第四話(04)
* * *
次の日の朝。目的の街まで、あと少し。
ランタンの様子を見て、デューゴは星油を少しだけ足した。思っていたよりもずっと、星油の残りはあった。惜しみすぎたのかもしれない、節約を通り越して、けちに思える。だが、旅はもう終わるのだ。
しかし心配事は別にあった。
ふと振り返る。黙々と歩く兄の姿がある。その胸元にペンダントはない。
昨日の夜、兄から渡されたペンダントはいま、デューゴのポケットの中にあった。身につけてはいない。これを喜んで身につけていいのか、わからなかったからだ。
兄は、あのことを父親に話したのだろうか。そのことに関しては、何もわからない。二人とも、黙り込んでいる。何かあったのか、何もなかったのか。しかし母親を見れば、少し困った様子を見せていたから、話したのかもしれない。結果はどうなったのか、わからないけれども。
どのみち、自分にも何か話されるだろう、と、デューゴは前を見た。星油ランタンがわずかに揺れる。これは、兄だけの話ではないのだから。だからこそ、ペンダントを渡されてしまったのだから。
けれども、もしこのまま、兄が家業を継がないとして。
――自分は、どうするべきなのだろうか。
兄のように、やりたいことなんて、思いつかない。
だからこそ、焦る。
自分が空っぽだったことに気がついて。
言われて気がついた。養鶏農家は決して「やりたいこと」ではなかったと。
やりたいこと――自分が何になりたい、とか、何を成し遂げたい、とか、何を学びたい、とか。
溜息が出てしまう。思いつくことと言えば、ただ平和に生きたかった、それだけだ。
だが、いまそう考えると、妙な違和を感じてしまう。
それをやりたいことと言って、いいのだろうか、と。
ただただ、歩いていく。
……多分、いまのような状態だったのだ。ただひたすら、暗闇を歩いているような状態。ぼんやり先を目指しているかの状態。進んでいるだけで、どこにも向かってはいなかった、というような。それはつまり、進んでいないのと、同じようなものだ。
平和に生きたい。そう考えることで、何も考えていなかった――自分が何者であるのかも。
けれども。
先を見る。いつもの光景。光の行列。何一つ変わっていない。
どこへ向かえばいい。どこへ向かいたい。何がしたい。
前を見据える。何も見えないけれども、何かを見ようとするように。
どこへ向かいたいかはわからないけれども。
「どこかへ向かいたい」ということは、わかった。
自分は、自分の生きたいように、生きたいのだ。
深く、深く、溜息を吐く。
街の光は消えた。だが、それで見えたものがあった。
暗闇だった。そしてその先の小さな光だった。
――そんな気がした。
周りに光があった。それで満足した。だから小さな光すらも、手に入れようとは思わなかったのだ。
先に進もう。そう考えて、瞬きをした。それでも風景は変わらないけれども。
先に進もう。やりたいことは、わからないけれども。
前へと続く光の行列が、何故か新鮮に思えた。いままでよく見ようとしていなかったからだと、気がついた。そこに光がある、それだけを、思っていた。そのことに、気がついた。
変な感じだ。
「――何笑ってんだよ」
とん、と後ろからつつかれた。少し離れたところでしかめ面しながら歩いていた兄が、そこにいた。
言われて気がついたが、自分は笑っていたらしい。
「……考え事してただけだ」
正直に言うのが恥ずかしくて、デューゴは口をとがらせて答えた。すると兄は、少しいやらしい顔をして、尾のように結んだデューゴの髪を軽く引っ張る。
「何だ? エロいことでも考えてたか?」
「ちげーよ馬鹿かよ」
どうも、兄に落ち着きがない。昨晩の話の件だろう。父親に話して、何があったのか。うまくいったのか、そうでないのか。不安なのか、そうでないのか。
だが。
「……先のことを、考えてただけだ」
デューゴはしばらくして、兄に伝えた。
「いっても、何にも考えられてないけどな! まあ……昨日のお前の話のせいだ、やりたいこととかさ」
お前の話の「せい」だ、ではなく、「お陰」だ、が正しいのだけれども。
素直にはなれなくて、まるで投げつけるかのように言ってしまう。しかし、兄はやはり兄であるためか、言いたいことは、伝わったらしい。
「……そうか」
怒ることはなかった。少し驚いた顔をしたものの、納得したような表情に変わり鼻で笑う。
「なんかあったか? 手伝うぞ」
「だから、何も考えられてないんだって」
いま言ったばかりだろ、と、誤魔化すようにデューゴは肩を竦めた。なんだかんだ、兄には伝わってしまうものなのだ。だが、素直になるべき時は、なるべきだと、わかっている。だから、
「……でも、初めてそういうこと、考えた」
自然に俯いてしまったものの、
「ありがとな、話してくれて。俺も……考えられるようになった」
「……なんだよ、気持ち悪いな」
と、兄がわずかに後ろへと距離を取る。せっかく言ってやったのに、とデューゴは顔を少し赤くしながらも、後ろに行った兄を睨んだ。すると、兄もわずかに顔を赤くしていた。
兄弟でこういう話をするのは、あまりなかったかもしれない。
あたかもそうだよな、と確認するかのように、デューゴは兄を見ていた。兄の後ろには、また光の行列が続いている。
だが、ふと、違和を覚え、真顔になる。
「何だよ?」
兄が怪訝な顔をする。しかし、兄に違和を感じたわけではなかった。その後ろだ。こちらへと続く、光の列。同じ街を目指す、人の列。
まるで息をしているかのように揺れる光。それは火の光だったり、星油ランタンの光だったりするが、どれもふわふわと生き物のように動いているのが見える。いつもと変わらない。いままでずっと、前を見たり、後ろを見たり、きょろきょろしていたのだから間違いない。けれども――何かが変だ。
「どうした?」
異変に気付いて兄も振り返り背後を見つめる。けれども、兄は何も言わず、再び「何かあったか?」と首を傾げる。兄の目から見ても、何も変わったことはないらしい。
「いや……何も」
だからデューゴも気のせいだと思い、軽く頭を振ったが、違和感は拭えない。じっと、見つめ続ける。
何がおかしいのだろう。それとも、おかしいのは自分か? 考え方が少し変わったからか?
――短くなっている?
やがて、そんな気がして、首を傾げた。
前にも後ろにも続く、光の列。その尾が、短くなっているような気がした。
気のせいだろうか。延々と延びているような気がしていつも見ていたが、今日は終わりが見えていた。目覚めたように考え方が変わったためか。ぼんやりとしていた頭が、少しすっきりしたためか。
と。
最後尾にあった光が大きく揺れた。まるで小魚のように。
そして、消えた。
消えた。ぱっと。蝋燭の火に息を吹きかけたようにとは違って、隠されたかのように消えた。
瞬きをする。目の錯覚だろうか? 深呼吸をするように、もう一度目を閉じて、瞼を開ける。すると、先程見た光がどの光だったのか、どこで消えたのか、わからなくなってしまった。
幻、だったのだろうか。
否――また光が消えた。暗闇に隠されるように。音もなく、悲鳴もなく。
反射的に瞬きをする。消えている。確かに光が消えている。それでも、気のせいのような気がして、理解が追いつかなくて、デューゴは首を傾げたままだった。
理解したくないから、理解できない。
だが、やっと声が出た。
「おい……あれ……」
どうして光が消えていく。まるで尾から食べられているかのように。
兄も気付いて顔をしかめた。消えていく光を、じっと見つめる。父親も異変に気付いて振り返る。母親はどうしたの、といわんばかりに家族を見つめる。他の者は、振り返らない。前も後ろも見たくないとでもいうように、俯いていたから。
デューゴが気付けたのは、奇跡と言えた。
笛の音が響いた。悲鳴のような音が暗闇を切り裂く。我に返った父親がとっさに吹いたのだ。危険を告げる音。
俯いていた人々が、まるで起こされたかのように顔を上げる。切羽詰まったような音に、何か悪いことが起きているのだと気付くものの、何が起きているのか、誰も理解ができない。振り返って呆然とする。そこにいたはずの人間が、光が、消えていることに、目を疑い理解を拒む。
目の前にあるのは暗闇。何もない、黒色。呆然と見つめていた一人が、また隠されるように暗闇に消えた。
「走れ!」
誰かの声が響いた。はっとして、デューゴは走り出した。止まっている場合ではない。走らなければ。兄と共に走る。星油ランタンが、激しく揺れる。
走れ――走れ――。まるでこだまするかのように人々が声を上げている。その意味も分からない様子で、ただただ悲鳴を上げているかのようだ。父親が再び笛を吹く。
『暗闇』だ。
それも巨大で星油の光を恐れない――まさに死が具現化したような『暗闇』。
噂ばかりだと思っていたのに。存在しないと思っていたのに。
「急げ、デューゴ! 早く!」
足が急に重くなる。並んで走っていた兄が気付いて叫ぶ。
その次の瞬間だった。
背後から、何かに包まれたかのような感覚がした。
冷たくも温かくもない。何もいないかのようだが――確かに、何かがいる。
ふっと、持っていた杖の先、ぶら下がっていた星油ランタンが消えた。
まるで目がなくなったかのように、視界が黒色になった。
何も見えない。訪れる静寂。先程まで、笛の音や悲鳴が聞こえていたのに。それが全て幻だったかのように、いまはもう、聞こえない。
空気が重くなってまとわりついてくるかのように、動けなくなる。あたかも粘り気があるかのように、吸えなくなる。足が動かない。息が止まる。
動けない、声も出せない。震えることもできない。時間が止められてしまったかのようで――徐々に、自分が溶けていくかのようだった。
痛みも他の感覚もない。
きっと、死んだことさえもわからない。
息ができないのに、苦しくもない。
もうだめだ。もう、だめだ。
……もうだめなのか。
不安も感じない。眠りに落ちていくのに似ていた。
―――――走れ。
―――走れ。
走れ。
「――走るんだデューゴ!」
兄の声が、聞こえた。
何かに背中を押されたような気がした。
詰まっていた息を吐き出して、前に転びそうになったが、一歩踏みだしそのまま転がるように走り出す。
走らなければ。
見えない。何も見えない。音も聞こえない。自分の息づかいも、足音も何も聞こえない。果たして自分がいま走っているのか、それすらも曖昧だ。
それでも、走らないと。
背後から、何かが迫ってきているような気がした。
と、足がもつれた。
悲鳴を上げた気がしたけれども、聞こえなかった。
前へと倒れ込む。しかし、杖はまっすぐに握ったまま。
消えてしまった星油ランタンだが、手放し割ってしまえば、もう助かることはない。光を失うわけにはいかない――そう思ったのは、残っていた理性か。あるいは生き残りたいという本能か。
身体の前面を擦るように倒れ込んだ。痛みはなかった。
と、こん、と小さなものが落ちる音が聞こえた。石が転がったような音。
それはこの暗闇でやっと聞き取ることができた音。
「……ぅあ」
声が出た。身体が痛かった。
傍らを見れば、本当に小さな光が転がっていた。
兄から渡されたペンダントだった。星油を閉じこめたペンダント。
土埃にまみれた手で、ペンダントを拾う。光はあまりにも小さく『暗闇』を追い払うことはできない。
だからデューゴは痛む身体を叩き起こせば、再び走り出した。
走らないと。走らないと。
先程までわからなかった自分の息遣いがうるさい。身体が痛くてうまく走れない。そのせいで、また転ぶ。今度は座り込むように。星油ランタンの杖にすがりつくかのように。
身体は震えていた。気付けば泣いていた。
そして周囲を見回せばやはり真っ暗で、しかしあの気配がなくなっていることに気がついた。
――光が、欲しい。この暗闇を照らす光が。
明かりをつけないと。このままでは。
ポケットに手を入れ、マッチ箱を取り出す。暗闇の中、杖をたどって星油ランタンに手を伸ばせば、手探りで芯を出す。
大丈夫。大丈夫。あとは火をつければいい。
暗闇の中、手探りでマッチ一本を取り出し、擦る。しかし暗いためか、手が震えているためか、ぱきりと音が聞こえてきた。折れてしまった。慎重に。慎重に。またぱきりと音がする。落ち着け。落ち着け。深呼吸をして、もう一本取り出す。だが、それも擦る前に力んで折ってしまう。
火が灯ったのは、四本目だった。赤い小さな光が生まれる。変な持ち方をしていたためか、指が熱い。
それでも、ランタンの白い芯に、火を灯す。
そしてあたりは白い光に包まれた。
かつて空にあったという、太陽の色。
星油ランタンは、元のように輝き始めた。
その光を吸い込むかのように、デューゴは深呼吸をした。涙を拭った手は、転んだときに擦りむいたのか、血が出ていた。
生きている。『暗闇』から逃げ切った。
自分は確かにここにいる。
だが、我に返る。
――あたりを見れば、ただ暗闇が広がっていた。
何の光もない。
「……兄貴?」
あまりにも弱々しい自分の声だけが聞こえる。
「親父? 母さん?」
何の返事も返ってこない。何の光も見えてこない。
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