第四話(08)
* * *
街に着くまで、ずっと泣いていた。街に着いた頃には、もう枯れきっていた。そこまで何とか気を保っていたものの、街の門を前にして、ひどい頭痛とめまいに、ついにデューゴは倒れてしまった――その後のことは、よく憶えていない。エピと、街から歩いてきた人が慌てていたことだけ、ぼんやりと憶えている。
そして気付けば、街の小さな病院に運び込まれていた。次に目を覚ましたのは、そのベッドでのことだった。
「水分不足、栄養失調……限界を迎えた旅人にありがちな症状だなぁ」
狭い病室にやってきた、この病院の医者だという男にそう言われた。
「それから精神的にも、身体的にも疲労しているようだね。でも、しばらくの間、ここで安静に過ごしていれば問題ないかな」
エピの姿は、どこにもなかった。医者に聞けば「あの旅人なら宿にいるよ」と教えてもらった。また来るらしいから、と。
加えて、デューゴは医者に聞いた。軽く笑いながら。
「あと、最近、街を捨てて、ここに住みたいってやってきた流民を見なかったか?」
「……いいや、見てないね?」
それでもデューゴは笑みを浮かべたままだった。
エピが病院を訪ねてきたのは、数日後だった。
「元気になったみたいだね」
彼はあの青い帽子を手に持ち笑った。
少し世間話をした。デューゴはベッドの上に座り、エピは近くの椅子に腰を下ろして。デューゴは病院から出てはいなかったが、窓から見える風景や、病院の様子、そして自身の調子について話した。エピはこの街に様子や、また交換屋に行ったというのでその話をしてくれた。
「……ところでさ、デューゴくん」
しかし、その表情がふと暗くなった。
「デューゴくん、今日、僕はただ、君の様子を見に来たわけじゃないんだ、伝えることがあって」
どうしたのだろうと、デューゴは首を傾げる。そうしてエピは口を開いた。
「ここに、君と同じ街の人はいないみたい。ちょっと聞いて回ったんだ」
それは、医者から聞いて知っていた。けれども改めて言われて、視線を下に落とす。それでも笑みを浮かべようとしたものの、
「周りの旅人にも、そういう人達を見たか、聞いてみたんだ……でも、誰も見ていないし、他の街でもそんな話は耳にしていないって」
誰も知らない――存在が認められない。
まるで、別世界に来たようだった。確かにそばにいたはずなのに。
「……やっぱり、遠くに来ちまったんだな」
自分だけが、家族や街がない世界に来てしまったようだ。全く知らない場所に入り込んだ、異邦人。
それでも――デューゴは作り笑いを浮かべていた。
「どうしたもんかな……」
深呼吸をして、背を伸ばして。それでも手は掛け布団を強く握っていて。
「でも、探せば、同じ街の人間を見つけられるかな」
そのデューゴの言葉に、エピは何も言わない。あの時のように。デューゴは続ける。
「もしかしたら家族も……」
けれどもそこで言葉を止めたのは、彼自身だった。
ここがどこだかわからないのに。手がかりはひとつもないのに。
巨大な『暗闇』に襲われたのは確かなことで。逃げた先で周囲を見回し、光が一つもなかったことも確かなことで。
「……無理、か」
開いている窓の外を見つめた。風にカーテンがふわふわと揺れている。布団を握った拳から力を抜けば、そこに隠すように握っていたあのペンダントから、光が漏れた。
涙はもう出なかった。
「……君はこれから、どうするの?」
エピが口を開いたのは、しばらくの沈黙が過ぎた後だった。
これから。未来のこと。将来のこと。
「……さあ、わからないな」
正面へ向き直り、デューゴは答える。手の中で、ペンダントを転がす。
「家族がいたら、一緒に暮らす中で、やりたいことを見つけようと思ってた……でも、もうわからない」
全てが崩れ去ったのだ。
また沈黙が流れる。時間が止まったかのような、静けさ。
実際に、時間が止まっているのだと感じた。思考が止まってしまっていたから。
「……とりあえず、大きな病気とか、怪我じゃなくて、本当によかった」
エピはそこまでで「これからの話」を打ち切りにした。答えやヒントは、一つもくれなかった。期待をしていたわけではない。けれどもそれはまるで「あとは君の問題だ」と言われたようだった。
「大丈夫そうなのもわかったし……僕は宿屋に帰るよ」
エピは立ち上がれば、青い帽子を被った。それから、
「そろそろ――数日後かな。僕はこの街から旅立とうと思ってたんだ。だから、その前にもう一度会っておきたくて……」
「そうか、旅に出るのか」
顔を上げたとき、エピはもう病室の扉に手をかけていた。扉を開ければ、向こうへと歩みだし「それじゃあ」と手を振る。反射的にデューゴも手を振った。だから、言おうとした言葉を呑み込んでしまって。
改めて、恩人に礼を言わなくては、と思ったのだけれども。
ぱたん、と扉は閉じた。エピの姿は見えなくなった。
病室には自分一人。溜息を吐く。
窓の外を見れば、街は明るい。
「……これからか」
家族はもういない。ずいぶん遠い場所、というよりも全く別の世界に来たと言っていいだろう。
それでも自分は生きている。星油をつめたペンダントを指で撫でれば温かい。
カーテンがふわりと大きく膨らんだ。それにつられて窓を見れば、明るい街がまた見える。街灯の火の光。ところどころにある、星油ランタンの光。遠くの暗闇をよそに、優しく輝いている。
ここはもう暗闇ではない。平穏な街だ。光があって、人がいて。安全な場所。
しかし――何故だろうか。
――これからここで、暮らしていくのだろうか。そう思うと、妙な不安がわき出てきた。
この街でうまくやっていけるのか、という不安ではない。望めば、この街に住めるだろう。難しいことではないはずだ、旅人を嫌う街もあると聞くが、この街にそんな様子はない。どこか住み込みで働かせてもらえる場所があるはずだ。
けれども、もし住めたとしても。
やりたいこと――やりたいことは、果たして見つけられるのだろうか。
ぼんやり生きていた。流れのままに生きていた。不安なく、人間ならそうするのだろうと思うように生きていた。あまり、自分がどうしたいなんて思わないで生きていた。
確かに「やりたいことを見つける」ことが、いまのやりたいことではある。
それならば、この街で暮らしながらも、見つけることはできるだろう。
けれども。街を睨む。光溢れる街を。
――安心しきっている自分が、怖かった。
このままここで安全に暮らすことを選んだら、不思議と埋もれてしまいそうな気がした。
安心に止まってしまいそうな気がした。
それだけではない。安心に自分を見失うことを、恐れてはいるけれども。
どことなく心が落ち着かなかった。それこそ、単純にこの街で暮らしていけるのか、不安を感じるほどに。
いろいろなものをなくしすぎた。
だからこそ。
ここで止まってもいいのか。そう思えたのだ。
しかし、どうしたら――。
* * *
数日して、もう退院していいと医者に言われた。
「どうも、お陰様で」
病院の玄関でデューゴは荷物を背負う。身だしなみを整えて、改めて正面を見る。それからそこに立つ医者に、また頭を下げた。と、医者が首を傾げる。
「それで結局、君はこれからどうするんだ? 何か悩んでたみたいだけど……確かもといた街が、だめになって全員で引っ越すことになったんだろ? それではぐれたと……探しに行くのかい? それとも、この街に住むのかい?」
その問いに、デューゴは一度俯いた。
――しかし、決めたのだ。
「この街には住まない。旅をしようと思います」
やはり、この街にはまだ住めないと。
「家族やもとの街の人を探して? ずいぶん遠いところらしいけど……」
と、医者が少し不安そうな顔をする。けれども違う。
「いや……諦めたよ。手がかりも何もない。下手に歩いても見つけられないかもしれない……そもそも……」
もう、いないのだ。だがその言葉を呑み込む。呑み込んだところで、現実は変わらないけれども。
「――やりたいことを、見つけようと思って」
しばらく間を置いて、そう答えた。
「……もう十分にわかってると思うけれど、旅は危険だよ? この街にいても、やりたいことは見つけられるんじゃないのか?」
医者は言う。それは、医者だからだろう。旅に出て、命を落とす者も、多い。
「それも考えたけど」
じっくり考えた。ただ養生しているだけではなかった。その間、やはり落ち着かなかったから。
「でも落ち着かなくて……少なくとも、俺は自分の意志でここに来た訳じゃない。だから、なんていうか、ここじゃないって気がして……」
言葉にするのは難しい。だが一つだけ確かに言えることがある。
「それに、世界は広いから」
悲しいほどに、この暗闇の世界は広かった。もといた街に戻れないように。本来目指していた街を見失ったように。
深い溜息が出た。家族と一緒に目的の街についたら、そこで過ごしながら自分のやりたいことを見つけようと思っていた。でももう家族はいない。それだけではない。いまは、じっとしていたくはなかったのだ――また、ただ生きることだけを選んでしまいそうだったから。
だから、歩くことにした。目的をもって。
それは、不安からくる旅でもあった。
身につけた星油のペンダントを握る。かつて兄は、鶏農家を継がず、旅に出てやりたいことを探すと言っていた。それと、同じように。
けれども兄のまねをしているわけではない。兄の代わりを目指しているわけではない。
これは、自分の意志だ。
そして旅先で見つけられるものは、自分自身で見つけようと思ったものになるはずだから。
進むのだ。自分の道を。目を開けて、正面を見て、立ち止まらずに。ここは立ち止まるべき街ではないと、感じで。一人で選び、決めて、先へ。
しかし旅に出ると決めたのならば、準備をしなくてはいけない。とりあえず宿屋に向かって、そこを拠点に準備をして――
「ああ、宿屋ってどこにあるんですか?」
と、そう尋ねた後で、はっと気付く。
宿に泊まるにも、準備をするにも、対価が必要だ。そして、治療にも。
「しまった! お代……!」
背負った荷物を慌てておろした。すっかり忘れていた。
物々交換ができるように、少しはものを持たされていた。だが開けたリュックの中に、大したものは見あたらない。そこまでものはないのだ。あったとしても、この街の交換所でどれくらいの価値がつくかわからない。小さな織物、細工品、本数冊――交換屋なんて行ったことがない。実際どれくらいの価値がつくのだろうか。そして足りるのだろうか、病院代、宿代、旅の準備の費用、そして次の街で交換するためのものを手に入れる費用だって。
まずい。間違いなく足りない。
全く考えていなかった。頭の中が真っ白になる。
こんなところで躓くなんて――
「ああ、お代はいらないよ」
だが医者のその言葉で、遠のいていた気が戻ってくる。
「旅人が来なければ、街はほかの街との交流が絶たれてしまうからね。僕は、ないときは、とらないさ」
病院代は、考えなくていい。
すっと肩の力が抜けた。病院代――薬は間違いなく高いはずだった。しかしそれを考えなくていい、なんて。
「はぁ……そうなん、ですか」
良心的でよかった。手間をかけさせてしまったのは、確かであるのに。
だが事情は少し違った。
「気にしないでくれ……といっても、お代はもう貰ってあるし」
言葉が理解できなかった。弱っているときに何か渡したのだろうか、いや、お代を払った記憶はない。医者は何か、勘違いしているのではないだろうか。何かした記憶は、何もない。
「あれ、聞いてないのかい? 彼から」
首を傾げていると、医者も首を傾げた。「彼から?」と言葉そのままを返せば、医者は笑った。
「あの青い帽子の旅人さ! 彼が払っていったよ、拾ったから、最後まで世話しないとって言って」
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