140. 退場フラグ
公爵の書斎を出た僕と父は、そのまま真っ直ぐ、玄関へと向かった。
一時間前にここを訪れた時には、まさかこういう気分でここを後にすることになるとは、思わなかった。
玄関前にはまだ馬車は来ておらず、僕と父は、少し待たなければならなかった。
父は僕を気遣う様子を見せてはいたが、なんと言うべきかはわからなかったのだろう、口は開かなかったし、僕も、話をしたい気分ではなかったので、ちょうどよかった。
誰が知らせたのだろうか。馬車が来るより先に、ヴィルジニーがやってきた。
玄関を飛び出すようにしてきた彼女は、真っ直ぐ僕の方へ、急ぎ足でやってきた。
「なにごとです? 迎えに来なさいと言ったはずです」
その様子を見れば、まだ彼女は知らないのだ。
「それに、まだ話は」
「ヴィルジニー……いえ、ヴィルジニー様。本日のところは、お暇させていただきます」
「…………父に、何を言われたの?」
僕はこちらを見上げてくる彼女の目を直視できず、顔を逸した。
「
その間に馬車がやってきて、すぐ前で止まった。
「ヴィルジニー様。ご挨拶もできず申し訳ありませんが、本日のところは、失礼させていただきます」
帽子を取って言った宰相をチラリと見ただけで、ヴィルジニーは僕へと向き直った。
「なにがあったかわかりませんが、おめおめと逃げ帰るおつもりですか?」
「そういうわけではございません。ただ……あまりにも急でしたから、ゆっくり……考えたい」
ヴィルジニーは、不服そうではあったが、僕の言葉に納得の色を浮かべた。それでも、細めた目を上目遣いにして、言った。
「……
「……責任?」
思わず反芻した僕に、ヴィルジニーは一瞬だけ目を横に動かしたが、結局周囲を確かめることなく、僕への距離をあと一歩のところまで一気に詰めた。
「
ヴィルジニーの顔が一気に近づいて、つま先立ちしたのだ、とわかったときには、僕の肩を掴んだ彼女の唇に、口をふさがれていた。
父も、使用人も見ている前で、このような大胆なことをするとは思わず、僕はされるがまま、彼女にキスされた。
離れたヴィルジニーは、怒ったような顔で、僕をもうひと睨みしてから、機嫌を損ねたように素早く身を翻した。
そのあとは一度も振り返るようなこともせず、屋敷へと入っていってしまった。
「まさか、本当にヴィルジニー嬢を……」
馬車が走り出してほどなく、父は口を開いた。
「どうやったんだ?」
「どうって?」
肘置きに頬杖を付いて窓の外をぼけっと眺めていた僕は、そのままの姿勢で答えた。
「以前にお会いした時は、おまえのことを結婚相手になどありえない、とおっしゃっていたのだぞ?」
「そこまでは言ってませんよ。確か……どうも思ってない、とかそういう感じだったかと」
「同じじゃないか」
「そうですかね」
「それが、どうしてこんな短期間に?」
「二ヶ月近く経ってますよ」
「たったの二ヶ月だ」
「あのときはすでに、僕のことをだいぶ好きだったんですよ」
「本当に?」
「照れ隠しで言っただけ。素直じゃないんです彼女」
「今日はずいぶん素直だったようだが」
「あれには僕も驚きました」
僕は頬杖を付いた姿勢のまま、向かいの父に顔を向け直した。
「父上は、知ってらしたのですね」
もちろん、ヴィルジニーの話ではない。フアン王子のことだ。父にもそれは誤解なく伝わったようだった。
僕の行儀の悪さを咎めるようなこともせず、父は応じた。
「昨日、今日という話だ。知っている者は、ごく少数。おまえに伝える暇なんかなかったよ」
「フアン王子、正気ですかね」
「さあな。だが政治的な観点からすれば、今回の件はナバラ王家が直接、アレオン貴族に近づくチャンスだと思ったとしても不思議じゃない」
「どういうことです?」
「ヴィルジニー嬢は、最近その評判が改善されつつあるとはいえ、それはあくまでも国内、王都の社交界に限った話だ。ナバラ辺りまでは伝わっていないだろう。以前の、悪い評判のままだということだ。
だから、フィリップ王子との婚約解消は、破棄に近いものだと認識している可能性が高い。つまり、ヴィルジニー嬢に問題があっての婚約解消だ、クローディア王女とのことなどは口実に過ぎない、とね。
王子に婚約破棄されてしまった貴族令嬢など、ろくな貰い手はつかない。あのヴィルジニー嬢ともなれば、なおさらだ。そこに、ナバラのような有力国の、しかも王族が婚姻を申し込めば、まさか断るまい、そういう腹積もりなのだ、おそらく。
フィリップ王子が匙を投げたような女を受け入れる、ナバラの懐の広さを内外にアピールできるし、有力国アレオンの最上級貴族と親戚関係になり、太いパイプが持てる。その上、大陸を二分する相手国の有力者の娘を人質にできる――ナバラにとってみれば、この上なく美味しい話、というわけだ」
僕は、もう頬杖など付いていなかった。
「公爵は、そのことを?」
「もちろん、理解してらっしゃる。だがそれがわかっていても、この話を拒否する選択などはない。今回の件、公爵家にとっても、またアレオン王家にとっても、大きな利のある話だ。公爵は対ナバラ政策において高い発言権を持てるし、王国としてもヴィルジニー嬢の存在を安全保障に利用できる。それ以上に、断った時の悪影響の方が大きいだろう。今回の申し出の拒否は、すなわち両国間の関係強化に興味がないと受け止められてしまうからな」
ヴィルジニー本人が使えなくても、彼女の立場を利用してスパイを潜り込ませる、ということもできるだろうな、と僕は思いつく。嫁入りに使用人を連れて行かない、などということはありえないし。
「では、ヴィルジニーとフアン王子の結婚を防ぐことは……」
「不可能だ――フアン王子側から申し出を撤回してくれれば、話はなかったことになるだろうが」
つまり、こちら側からできることはない、ということだ。
僕が思いついたのは、これは、ゲームのシナリオと関係があることなのだろうか、ということだ。
この世界がゲームの世界などではなく、ゲームからはあくまでも設定と世界観だけを借用しているだけで、ゲームの通りのことが起こるわけではない、というようなことは、魔女なる人物に聞いてすでにわかっていることではあったが、しかしこの世界の住人には、ゲームの設定やシナリオの影響を受けている様子がある。
僕がゲームのとおりに、インテリメガネの宰相の息子などをやっているのが、その一端だ。
だから、彼ら、彼女らの行動が、ゲームのとおりであるとは、限らない、その一方で、影響を受けているのであれば、これもまたゲームのシナリオの一部である可能性も、否定できない。
もしも、ヴィルジニーのナバラ王国行きが、シナリオの既定路線だったとすれば……
本来、すなわち進行がゲームどおりであれば、ヴィルジニーは悪役令嬢として、
王子と婚約を解消したヴィルジニーは、ナバラの王子に貰われることで学園を去る――
悪役令嬢の末路としてはずいぶんと穏当に過ぎるようにも思えるが、婚約解消自体が穏便に進んだのなら、処刑はもちろん、追放のような強引な形である必要はない。ヴィルジニーに用意されたいくつかの末路、その一つだと考えるのは、妥当なように思える。
フィリップ王子との婚約解消を穏便に済ませてしまったことで、穏当退場フラグが立ってしまった――そういうことなのかもしれない。
もしもこれが、シナリオの既定路線だとすれば。
僕には、ヴィルジニーの結婚を阻止することは、できないのだろうか。
こんなことで?
不可能と思われた悪役令嬢の攻略を、奇跡的にも成功させたのに、それがこんなどうしようもない形で、台無しになる?
それは、とてもではないが、看過できない。僕の今生の最大の目的が、ヴィルジニーなのだ。前世の記憶を取り戻したことだって、そのためだとすら思っている。彼女なしの人生など、考えられない。
それに、よく考えてみれば、僕はずっと、用意されていたであろうシナリオと戦ってきたのだ。そう考えれば、やるべきことは、これまでと同じだ。
この婚姻の申込みを反故にできるのは、申し込んだナバラ王家、フアン王子側だけだ、というのであれば、彼らが申し出を撤回したくなるように、仕向ければいいのだ。
でも、どうやって? 僕には、フアン王子やナバラ王家とのパイプはない。
そんな相手に結婚をやめようという気にさせる、など、できるだろうか?
それを考えるためには……とにかくまずは、相手を知らなければならない。
「わたしは
父がそう言い、僕は思考の沼から我へと返る。
馬車はルージュリー伯爵家のもので、父は今朝は自宅から出てきたということだろう。これから仕事なのだろうか、ご苦労なことだ、と思ったが。
ちょうどいい。
「ああ、それなら僕も行きます」
言うと、父は怪訝な顔をした。
「なに?」
「父上のところには、フアン王子の資料ぐらいあるでしょう」
なにせ、相手は重要国の王位継承権者である。宰相、すなわち国政の責任者が、情報を持っていないということはないだろう。
父親はそれを否定せず、僕の表情を伺うように目を細めた。
「どうするつもりだ?」
父の質問は短くて、僕は首を傾げる。
「見せてもらおうと思って」
「見て、どうする?」
「見てから考えます。まずは敵を知ることからはじめたい」
「だから、それでどうしようっていうんだ」
「なにができるか考えるんですよ」
宰相は不愉快そうに顔を歪めた。
「まだ諦めていないのか、ヴィルジニー嬢のことを」
僕は肩をすくめた。
「諦めるつもりは、ありません」
「ヴィルジニー嬢とフアン王子の結婚を避けることは、不可能だと言ったはずだ」
「そうは思いません」
「なに?」
「父上もおっしゃいました。フアン王子側から撤回させれば良い、と」
父は呆れた顔をした。まあ、気持ちはわかる。
僕は続けた。
「僕の立場では、ナバラのフアン王子に働きかけることなどできません。しかし、大事なことは……一見不可能に見えても、本当に不可能なことなどない、ということです」
父は、今度は呆気にとられたような顔をしたが、ほどなく、ため息を吐いて首を軽く振った。
「まったく……息子が成長しそのように言う、というのは、嬉しいが、その動機が……女のためだ、というのがな」
「なにが人間の成長の糧になるか、わからないものですね」
「他人事のように言う」
「そういうことなんで、見せていただいても?」
「……下手を打って国際問題になるようでは困る」
「もちろん、穏便に進めます。フィリップ王子のときも、そうだったでしょう?」
「あれは、幸運だっただけだ」
「運が良かったのは認めます」
父はふと何かに気付いた、という様子を見せ、「運……」と呟いた。
「運が、良いのかもしれないな、おまえは」
「……本当に運がよかったら、こんなことにはなっていないでしょう?」
「では、悪運と言うべきか」
「?」
「おまえにまだ、話していないことがある」
わざとらしく言葉を切った父は、首を傾げる僕に散々もったいぶってから、続けた。
「ナバラ王国から、使節団が訪問する予定がある。総責任者はフアン・サルガド王子」
「……はい?」
「だからさ、来るんだよ、フアン王子が」
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