6 結婚式と初夜について②
ディーンの乗る馬のいななきが遠のいていったところで、シェリルはふうっと大きな息を吐き出した。
だがそれはエグバートも同じだったようで、同時に肩の力を抜いていた二人は顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
「なんというか……すみません。父様、とても心配性で」
「いや、父君があなたのことを気にする気持ちも、よく分かる。……男爵からすると、ご息女の側に元敵である私を置くというのは、さぞ不安なことだろうからな」
「……そうでしょうか」
「きっとそうだ。……では男爵も出発なさったし、そろそろ私たちも寝ようか」
「はい。……エグバート様が大きいベッドを使ってくださいね。私、自分の部屋で休むので」
「……すまない、助かる」
もし逆に彼がシェリルのベッドを使えば、朝には木屑と化しているかもしれない。
そうして二人並んで廊下を歩き、使用人たちの「ごゆっくりお休みください」という挨拶に見送られて上階に上がったのだが。
「……ああ、そうだ」
寝室の前でエグバートが足を止め、シェリルを見下ろしてきた。
「あなたは私のことを様付で呼ぶし敬語も使うが、必要ない」
「えっ、どうしてですか?」
「どうしても何も、私はあなたに婿入りした身だし、王族の身分も騎士の称号も全て失った、ただの男だ。となれば、ウォルフェンデン男爵令嬢であるあなたの方が立場が上になるだろう」
それは、そうかもしれない。
現に女王であるマリーアンナと王配テレンスでは、マリーアンナの方が立場が上だ。公の場でも女王がテレンスを「おまえ」と呼び、テレンスは女王を「陛下」と呼んでいる。
(……でも、いくら婿入りしたとしても、元王子様を呼び捨てなんて……)
「それは、さすがに申し訳ないです……」
「そうなのか? 私は一向に気にしない。婿入りした夫は、妻に奉仕するものだ。あなたが望むのなら私の方こそあなたに敬語を使うし、あなたになら鞭で打たれ足蹴にされようと、私は構わない」
「そこは構ってください!」
思わず突っ込んだが、エグバートは至極真剣な顔で言っているので、本気のようだ。彼は何事にも全力投球で、真面目な男なのだろう。
……とはいえ、ここでいつまでも押し問答するわけにはいかない。
「……分かりました。でも、今すぐには難しいので……いずれ、ということでいいでしょうか?」
「……そうだな。了解した」
これでひとまず、ストレスでシェリルの胃に穴が空くことはなさそうなのでほっとしていたのだが、エグバートはしばし何か考え込んだ後、つと身を寄せてきた。
「……だが、いつかはあなたにエグバート、と呼んでもらいたい。それこそ、閨(ねや)を共にする頃には」
「んっ!?」
「おやすみ、私の可愛い奥さん。そして、これからどうぞよろしく」
くすりと笑ったエグバートが腰を折り、シェリルの髪の房を手にとって口づけを落とした。
日中の式のときと違って直接肌に触れたわけではないのに、彼の吐息を首筋の近くで感じ、ぞわっと背筋が甘く痺れてしまう。
シェリルはなんとか気力を振り絞って「……おやすみなさい」と返事をし、ふらふらしつつ自分の部屋に滑り込んだ。
部屋の中は薄暗いが、ベッドにぽすんと身を預けると慣れ親しんだ匂いがして、言い様もなく安心できる。
(……父様やエグバート様の言うとおりにして、よかった)
もしエグバートと一緒に寝ていれば間違いなく、緊張とときめきで一睡もできなかっただろうから。
騎士の妻はどのような階級であれ、夫のために食事を作り、体調管理をするものなのだとシェリルは聞いている。
よって結婚式の翌日、シェリルは頑張って早起きした。
カーテンを開けると、初春の空はまだ薄暗いことが分かる。
(……よし! 昨日のうちに皆にも相談しておいたし、朝ご飯を作ろう!)
屋敷には当然、毎日の食事を作ってくれる使用人がいる。だがエグバートが騎士の立場を返上したとはいえ、頑丈な体を持つ彼が満足いく食事を取れるよう、シェリルにできることをするつもりだ。
その一つが、食事である。ものすごく得意というわけではないが、レシピがあれば新しい料理でもきちんと想定どおりのものを作れる。
革命戦争時代は大鍋を使って野営中の食事を作った経験もあるので、栄養たっぷりの量の多い食事を作るのにも慣れていた。
それを相談すると、使用人たちも「それは素敵ですね!」と協力してくれることになった。既に食材は台所にあるはずだから、エグバートが目覚める前に作ってしまいたい。
(父様もそうだったけれど、やっぱり体が大きな人は肉が好きなのかな? 厚切りベーコンがあるから、がっつり焼いて……)
精の付く手料理について考えながら部屋を出たシェリルだったが――ほぼ同時に隣の部屋のドアが開き、既に身だしなみを整えたエグバートと鉢合わせしてしまった。
(えっ!? まだ早朝なのに!?)
驚いて足を止めたシェリルだが、エグバートの方は足音が聞こえていたのかシェリルが出てくるのが分かっていたようで、穏やかに微笑んでいた。
「ああ、おはよう、シェリル。よい朝だ」
「お、おはようございます、エグバート様。……あの、まだ日が昇りきっていませんよ?」
「私はいつもこれくらいの時間から、鍛錬を始めるんだ。シェリルこそ、もっとゆっくり寝ていればいいのではないか?」
エグバートに真面目に問われ、シェリルは肩をすくめた。
本当は朝食を作って彼を驚かせたかったのだが、仕方ない。
「……その、早起きをして朝ご飯を作りたくて」
「朝食か? 使用人がいるのだろう?」
「そうですが……せっかく結婚したのだから、あなたが元気になれるようなおいしいものを、作りたくて」
そう説明はするが、だんだん気分が落ち込んでしまう。
シェリルも料理はできるが、この道何十年の使用人たちにはとうてい及ばない。当然、シェリルが作ったものより使用人が作ったものの方がおいしいだろう。エグバートの味の好みもまだ分からないので、彼が嫌いなものを作ってしまう可能性もある。
(余計なことだったかな……)
だがエグバートははっとしたように息を呑むと、大股二歩でシェリルのもとに駆け寄ってきた。シェリルの足なら五歩以上必要だろうから、やはり身長があれば歩幅も大きいようだ。
「そういうことなら、とても嬉しい。……すまない、もしかして、こっそり作ってくれるはずだったのか……?」
「あ、いえ、気にしないでください。……えっと、エグバート様はどんな味付けがお好きですか? ベーコンを焼いたりしようと思うのですが、塩加減や甘さの調節が必要なので」
「私はそこまで味に頓着はしないが……しいて言うなら、甘いものよりは香辛料の効いているものの方が好きだ」
「分かりました。それじゃあ、ぴりっと辛めに味付けしますね」
「ああ、ありがたい」
ほっとしたようにエグバートが言うので、シェリルも微笑んだ。
サプライズの朝食準備は失敗してしまったが、きちんと彼の味の好みを聞けたのだから、これはこれでよかったのかもしれない。
「それじゃあ、準備しますね。……あ、うちの庭は草ボウボウなんですが、裏庭は父様の鍛錬用に整地しています。そっちを使ってください」
「なるほど、ではそこを使わせてもらう。……あなたの作ってくれる朝食、楽しみにしている」
エグバートは爽やかに笑うと、シェリルの左手を取って軽くキスを落とした。
本当に、こういうことをさらっとできるあたり、「元」が付くとはいえ王子様である。
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