ち上がる。

 当然それだけ視線も高くなり、思わずシェリルは抱えているコートをぐしゃぐしゃにしながらエグバートの肩にしがみついてしまった。


「あ、あの、やだ、エグバート様!」

「やはり嫌か?」

「い、嫌じゃないです。でも、こんなことしてもらったの、初めてで……どきどきして……」


「抱えられる」という動作なら、子どもの頃にディーンにしてもらったことがある。


 だが彼がシェリルを抱えるという動作は、駄々をこねられたときにずるずると連行するために行うものであった。よって酒樽のように肩に担がれるか、穀物入りの袋を持つように小脇に抱えられるかのどちらかだった。


 あたふたしつつも落とされまいとしがみつくシェリルを、いつもより近い位置で青い目が見ている。

 そして薄い唇がふっと笑い、「シェリル」と艶のある低音で名を呼ばれた。


「あなたは……とても愛らしいな」

「いっ!?」

「私の言葉や行動であなたをどきどきさせられたようで、とても嬉しい。……叶うことなら、あなたの色々な顔をもっと見てみたい」

「私の、顔……?」

「ああ。嬉しい顔、幸せそうな顔、怒った顔、困った顔……いや、後半のような表情をさせるわけにはいかないな。まあとにかく、これからの人生であなたのたくさんの表情を側で見ていたいのだ」


 シェリルはぱちくりまばたきし、エグバートの肩口に顔を埋めた。


 硬い筋肉の感触がし、清潔な香りがする。

 今日一日働いたはずなのに、汗臭さは一切なかった。


「……私も」

「……」

「私も、あなたの色々な表情を見てみたいです。その、怒った顔は見る機会がない方がいいと思うけれど……嬉しいときには嬉しい顔をしてほしいし、困ったことがあるなら……私で何ができるかは分からないけど、協力したいから、隠さないでほしいのです」

「シェリル……」

「あの、ごめんなさい。いきなり変なことを言って……」

「変ではないよ。……とても、嬉しい」


 エグバートは少し体を動かしてシェリルを抱え直すと、「顔を上げて」と優しく命じた。


「あなたにそう言ってもらえて、とても嬉しい。……私は誰かに頼るのがあまり得意ではないのだが……もう私は一人ではないし、あなたは私の妻だからね。仰せのとおり、これからはあなたに頼らせてもらおう」

「え、ええ! そうしてください!」

「……では、奥さん。まだ夕食までは時間があるだろうし……茶でも飲まないか?」

「はい! 仕度するので……あの、そろそろ下ろしてくれませんか?」

「ん? 申し訳ないが、それは却下だ」

「えっ」


 さっと顔を上げると、そこには清々しい笑みを浮かべるエグバートの美貌が。


「せっかくだから、私が奥さんをリビングまで運ぼう。……ああ、すまない、君。ドアを開けてもらえるかな」

「かしこまりました。お嬢様、若旦那様、こちらへどうぞ」

「え、ちょっと、やだ、見ていたの!? というか、待って! 止めてよー!」


 じたばたもがくシェリルだが、エグバートはそんな抵抗すら愛おしそうに腕の中の妻を見つめ、悠々とした足取りでリビングへ向かったのだった。











 夕食の後、シェリルは思いきって今日の午後の出来事を相談することにした。


「……ミルワード夫人の使者が?」


 それまでは優雅に食後の茶を楽しんでいたエグバートの声がすうっと数段低くなったため、シェリルは緊張しつつ頷いた。


「はい。滞在時間自体は二十分程度だったけれど、これを私へと置いていかれて」

「……これは」


 リンジーが持ってきてくれた箱を開け、中のものをエグバートに見せる。

 彼はシェリルの許可を取った上で髪飾りを手に取ると、ひっくり返したり裏から見たりした後、「センスが悪い」と低い声で呟いた。


「何をどう考えれば、シェリルの艶やかなダークブラウンの髪にこれが似合うと判断するのだ? シェリルに似合いそうなのは、可憐で淡い色合いの小さな花だ。これではシェリルの愛らしさを殺し、花の自己主張ばかり強くしてしまう」

「え、えっと……可能性としては、ミルワード夫人が私の容姿をよく理解なさっていなかったというのもあるかな、と……」

「それはない。あなたがどのような女性であるかを表す書類は初対面の日の数日後、私のところにも夫人のところにも届いている。……あの方は昔から少々ずれたところがあると思っていたが、ここまでとは……」

「昔から、なのですか?」


 髪飾りを受け取ってシェリルが問うと、エグバートは渋い顔で頷いた。


「私の生母である王妃・フィオレッラは小国の公爵家出身で、父とは政略結婚だった。私が幼い頃に病没したのであまり記憶にはないが、とても淑やかで大人しい女性だったと聞いている。……そんな母のことを父は愛しておらず、魔力はあるが陰険でおもしろみのない妃だと言っていたそうだ」

「……そんな」


 いくら政略結婚で王妃の祖国は小国とはいえ、そのようなことを口にするなんて、王として夫としてどうなのか。


(……あっ、そういえば、ミルワード夫人は下級侍女だったけれど、とても明るい方だって――)


 シェリルが唇を曲げると、エグバートは苦く笑った。


「そんな母はなかなか懐妊せず、国王夫妻の中も冷える一方。……そこに現れたのが、ミルワード夫人だ。当時彼女は十六歳かそこらだったそうだが、母との結婚生活に飽いていた父は、夫人を見初め、手込めにした。そうして生まれたのが強い魔力を持つ異母兄・ウォーレスで、王妃に先んじて王子を生んだ夫人は愛妾として正式に迎えられた」


 淑やかで大人しい王妃は、これだけでもかなりのショックを受けただろう。しかも後々にやっと産めた自分の息子は、魔力を持っていないのだから。


「まあ、それはいいいとして。夫人は明るさと魔力の高さ、そして美しさゆえに父のお手つきとなった。だが……彼女の感覚はずれていて、簡単に言うと美的センスがない。本人に悪気がないのが一番厄介で、父もそんな夫人のことを素直で無邪気な可愛い女性だと思っていたそうだ」

「素直で無邪気な可愛い女性……」


 思わず復唱すると、エグバートは苦い笑みのまま肩をすくめた。


「今は身分を失って静養している身だが、まあ、それくらいで美的感覚は変わるまい」

「……ミルワード夫人が、エグバート様を婿として迎えた私のことが憎くて、嫌がらせをしている可能性は低いってことですか?」


 思いきって尋ねると、しばし考えた後エグバートは頷いた。


「……もしそういう意図だったなら、こんな面倒なことはしないだろう。あの方なら、もっと手っ取り早く単純な嫌がらせをしそうだ」

「そ、そうなんですか」

「シェリル、気を悪くさせて申し訳ない。今回なんてそもそも事前の訪問許可もなしに押しかけてきたのだから、無礼きわまりない行いだ」


 エグバートが眉を吊り上げて言うので、シェリルは苦笑した。


「……確かに、リンジーに注意されなかったら私、ぼさぼさの鳥の巣みたいな頭で使いの人と話すことになっていたと思います」

「鳥の巣? ……。……いや、それは今はいいな。とにかく今回の件については、私の方からも夫人に一言言わせてもらう」


 はっきり言われ、シェリルはしばし悩んだ後に頷いた。


「……分かりました。でも、私もミルワード夫人と喧嘩がしたいわけじゃないから……頑張って、うまく付き合えるようにしますね。今度、お茶会の招待状をもらう予定ですし」

「そんなもの、破り捨ててしまえばいいのに。だが……あなたがそう言うのなら、任せたい」

「はい。エグバート様はお仕事があるのですから、夫人の相手くらい私の仕事にさせてくださいね」


 ただでさえ普段のシェリルは研究室に籠もっていて、それ以外にはすることのない身の上なのだ。

 女王の補佐としての仕事のあるエグバートの手を煩わせたくはないので、なるべく自分の手で対処できるようにしたい。


「……シェリルは健気だな。だが、あなたに何かあればウォルフェンデン男爵に合わせる顔がなくなる。だから、無理だけはしないでくれ」

「分かりました」


 シェリルが頷くと、エグバートはほっとしたように表情を緩めてソファに座り直した。

 みしり、とソファの座面が小さな悲鳴を上げた。

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