139. 父親への挨拶
ヴィルジニーは早速、次の休日に父親と訪問の約束を取り付けてきて、そんなに早く僕と婚約したいのかな、なんて思ってしまう。あれから普段はツンと澄ましていて、そういう素振りはまったく見せていないだけに、内心ではそうなのかと思うと、否応なく萌える。
本来なら緊張で挑む、恋人の父親へのご挨拶、だが、僕の方は気楽だ。
ヴィルジニーの自宅、デジール公爵家には、夏休みの間に何度も訪れていたし、彼女の父親、デジール公爵本人との関係も良好だからだ。
なおヴィルジニーの母親は王都から離れた公爵の私領のひとつからずっと離れないとかで、今回会う予定はない。いずれはこちらから訪問し挨拶する必要があるとは思うのだが、ヴィルジニーいわく「王都にいないのは本人の責任だから」と、後回しで良いということだった。
ヴィルジニーに近い親族といえば、他に兄のベルナールがいるが、歳が離れているこちらもめったに家には戻らないということで、今回も挨拶する予定はない。
こちらとしては、相手は知っている人物がひとりだけ、それもこちらに好意的な立場である、という今回の状況は、願ったり叶ったりだ。
結婚の許可を貰いに行く、というより、ただ報告と確認に行くだけ、そんな気分だ。
浮かれてしまうこの気持ち、理解してもらえると思う。
なにせこのイベントを無事に(済まないはずがないのだが)済ませてさえしまえば、もはや公的にもヴィルジニーをパートナーとして扱える。むしろ、なにかパートナーが必要な場面があれば率先して同行する、二人セットが当然、ぐらいの立場になるのだ。
校門前で、待たせていた馬車に乗り込む。
ヴィルジニーは素直に僕の手を取り、先に乗り込むと、続いた僕は、当然のように彼女の横に座った。
すると彼女は横目で僕を見た。視線はもの言いたげだったが、実際には何も言わなかったので、僕は構わず、御者に声をかけた。
「出してください」
今日のヴィルジニーは、目的地が実家だというのに、完全なよそ行きスタイル。ザ・貴族令嬢とでもいうべきロングドレス。夜会用などではない、あくまでも訪問着だが、化粧も含めたその気合の入り方をみれば、彼女が今日のイベントをどのようにとらえているかはっきりわかる。
動き出した馬車の中で、僕は我慢ができず、ヴィルジニーに身を寄せる。その滑らかな頬に顔を近づけると、ヴィルジニーは逃げこそしなかったが、軽蔑気味の細めた目だけをこちらに向けた。
「まったく、節操がないこと」
「ヴィルジニーが、あまりにも綺麗だから」
「我慢なさい」
「無理だと言ったら?」
「化粧が崩れるわ」
「ご実家です。なおす暇ぐらい、あるでしょう」
「迎えに出た使用人にはわかってしまう」
「彼らは僕たちのこと、知ってるじゃないですか」
「そういう問題ではありません」
僕はその美しい顔に触れるのは諦め、彼女の髪に顔を寄せる。その髪に隠された耳を探り当て、唇を当てる。
ヴィルジニーの、太ももの上で組まれた手に、力が入るのがわかった。僕は自分の手をその手に重ね、そっと握りながら、耳へのキスを繰り返す。
ヴィルジニーは、平静を装おうというのか、澄ましたその表情を変えることはなかったが、乗せられた僕の手に片方の親指だけをかけるようにした。そして僕が耳に触れるたび、その親指で控えめにだが、僕の手を握った。
僕が髪を鼻先でかき分け、耳たぶを唇で挟もうとすると、ヴィルジニーは握っていた僕の手を放すと、その手の甲を思いっきりひっぱたいた。
「いい加減になさい」
結構いい音がして、これは叩いた方も、痛かったと思う。
そんな風にイチャイチャしながら馬車に揺られていると、目的地にはあっという間に到着した。
通されたのは、公爵の書斎だった。夏休みのはじめに通されてから、再度訪れるのははじめてだった。
公爵の書斎で待っていたのは、今回の訪問相手、この部屋の主であるデジール公爵だけではなかった。
僕は、その部屋にいたもうひとりの顔を見て、思わず目を見開く。
「父上……」
僕とヴィルジニーが入ってくるのを見て、ソファから立ち上がったのは、この国の宰相であり、かつ僕の父でもある、ファビアン・ルージュリーだった。
もちろん、僕は呼んでいない。ヴィルジニーが呼んだはずもなかった。
ということは当然、我が父をこの場に呼んだのは、この家の主、デジール公爵である、ということだ。
挨拶を終えた僕は、我慢できずに父親に向かって言う。
「どうしてここに?」
「もちろん、わたしが呼んだ」
代わりに答えたデジール公爵の方を伺うと、彼はひとつ頷いてから続けた。
「ステファン君が来るなら、二人一緒に話ができる、ちょうどいい機会だと思ってね」
なにがちょうどいいというのか。
デジール公爵は疑問だけ浮かばせておいて説明はせず、娘の方へと向き直った。
「ヴィルジニーは下がっていなさい」
言われて、彼の娘は顔をしかめた。
「お父様。今日は
「わかっている。だが、客人が先だ」
ヴィルジニーは不満げだったが、それでも、この状況では引くしかないと判断した様子で、何も言わずに会釈をした。
それから、一度僕の方に近づいてくると、耳元に顔を寄せてきた。
「終わりましたら、迎えに来てください。
それから身を翻すと、退室する。
扉が閉まるのを待って、デジール公爵は言った。
「娘が失礼した。どうぞ、掛けてくれたまえ」
公爵は、僕とヴィルジニーが揃って現れた、わざわざアポイントメントをとって、ということから、僕とヴィルジニーの要件が何なのかは、察しが付いているはずだった。
だから、その前にしたい話なのだ、これは。
それがわかった僕は、途端に緊張してしまう。
父と並んで二人がけソファに腰を下ろしたが、わざわざ向かい合わせに場所を移動した公爵が何を言い出すのか、まったく想像できなかった。
ただ、展開的に、僕にとって良い話ではない、そんな感触がしていた。
「娘のことだ」
世間話もなしに、腰を下ろした公爵はいきなり、本題に入った。
「フィリップ王子との婚約解消は、正式に発表され、公のものになったわけだが、そのヴィルジニーに、新たな婚姻の申し出があった」
――は?
僕は声には出さずに済んだが、口の形はその音のとおりになってしまった。
公爵が言ったことの意味が、信じられなかったからだ。
ヴィルジニーに、新しい婚姻の申込みがあった? つまり、あの悪役令嬢ヴィルジニーと結婚したいと思う人間、もしくは、ヴィルジニーを嫁に欲しいと思う人間が、この世にいるということか?
ヴィルジニーの評判は、たしかに一頃よりも、だいぶ改善している。ただそれは、あくまでも人として……かつての高慢わがまま娘が、幾分マシな成長を遂げた様子だ、という程度のものだ。貴族の御令嬢として、誰でも妻に、嫁に欲しい、と思うような淑女になったと思われている、とまでは、とても言えない。
王子と婚約解消したことも、マイナスに働いている。王子には政治的に重要な新しい相手がいて、そちらとくっつくための“政略的婚約解消”と理解されているとはいっても、それは表向きのことで、多くの貴族が従来と変わらず、ヴィルジニーにやはりなんらかの問題があったのだと、噂されていることも事実だった。
それに、婚約を解消して、日も浅いのだ。
だから、ヴィルジニーが公爵令嬢として貴族界婚活市場で俎上に載ることがあるにしても、それはもう少し先のことになるだろうと考えていたのだ。そのタイムラグのあいだに、僕が関係を固定してしまえばいい、そう考えていた。
この段階で、ヴィルジニーへの婚姻の申込み、だって?
いったい、どこの物好きがそんなことを――
だがいずれにせよ、アドバンテージはこちらにあるはずだった。僕の方は、正式に婚約してこそいないが、公爵には一度は許され、ヴィルジニーに対しアプローチする許可さえもらっている。順序として、まず僕に優先権があるはずだ。
ちょうどいい、父もいることだし、今日、何もかも決めてしまおう。
そう思った僕に、公爵は続けた。
「相手は、ナバラ王国のフアン王子だ」
僕は、声を出すとか、立ち上がるといったことを我慢するのに、貴族教育で培ったすべてのものを総動員する必要があった。
それでも、驚いた顔をすることだけは我慢できなかった。
ナバラ王国は、大陸南方に位置する、大国だ。
軍事的にも経済的にも、我がアレオン王国と匹敵する有力国で、大陸をやはり我が国と実質的に二分している。
アレオンにとって、もっとも重要な相手国、取引国で、過去に幾度となく、軍事的衝突があった相手でもある。ここ百年ほどは友好的な関係を築いているが、やはり最大の仮想敵国だ。
そういう国の王子が、アレオン王国の、血筋的にもっとも王族に近い公爵家の令嬢に、婚姻を申し込む――その意図するところは、想像に容易い。
現状のお互いの友好関係を、より親密、かつ強固にしよう、というのだ。
公爵家は、古くは王族に連なる血族だ。その娘と結婚する、ということは、ナバラ王家とアレオン王国が、遠くはあるが親戚になる、ということを意味する。これから二つの王家は親戚同士です、仲良くしましょうね、という意味だ。
完全な政略結婚だが、ヴィルジニーにとっては悪い話ではない。それどころか、とてもいい話だ。
なにせ現状、公的にはヴィルジニーは、フィリップ王子に婚約を解消され、“いい歳した公爵令嬢であるにも関わらず結婚相手がいない”という、不名誉な状態だ。だがこの話、成立すれば、ヴィルジニーは隣国とはいえ名実ともに王子の婚約者になる。つまりは王子妃確定。更に言えばフアン王子は王位継承権上位の人物で、将来は王妃の座だってあり得る。
王子に婚約を解消された貴族令嬢にとって、これ以上にない話なのだ。
「わたしの立場は、わかってもらえると思う」
公爵が言った。
そう、つまりこの案件は、公爵の立場、一存では、断れないのだ。
なにせ表向きには、この結婚は両国の友好の象徴となる。
それも、向こうから言い出してくれたのだ。アレオン王国として、得することはあっても損することはない。政治的に、受け入れる以外の選択はあり得ない申し出なのだ。
もしも公爵側が難色を示せば、それは直ちに国際問題になるし、公爵の国内の立場も、悪くなるだろう。
その一方でこの婚姻を受け入れれば、デジール公爵はアレオン王国の最上位貴族でありながら、隣国ナバラの王家の親戚にもなる。ナバラの王子が娘婿だとか、娘婿がナバラの国王、などということになれば、デジール公爵の立場、権力は、国内外共にとてつもなく高まる。
デジール公爵にとってもまた、受け入れる以外にあり得ない、とても良い話なのだ。
僕の存在を除いては。
短い事情説明だけでそういうことがわかってしまって、何も言えずにいる僕に、デジール公爵は悩ましげなため息を吐いてみせた。
「君には、待って欲しい、と言われていたな。今日、君が訪れた理由には察しがつく。しかし、あの話はなかったことにして欲しい――わたしも、つらい。惚れた女を射止めようとせんステファン君のことは、ひとりの男として応援していたし、尊敬してもいた」
「公爵閣下は――
「それは、そうだ。君に問題があるわけではない。それに、ヴィルジニーを引き受けてくれる、君以上の人間は、いないとも思っていた。ただ、それが現れただけ、ということだ」
「閣下。息子は突然のことに、驚いてはおりますが、理屈のわからない人間ではありません」
父が口を挟み、思わず顔を向けた僕はそこでようやく、彼に驚いた様子がまったくなかったことに気がついた。
父は知っていたのだ――いや、当然だろう。彼は宰相だ。もしかしたら先方の申し出を、公爵より先に知ったかもしれない。
「閣下のお立場も、もちろん自分の立場も、理解しております。公爵閣下自らご説明いただき、感謝しております。今日のところは、失礼させていただきます」
父が立ち上がり、僕もつられて立ち上がった。身に沁みついた礼儀作法が自動的に頭を下げさせたが、そこでふと思いつき、顔を上げた。
「あの……このこと、ヴィルジニーは?」
「まだだ」
そうだろう。そうでなければ、ヴィルジニーは僕をこの家に連れてきたりしなかったはずだ。
公爵は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あれに説明するのが一番頭が痛いよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます