第四話(02)


 * * *


 それから数日が経って、街を捨てる日になった。

 あっという間だった、と思う。街を捨てると聞いてからその日まで、まるで夢の中の出来事のようで、全てがぼんやりと進んで、ぼんやりとその日が来てしまった。街には、確かに変化が起きていたと思う。しかしまるで感覚が鈍ってしまったかのように、何も起きていないように思えたのだ。

 だが確かにその日は来た。いつ用意したのかも憶えていない荷物を、デューゴは背負う。いつ準備したのだろうか、ただ、そう思えるということは、全く緊張感なく準備できたということだろう。まるで「街を捨てる日ごっこ」でもしているかのように。忘れ物をしていないかどうか、本当にこの荷物だけでいいのか、そんな不安もない。生きた心地がしない、という言葉は正しくない。確かに息はしている。けれども、起きている気がしない。頭が回らない――それは無意識に、理解を拒んでいるからか。そこまで考えられるものの、もうそれ以上はわからない。

 ククッコドゥルの薫製作りは間に合った。予定していたククッコドゥル全てを薫製にして、できたものは道中の食料として街の人々に配られた。同じく様々な物資が、自分達を含めた街の人々に配られた。旅をする際に必要になるものはもちろん、着いた新しい街で財産となるものも。全員が生き延びるために、街全体で協力する。

 星油も分けられる。残り少ない『星油の泉』から、平等になるよう汲まれ、ボトルに詰められた。まだ人々に配れるほどの量があった。この星油が一番の生命線と言ってもいい。

 星油をもらう際に、デューゴはようやくいまの『星油の泉』の姿を見た。枯れるとわかってから『星油の泉』への立ち入りは関係者以外禁止されていたのだ。誰かが全て持っていかないように。

 枯れかけた『星油の泉』は、何故だろう、あと少しであるものの、冷めてしまい飲む気が失せてしまった茶を思わせた。星油とは透明できらきらと輝いているのに、そう見えなかった。茶ならば、新しく淹れ直せばいい。そんな風に、この泉も復活するのではないかと、思えてしまった。だがそうできないから、街を捨てなければならない。

 最後に、泉にはわずかな量の星油が残った。それ以上はもう汲まない。この街に残る人々もいるからだ。街から離れるのを嫌い、ここで残りを生き、そして街とともに死んでいくことを選んだ人々の分だ。また、この街が死んだことを知らず、訪れてしまった旅人の分でもある。

 自室のある二階から、一階へと降りる。振り返りはしなかった。もう二度とこないなんて、思えなかったから。背負った荷物は思ったより軽い。ほとんどのものを置いていかなければいけなかった。しかしどれが大切かなんて、言われてもぱっとわからず、本当に適当なものを詰めただけだった。

 まだなかった。街を出て行くという、実感が。だからこそ、別れの挨拶もそんなにできなかった。

 家の外に出る。そこで待っていた家族と合流して、自分達が旅立つ門を目指し、街を歩いた。街は静かだった。人通りは多い。それぞれ何か話している。泣いている人もいた。しかし、静かだった。皆慌てて、顔には不安を浮かべ、騒がしいけれども、嫌になるほどに静かだと感じた。

「……静かだな」

 思わずデューゴがそう言うと、兄は首を傾げたものの、笑った。

「そう暗い顔するなって」

 門の周辺には同じ街を目指すグループの人間が、既に集まっていた。街の住人はいくつかのグループに分けられたが、その一つのグループの規模は、数百人ほど。だからここには数百人の人間がいるはずなのだが、やはり静かに思えた。皆、これからのことを眉を顰めて話し合っているというのに、泣いている子供もいるというのに、静かだった。あたかも耳が何かで塞がれているかのように、聞こえない。

 急拵えの荷馬車もあって、そこに幼い子供や本当に大切な物資を乗せている人々の姿が見えた。馬が少ないために、荷馬車は一グループに多くても三台しかない。人間の数に対して、かなり少ない方だろう。そこに、自分達の十羽にも満たないククッコドゥルも、乗せてもらった。

 あんなにたくさんいたククッコドゥル。毎朝大声で鳴いていた鶏達。その大半は食肉となって人々の荷物に紛れ、一部は生きたまま他のグループの人間に譲った。また数羽は、街に残った人々のために、鶏舎においてきた。鶏舎を出る際、残ったククッコドゥル達が、ガラス玉のような目でこちらを見ていたのを思い出す。

 荷馬車に乗せたククッコドゥル達も、同じような目をしていて、妙に大人しく、少し気持ち悪かった。一緒に乗り込んだ子供達は元気だったけれども。

 そうして全員がそろってしばらくして、高い笛の音が聞こえてきた。

 出立の合図。

 ぷすりと、何か、針が刺さったかのような感覚。

 荷馬車が動き出す音が響いてくる。人々は一列になり、外へと続く門を潜る。デューゴも家族とともに門を潜って、先の暗闇を見据えた。

 本当に何もない。この行列が、暗闇に呑み込まれているかのようだ。

 空気が冷たくなったような気がした。無意識に息が止まる。

 この先に、本当に街があるのだろうか。手にした杖を握る。杖の先には、星油ランタンがさがっている。古いものだが、しっかり手入れをした。その光は明るいが、それでも先の暗闇を照らせない。

 旅をするにはなくてはならない、星油ランタン。家には二つあり、一つは父親が、もう一つはデューゴが持つことになった。こんな貴重なもの、普通ならば兄が持つのではないかと言ったが、兄は何かと手伝うことが多いため、デューゴが持つことになった。旅は未知。とくにこの引っ越しについては何が起こるかわからないし、協力しなければいけない。だから、デューゴよりも器用な兄の手が空いていた方がいい。

 街の外に出るのは初めてで、どこを見ても、本当に何もない。旅人から聞いた話は、本当だったのだ。外には、暗闇だけ。

 振り返れば、まだ街の灯りが近くに見えた。しかしその光は、思ったよりも小さかった。住んでいる時は、あんなに光溢れた場所だと感じていたのに。住人の大半が出ていき、家々の灯りが減ったこと、資源の節約のために街灯を減らしたこともあるだろう。しかしそれをおいても、街は暗闇の中でちっぽけな光となっていた。

 歩くほどに遠ざかっていく街。あのまま、養鶏農家として生活していくと思っていたのに。


 * * *

 

 本当に、何もない。星油ランタンが、荒れた大地を照らしている。あるのは暗闇だけ。何かあったとしても、見えないだろう。

 やはり夢の中を歩いているような気がして、深呼吸をする。空気は冷たい。大地は温かいはずなのに。

 だからこそ思う。次に瞬きをした瞬間、自室の天井を見上げているのではないか、と。何羽ものククッコドゥルの鳴き声が痛いほどに響いてきて、朝になったことに気付くのではないか、と。

 でも、踏みしめた感覚は、確かにある。

 目指す街までは七日ほどかかるという。今日で二日目。振り返っても、故郷の街はもう見えない。いつから見えなくなっただろうか。あるのは暗闇だけだった。本当にこの先に街があるのだろうか。わからない。

「――びびってんのか?」

 と、声をかけられ、はっとして顔を上げる。隣に並んで歩いていたはずの兄が先にいた。疲労した様子も、不安そうな様子も全くない。他の人はどちらかの表情を浮かべているのにもかかわらず。

「……びびってねぇよ」

 地面を抉るように杖をついて、デューゴは兄を睨む。星油ランタンの光が揺れた。

「じゃあ疲れたのか? そろそろ夜になるから、野宿の準備にはいると思うぞ、それまで我慢しろ」

 兄は妙に元気だ。この状況を、なんとも思っていないのだろうか。

 ――そう考えると、思っているよりも、自分が追いつめられていることに気がついた。

「……なあ、この先に、本当に街があるのか?」

 元気そうな兄が羨ましくて、溜息を吐きながら聞いてみた。前を見れば、行列が暗闇へ伸びている。

「なくても歩くしかないだろう」

 兄は少し真面目な顔をした。

「もう元の街は見えないし、戻れたとしても……あの街はだめなんだ」

「……そうだな」

 全くその通りだった。先に街がなかったとしても、だからといってこの暗闇の中で立ち止まるわけにはいかない。

 しかし、そんな答えを求めたわけではなかった。不安は募るばかりだ。また抉るように杖をつくと、星油ランタンが揺れて、その光がちらついた。

「……ランタンの調子が悪いのか? そう変に扱っても、大丈夫なもんってきいたけど」

 息をするように明滅する光を、兄は見上げた。デューゴも見上げて、

「星油をけちってるんだよ。多分、そのせいだろ」

 とりあえず入れておこう、という考えが怖かった。だから、ランタンにあまり燃料を入れていない。

「ちゃんと切らさないようにしておけよ。星油の灯りがないと、暗闇の化け物がくる。焚き火をしようにも、暗闇の化け物ならその光を呑み込むらしいからな」

「でも他の奴らも灯りを持ってる、一個ぐらいけちって小さな光にしたところで、問題はないだろ。それよりも全員でばんばん使ってたら、その後が怖いだろ?」

 暗闇をまた見据える。いまは星油ランタンがあるから明るい。しかし遠くを見れば、こちらを呑み込んできそうな黒色に満ちている。そしてその黒色には、これまた黒い怪物がいるのだという。

 単純に『暗闇』と呼ばれる、それ。火の光も、人間も呑み込んでしまうという恐ろしい存在。呑み込まれてしまえば、何も残らないという。唯一嫌うのが星油とそのランタンの光。

 だからこそ、星油は生命線だ。星油の光があるからこそ、いま暗闇を歩いていける。火をつけることができる。

 けれども――その星油の光すらも恐れない『暗闇』がいると、聞いたことがある。全てのもの、全ての光を呑み込んでしまう、怪物。

 旅人から噂話程度に聞いたことがある。だから本当に存在するのかどうかはわからない。知らない。だがもし本当にいて、いまここに現れたのなら。

 しかし噂話なのだ。そんなものは、きっと現れない。ありえない。

 ――だが、街の星油が尽きた。そんなことは、ありえないと思っていたのに。

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