第四話 瞼の向こう ~デューゴの物語~
第四話(01)
いままでが壊れる。現実が崩れる。それはまるで夢をみているかのようだった。私はそうだった。しかし時間が経つにつれ、本当に起こってしまったのだと、やっと理解するのだ。いや、それまでは理解したくなくて、夢だと思ってしまうのかもしれない。だが現実からは逃れられない。
太陽、月、そして星。空がなくなった時も、こんな風だったのではないかと思う。大昔の人々は、まさか世界が暗闇に包まれるなんて考えてもいなかったはずだ。あの瞬間、誰もが夢だと思ったに違いない。
【デューゴの手記より】
* * *
『星油の泉』の水嵩が減った。
最初にそう気付いたのは、泉の掃除係だった。しかし、減ったのは少しだけ。気にするほどでもなかったらしい。そんな時もある、と。けれども数日経っても水嵩は戻らず、まるで蝋燭がゆっくり溶けていくように減っていったのだと言う。
その時は、何かが詰まって出が悪くなったのではないか、と考えられた。だから一人が底まで潜って噴出孔の掃除をした。土や石が少し詰まっていたらしく、水嵩は回復し、問題は解決した。だが、その行動が結果的に街の寿命を縮める結果となった。
水嵩が元に戻ったのは数日の間だけ。きらきらと輝くシロップのような泉の水嵩は、また徐々に減っていった。こうなると、人々はもう「水嵩が減っている」という事実を受け入れられず、誰もが黙っていた。
やっと現実に目を向けたのは、水嵩が元の半分以下になった頃だった。
――この街の『星油の泉』が、枯れようとしている。
誰もが起こらないだろうと思っていたこと。口にすることさえ憚られた現実が、そこにあった。
* * *
この街を捨てることになった。
デューゴと兄が、父親からそう告げられたのは、夕食の時だった。家の裏にあるククッコドゥルの鶏舎はもう黙り込んでいる。しかし朝になれば、いつも通りけたたましく鳴くのだろう。しかしその父親の言葉で、明日からはいつも通りではなくなるのだと、デューゴは理解した。その言葉の意味を理解しただけで、実際どうなるのかはわからないし、未来の片鱗を感じ取ることもできなかったけれども。
――今朝から街に不穏な空気が濃く漂っていたのはわかっていた。ここ数日、町長の元に何人かの大人が集まっては、困り果てた顔をして帰ってきていた。父親もその一人だった。だが今日は違った。今日、父親をはじめとした街を支える大人は、朝から街中を周り、一軒一軒の扉を叩いていたのだ。
「街を捨てるって?」
食事の手を止めて、デューゴは尋ねた。何かが近いうちに起こる、そう思っていたものの、その言葉はまるで物語の一文のような気がした。けれども後ろでまとめた黒い髪は動揺するかのように揺れて、金色の鋭い目も細くなってしまった。隣に座る兄も戸惑いにかすかに表情を歪めてじっと父親を見ている。
部屋は明るく、灯りの火は揺れることもなく点っていた。
「星油が尽きてしまうのよ。そうなると、この街では生活ができなくなってしまうでしょう?」
いつもと変わらないように見える室内。そう伝えたのは母親だった。
「だから街を捨てるしかないのよ、デューゴ」
その言葉も、デューゴにはどこか台詞めいて聞こえた。
生活の終わり。意味がわからない。
「街を捨ててどうするんだ?」
先について尋ねてくれたのは、デューゴより三歳年上の兄。
「隣町に移り住む」
父親は答えた。すると兄はさらに首を傾げ、
「つまり引っ越しってことか? この街の人間全員?」
「いくつかのグループに分かれて、それぞれ別の街を目指すんだ。一つの街に全員で押し掛けるわけにはいかないからな」
別の街を目指す。
少しして、デューゴは気がついた。それはつまり、慣れ親しんだ街の住人と別れることであり――かつ、隣町まで危険な旅をしなくてはいけない、ということだ。
隣町についてはおろか、街の外についてはよく知らない。一度も外に出たことがなかった。そもそも出るものではない――世界は真っ暗であり、そこには『暗闇』と呼ばれる恐ろしい怪物もいるというのだから。
しかしこのままでは、この街も暗闇に包まれてしまう。だからこそ、光がまだある街に移り住まなければいけない、と。
何故だか、自分が何も感じていないように思えた。
……後から思い返せば、受け入れられていなかったのかもしれない。
「出発まで日にちはある……けれどもお前達、今のうちから準備しておけ。それから友人や世話になった人、親しい人に挨拶をしておくんだ、二度と会えないかもしれないからな」
いつの間にか食事を終えていた父親は、立ち上がった。
「日にちはあると言ったが、時間はそんなにないぞ、明日から忙しくなる……旅のための食料を、街の皆に準備しなくてはいけない……明日から、ククッコドゥルの薫製を大量に作るぞ。お前達にも手伝わせるからな」
* * *
次の朝、鶏舎からはいつものようにけたたましい鳴き声が響いてきた。この鶏舎を見たある旅人は、大きなものだと言った。けれどもある旅人は小さいと言った。そのため他の街にある鶏舎と比べて、実際はどうなのかは、デューゴにはわからない。それでも、自分達のククッコドゥルはよく褒められた。特に長い尾が立派だと、街の外から来た人間に言われた。ククッコドゥルは、街によって姿が様々だ。他の種類のものを、実際に目にしたことはなかったけれども、本では見たことがある。確かに、皆が言うとおり、その本に描かれたものより、自分達が飼育しているものの方が尾が長いとは思った。それに、どの種類のククッコドゥルよりも、家で育てているものの方が愛嬌があって可愛いと思えた。
しかし可愛いといえども、ここで育てているのは食肉用のものだ。
「この作業も、しばらくやらなくなるんだな」
隣で処理をしていた兄が、呟くように言った。
ここにいるククッコドゥル全部を、旅には連れていけない。それに昨日父親が言った通り、街から出て行く人々には、食料が必要になる。精肉しなければいけなかった。
いま、街の全員がそれぞれにできることをもって、協力していた。全員で街を捨て出て行くのだ。自分達のような畜産農家や農家は、人々のために食料を用意する。織物屋は皆のために丈夫な衣類を作っている。特産品となるであろうものに携わっている者も、それぞれ数を作り、隣町で財産として物々交換できるよう、人々に配る予定だ。
手を動かし続ける。この作業は、慣れている。いままで普通にやってきたことだ。だが今日は、少し妙な感じがした。数が多いためだろうか。
この作業も、しばらくやらなくなる。今更になって兄の言葉が耳に届いて、ふと手を止めた。
「……そうだな」
やっとデューゴは返事をしたけれども、実感はなかった。
しかし次の日の朝、確かにククッコドゥルの鳴き声は小さくなっていて、まるで朝が来ていないようだった。
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