138. 部屋で二人
ノックの音に扉を開けると、そこにいたのはやはりヴィルジニー。
僕は廊下に誰もいないことを確かめてから、彼女の手首をつかみ、意識して多少強引に、彼女を部屋の中へと引き入れた。
扉を軽く蹴っ飛ばし、閉まるのを待たず彼女の腰を抱き寄せる。
「ちょっ……ステファン!?」
抑えてはいたが、さすがに慌てた様子を見せ、上ずった声で抗議するヴィルジニー。
「なんですか?」
「なにって……いくらなんでも、このような」
「ダメですか?」
キスしようと顔を近づけた僕から、彼女は逃げるように顔を背けた。
「いけません」
「どうして?」
「どっ……どうしてしまったのです?」
「だって、ヴィルジニーが冷たいから」
「はっ?」
「今朝は、教室でキスしてくれたじゃないですか」
不意打ちで、頬に、だったが。
教室でそんな大胆なことをするなど、淑女たれと教育されてきた貴族令嬢には、ありえない。それをさせたヴィルジニーの気持ち、彼女が考えている僕との関係、などを思えば、どうしたって、僕の方も盛り上がってしまう。
でも、そのあとは……ヴィルジニーはそれ以降、なぜか僕の方を直視しようとしなかったのだ。
授業が同じであれば、そばにいてくれる。だけど、それ以上に接近しようとは、しなかった。朝は肩も触れようという近さにいたのに、それ以降は明らかに意識的に、身体接触しないようにしていた。
照れ隠しだろうとは思うが、かといって僕の方から行く、というわけにもいかなかった。なにせ一緒なのは僕たち二人だけではない、ヴィルジニーの取り巻きも、やはり常に近くにいたのだ。彼女のほうが一線を引こうとしている以上、そういう視線の前で、節操のない行動はできない。
そんなわけで僕の方からしてみれば、お預けを食らったような形だった。
ヴィルジニーは僕の手を振り払うようなことこそしなかったが、彼女の腰に回された僕の手に自分の手を置くと、そっぽを向いた。
「そのようなこと、していません」
「えっ……続きは帰ってからって、言ったじゃないですか」
「そのようなこと、言ってません」
僕は拗ねたように頬をふくらませる。
「ヴィルジニー、そういう言いようは、僕だってさすがに傷つきます」
何度か瞬きしたヴィルジニーは、こちらも拗ねたような顔で目だけを動かし、僕の顔色を伺うようにした。
「だって……あのときは、どうかしていたのよ」
「僕は嬉しかったです」
「そういう……単純なことではないわ」
ヴィルジニーは軽くだが僕の肩を押し、僕の方は、そうまでされて強引に迫れるわけではない。おとなしく、彼女に回した腕を解く。
一歩離れて、ヴィルジニーは身体を横向けた。
「いくらなんでも、はしたないでしょう」
「確かに、そうです。だから僕は我慢して、ここまで」
「そういう意味ではなく、
なるほど――僕はようやく、合点がいく。
確かに今生の価値観では、いかなお互いが交際に同意しているとはいえ、そのお互いが上級貴族同士であるなら、関係は公に、社会的にキチンとしている必要がある。今朝のようにイチャイチャベタベタしていれば、早晩学園中に、ひいては社交界に、僕達の関係は広まってしまうだろうが、その二人が婚約もしていないのに人目もはばからず、となれば、お互いの立場も、お互いの家の立場も、よろしくなくなる。
特に今回、相手方は国内貴族界最高峰に位置する、公爵閣下の御令嬢で、それを父親の許しもなく恋人にしている、などと噂にでもなれば、いかな宰相の息子である僕であっても、ただでは済まないだろう。良くて社会的に抹殺、悪ければ父は失脚、家族も巻き込む大惨事になりえる。
公爵の方も、身分が下の伯爵家の子息などに娘をたぶらかされたとなれば、その権威に傷が付く。
そういった問題を諸々解決するには、交際を双方の家が認めているという状態にする、だけではなく、それを社会的に、公にしなければならない。
つまりは婚約だ。
もちろんそのことは、僕の方も念頭にあって、ヴィルジニーが僕を受け入れてくれた時に、そういう方向で考えて良いのか、と問い、了承を得ている。
だからこのヴィルジニーの言い分はすなわち、関係を続けるとか、これ以上進めるのであれば、その前に、そのあたりをキチンとしておくべきではないか、ということだ。
僕としては、その点には異存はない。
なにより、キチンと婚約状態になる、ということは、大手を振ってヴィルジニーをエスコートできるということだ。
世界中に、このコは僕のものだ、と胸を張って言えるのだ。
世界中、は言い過ぎにしても……僕は、美しく着飾ったヴィルジニーを連れて夜会などに出席する場面を想像する。
いや、良いではないですか! 念願かなったり、というヤツですよ。
ただ、婚約というのは要するに、結婚の約束なので、もちろんそのためには、男である僕には、「彼女の父親との直接対決」の必要がある。娘さんを僕にください、というあれだ。
本来であればできれば避けて通りたい危険イベントだが、しかし今回の場合、ヴィルジニーの父親、デジール公爵閣下の方も、娘と僕の婚姻を望んでいる。すなわちこの直接対決に、負けはないのだ。
いやー、あの夏休みの初日、あのような段階で公爵家を訪れる羽目になった時は自らの運命を呪ったものだが、なかなかどうして。今となっては、あのとき行っておいて本当に良かった、なんて思う。
「わかりました」
僕は頷いた。
「確かに、今のままではよろしくない。できるだけ早い段階で、公爵閣下にご挨拶に伺いましょう。そこで、諸々の許可をいただきましょう」
ヴィルジニーは僕の方へと向き直ったが、僕の顔色を伺うようにしてから、再び目をそらした。
「ずいぶんと余裕の態度ですが……父がなんと言うかは、わかりませんからね」
機嫌がよくなさそうな顔で、言う。
おっと、そうか。ヴィルジニーは、公爵が娘と僕をくっつけたがっていることを、知らされていないのか。
「父はあなたを気に入っているようですが、娘の結婚相手としては、どうでしょうね。公爵家にとって益となる人間でなければ――
ヴィルジニーはなぜか面白そうに、意地悪な笑みを浮かべると、両腕を組んだ。
顎を逸し、僕の方を見下ろすようにする。
「なにせ、フィリップ王子の代わりとして、比べられるのですからね」
そうか、端から見ると、そうなってしまうのか。
僕の知っているデジール公爵は、いくら婚約者とはいっても、不出来な娘が本当に第三王子の妃になると信じていなかった、ぐらいの節があったし、その結婚がダメになれば、国内に引き受けてくれる貴族令息はいないのでは、ぐらいに考えていたから、政治的に利用価値がある僕は、公爵にとってはそういう意味でも、願ったり叶ったりの相手なのだ。
そういう、これは思っているより簡単なゲームなのだけれどな、という内心は隠し、僕は神妙な顔で頷いた。
「なんとかご理解いただけるよう、努力いたします」
「ふん、フィリップ王子と勝負になると思っているなんて、ずいぶんと自信過剰ですこと」
「そういうわけでは……しかし、ヴィルジニーを手に入れるためには、逃げるわけにはいきませんから」
ヴィルジニーは、かすかに目を見開いたが、その表情を見られまいとするかのように、ツンと顔を逸した。
「そっ、そうね……
「……心しておきます」
一礼した僕は、頭を上げるとヴィルジニーへと手を伸ばした。
彼女の手首を握ると、今度は優しく引き寄せる。
ヴィルジニーはそれに合わせて近づいてきたが、その顔はわかりやすくしかめた。
「
「もちろん」
そう言って、彼女の腰に手を回し、ぐいっと抱き寄せた。
ヴィルジニーは抵抗こそしなかったが、顔は背けた。
「そうは思えませんが」
「ここでは、誰も見ていませんよ?」
「そういうことでは」
「これは、ヴィルジニーが悪いのです」
「……はあ?」
「部屋でならキスしていいって言ったから、我慢できたんです」
「…………キスだけですよ?」
ヴィルジニーは疑い深い目を上目遣いにしたが、こちらを向いてくれた。
僕は彼女を抱く腕に力を入れつつ、上向けられた顎に自らの口を近づけた。
まあ、そう。正直この時は、来たるべき“お父様との対決”などは、楽勝だと信じていたのだ。
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