第四話(06)
* * *
少年はすぐさま足下に星油ランタンを置き、大きなリュックを下ろすと、中から水筒とコップを取り出した。水筒から、透明な水をコップへ注ぐ。
「飲める?」
少年はデューゴの身体を軽く起こせば、その前にコップを差し出す。光にきらきらと輝く水面が懐かしかった。と、自然と手が上がり、コップを手に取れた。まだそれくらいの気力は、残っていたのだ。
震える手でコップを手にとれば、口をつける。水は何故か痛いほどに冷たく感じられた。それでも、口の中に流れ込んで、体内に落ちていく感覚がする。すると反射的に大きくコップを傾けてしまう。やっと得られた水に、身体が反応したのだ。
けれども息ができなくなって、激しくむせてコップを傍らに雑に置いた。
「そんなに一気に飲んじゃだめだよ、溺れるよ」
少年が軽く背を叩く。それから再びコップに水を注げば差し出してきたため、今度はゆっくりと飲んだ。
その冷たさの安心からだろうか、とたんにひどいだるさを覚えた。先程まではあまり何も感じていなかったのに。
きっと、まだ生きていると、まだ生きられると、気付いたからだろう。
目を瞑った。気を失った。生きるために、休まなくてはいけなかった。
――そのまま、横にされていたのだと思う。
どのくらいの時間が経ったのかはわからない。ただ沈み込むように目を瞑っていた
気付けば瞼の向こうが明るくて、ぱちぱちという音が耳をくすぐった。
デューゴが目を開けると、赤い光があった。火の光。焚き火。焚き火の向こうには、あの少年が三角座りをして手記を書いていた。青い帽子をとって、黙々と。と、はっとして顔を上げる。緑色の瞳に、焚き火の光が踊っている。
「起きた? 大丈夫?」
改めて目の前の少年を見れば、どうも自分より年下に見える。
デューゴは何も答えられなかった。身体を起こすのが、精一杯だった。少年が、こちらの荷物から引っ張り出し用意し寝かせてくれたのだろう寝床から、なんとか抜け出す。
少年は手記を閉じればコップに水を淹れ、目の前においてくれた。そしてリュックから、固いビスケット数枚を取り出した。
「食べて」
それは長期保存に向いた、つまり旅人のための食料だった。受け取れば、冷たくも、温かくもない。それでも。
「……ありがとう」
やっと言葉を出せたのだった。
久しぶりの食事は味がしなかった。口の中に、ひどく硬くて乾いたものが入ってきた。そんな感覚だった。まるで木の枝でも食べているかのようだったが、かりかりと奥歯でかじっていると、ぱきりと砕け、そのかけらは溶けるかのように小さくなっていくものの、なかなか飲み込めない。そもそも空腹をあまり感じていないのだ。だが、身体は自然に、やっとそれを飲み込んだ。食事をしている、とは到底思えない感覚だったが、身体の中に何かが落ちてくる感覚はあって、するとふいに空腹感がよみがえってきた。
まだ生きている。まだ生きようとしている。そうして水を一口飲めば、次のビスケットをかじるのだった。
顔を上げれば、あの少年が、再び手記に何か書き込んでいた。と、彼が顔を上げれば、目が合った。その緑色の瞳は、どこか不思議に思える。
「……あんた、旅人、か?」
持っていたビスケット。手記、そして大きな荷物。そもそも暗闇の中を星油ランタン片手に歩いていたのだ、旅人以外に、他ならないだろう。
「……君はあんまり、旅人に見えないね」
少年はこちらをまじまじと見つつ、首を傾げる。
「ものもあんまり持ってないみたいだし、旅に慣れてないみたいだし……伝達役?」
伝達役。それは自身の街の様子を、他の街に伝えるために、また交流のために時に必要になる役。本来、旅人がいれば、その旅人がすべて担ってくれる為に必要がなくなるが、旅人が来ない街では、その街の住人一人、あるいは何人かが暗闇の中を歩いて他の街に行き、互いの街の情報をやりとりしたり、取引をしたりして、帰ってくる必要が出てくる。危険な仕事だ。何せ、伝達役はたいてい旅に慣れていない町人がやるのだから。
だから少年は、そう思ったのだろう。けれども。
「違う」
デューゴはそれだけ答えて、それ以上はもう、言いたくなかった。
街は死んだのだ。
口の中にあるビスケットが、砂利のようだった。
それでも少年は、一度静かになった後で、続けた。
「どこに行こうとしてたの?」
どこからきたの、ではなく、どこに行こうとしていたの。
過去ではなく、未来の話。
「――新しい、街に」
言葉は出た。
「家族と……ほかの街の住人と一緒に……」
一緒に、行くはずだったのだ。
できなかった。
言葉がそこで止まったのは、ビスケットを飲み込んだからではなかった。
目の前の少年は、じっとこちらを見ていた。まるで幼い子供のように思えるが、その奥に、全く違うものを秘めているように思える。あたかも、すべてを理解したかのように。
「……僕、エピ」
やがて彼は唐突に名乗った。そういえば、名前を聞いていなかったし、名乗ってもいなかった。
「……デューゴだ」
握手をすることはなかった。焚き火を挟んで、向かい合って座っていた。
「一人で旅をしてたわけじゃないんだね。はぐれたの? 近くの街に、行く予定だったの?」
エピに言われ、デューゴは傍らにあった自分に荷物を漁り出す。目が覚めてきたように、どこか、もしかしたら、という気持ちがわいてきた。
軽い荷物。エピのものと比べれば、小さなもの。その中から、ぼろぼろの地図を取り出す。何度も確認した地図だった。「この街に行く予定だった」と、地図をエピに見せながら、その街を指さす。
焚き火の向こう、エピは食い入るように地図を見つめていた。初めて見たと言わんばかりに。やがて立ち上がれば隣までやってきて、改めて地図を見つめる。地面に広げた地図は、焚き火の明かりに赤く染まっていた。その近くで、エピのランタンとデューゴのランタンの光が、揺れる。
「……このあたりの地図じゃないね」
そうしてエピは口を開いた。
このあたりの地図ではない――しかし、思うには。
「俺はこのあたりを歩いてると思ったんだが」
その漠然とした場所を、丸をつけるように指でなぞる。目的の街からは、ずっと離れた場所だ。ここにいるとあてをつけたのだが。
「違う………僕、この地図、初めて見たよ」
そのエピの言葉に、えっ、とデューゴは声を漏らした。エピは地図から顔を上げないまま、続ける。
「君……もしかして歩いているうちに、この地図の外に出たんじゃないかな」
つまり、全く知らない場所へ。
そんなはずは、と思ったが、いくら歩いても街が見つからないのは、事実だ。
唖然として地図を見下ろした。もう役に立たない地図。一体どこへ歩いていってしまったのだろう。本来のルートから、どれくらい離れてしまったのだろう。
暗闇の中では、もう何もわからない。
「悪いけど……」
と、エピが顔を上げる。それは、少し冷酷にも思えるほど、表情を少しも変えないで。
「誰かとはぐれたのなら……もう会えないかもしれない。多分この地図は、こことは全然違う場所の地図だよ」
暗闇の中で見失ったものを見つけるのは、非常に困難だ。
だからこそ、暗闇の中の旅は危険なものなのだ。
「そんな」
全く知らない場所。ここは、どこなのだろうか。
帰る場所も失って、向かう先も見えなくなって。
「……でも、運が良ければ、近くの街でこの地図に描かれてる場所を知ってる人がいるかもしれない」
と、エピが付け足す。言われてはっとデューゴは顔を上げた。その通りだ、エピはあくまで、自分はこの場所を知らないと言ったのだ。けれどもほかの人ならば。そして知っていたのなら、この目的の街に、行けるかもしれない。移住ができるか、わからないけれども、皆で目指したこの街に――。
しかしそこで振り返った。何もない、暗闇を。
どこまでも黒色が続いている。何もない、いや、それでも何か得体の知れないものが潜んでいそうな闇を。
何かがこちらを見ているような気がした。
首から提げていた、兄のペンダントを握りしめた。手の中で、わずかに光を放っている。
「……どうしたの?」
エピの声が聞こえた。
もし、この地図に描かれた街にたどり着けたとしても。
目の前に、元住んでいた街から一緒に歩いてきた人々は、家族は、いなかった。
「……頭が痛い」
デューゴがそう言えば、エピははっとした様子で、少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、疲れてるに決まってるのに、ちょっと大変な話をしたね……今日は休んだ方がいいよ。水はもう大丈夫? 食事も……ちゃんと食べられたみたいだね」
そうしてエピは、片づけはこちらがやるから、とコップを受け取り片づけを始めた。デューゴは再び、敷き布の上に横になれば、ゆっくりと布団を被った。片づけが終わったエピも、すでに用意していた寝床へと入っていく。ランタンの色を見れば、蜂蜜のような色をしていた。
横になったまま、同じく横になったエピを見ていると、慣れているかのように深呼吸をして、こちらに背を向けていた。どうやら、相当旅に慣れているように見える。
そこでふと、デューゴは気がついた。
「水……足りるのか?」
水は旅の命綱。
「食料も……わけてもらったのはありがたいけど……悪かったな、貴重なものなのに」
食料も、なければ歩く力が失われてしまう。助けてもらったものの、迷惑をかけたに違いない。
「大丈夫だよ」
と、エピが寝返りをうってこちらを向く。
「予備の分が余ってたから。それに、明日、街に着く予定なんだ」
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