第四章
第13話
137. 悪役令嬢の諫言
あまりにいつもどおりの朝だったので、まさかあれは夢だったのではないか、などと、ちょっと不安になった。
でも、それも当然なのだ。晴れて両想い、正式交際をスタートさせることに合意したとはいえ、我々は未だ学生の身でもあるし、貴族の一員であるという立場もある。お互いに求め合っていたとしても、簡単に一線を越えてしまうわけにもいかない。
そういうわけだから、僕はやはりいつもどおり、ベッドでひとり、目を覚ましたのだ。
あのあと結局、ヴィルジニーはそれ以上、キスはもちろん、身体に触れることすら許さず、さっさと帰ってしまった。
だが、今はそれで良いのだ。相手は育ちの良い、貴族のお嬢様。距離は少しずつ詰めていくべきだ。なにより、立ち去り際、彼女は、不本意とか不機嫌とか、そういう顔をしてみせたが、廊下を歩み去る足取りは、機嫌が良さそうに見えたのだ。
そう、慌てる必要はないのだ――僕たちの関係は、確実にスタートを切った。あとは然るべき手順を踏んでいくだけ。まあ、それが多少、面倒なのだけど。僕たちは貴族ゆえ、おおっぴらに交際するなら、踏むべき段階がいくつもある。
婚約状態にない御令嬢と、人前で過剰にイチャイチャもできないのだ。
婚約――本人の同意は一応、取れているし、それが必要なのも理解しているが、しかし、面倒だな、と思う。
なにせ、相手は公爵の御令嬢である。
恋人の父親には内々に許可を取っている、デジール公爵は僕たち二人のことを反対しないだろう、というのがあっても、実際に挨拶に行き、許可を取るという場面を想像すると――猛烈に面倒くさい。
もちろん、それで終わりではない。重ねて言うが、相手は公爵家の御令嬢――国内で最上位に位置する貴族の令嬢なのだ。身分を慮れば当然、正式に婚約を結ぶ必要があるし、それには格式張った儀式と、関係各方面へ報告のための複数の会合――お披露目のための披露宴とかお茶会とか夜会など――があるはずだった。
結婚の前の段階でそれ、である。
うへぇ……想像するだけでひたすら面倒くさい。
なんとか、ナシでいけないものだろうか。
いや、そういうわけにはいかないだろう。さすがに。
でも……例えば解消された前婚約の相手、フィリップ王子の新しい婚約の方が先でなければ、立場的にマズイでしょう、などということを口実にして、先延ばしにすることは可能かもしれない。
王子との婚約を解消しての婚約であるから、より質素にしましょう、などという方に持っていくこともできるかも――
それにしても、王子とヴィルジニーの婚約の儀は盛大だっただろうな、と思う。
まだ幼かったから僕はろくに覚えていないが、なにせ王族の婚約である。関連する行事で、相当の人と金が動いたはずだ。そこまでやっておいての解消である。自分でふっかけといてなんだが、よくもやったものだ。
もう、いい。面倒なことは、今は。
あとから考えよう。
今はとにかく、ついにヴィルジニーを手に入れた、そのことを噛み締めよう。
「今朝はご機嫌良さそうですね」
朝、一人、食堂で。
ココアを持ってきてくれたセシルが言い、僕は作り笑顔を返す。
「わかりますか?」
「問題、解決したんですか?」
「ええ……まあ」
それをまだ知らない他の生徒たちには、相変わらず遠巻きにされ、ヒソヒソされたり、探るような視線を向けられたりするが、まあ、それももう時間の問題だろう。
内容は酷いが、ヴィルジニーと僕が一緒に入れば、それだけで霧散してしまうような、根拠のない噂なのだ。
他の生徒たちの視線や態度には気づいているだろうに、おくびにもみせず、セシルはニッコリと微笑んだ。
「よかったです、お元気になられて」
そんな感じでいつもどおりの朝を過ごし、いつもどおりに登校し、一限目の講義室で、最近はだいたいいつも指定席にしている後方の席に陣取り、時間を待っていると、やがて、ヴィルジニーがやはりいつものように、取り巻きを引き連れ現れた。
今日も美しい、完璧に整えられたマーメイドウェーブ。
彼女は迷うことなく僕を見つけ、まっすぐこちらに向かってきた。その表情は……不機嫌そうだ。
僕とヴィルジニーが和解(?)したことを知らないのだろう、えっ? 行くの? と顔に書いてある取り巻きたちを置き去りにして、ヴィルジニーはそのまま、僕の左隣の席に腰を下ろした。そこまで来てようやく、いつもと――つまり、ここ二、三日の余所余所しくしていた時期以前と――違う行動をした。
ずいっと、こちらに身を近づけてきたのだ。
今までは公の場では、隣に来ても、それなりに距離を保っていた。あくまでも“友人”としてのパーソナルスペースを犯すような距離までには、来なかったのだ。
だが今の距離は、そのラインを完全に越えていた。肩と肩が触れ合うような、そんな距離。
僕は、そんなヴィルジニーの表情を確かめようとした。
彼女は顔を半分、こちらに向けていて、微かに紅潮させたその頬を、不満を表しているのだろう、わかりやすく膨らませていた。
すごくカワイイ……が、なにを訴えようとしているのか、わからない。
「おはようございます……どう、されました?」
問うと、ヴィルジニーは言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、それから答えた。
「言ったのは、ステファン、
「…………なにをです?」
マジでわからず聞くと、ヴィルジニーはもう一度頬を膨らませ、更に
ヴィルジニーは顔を衝突させたりしなかったが、ほとんど触れそうな距離まで近づけると、僕にだけ聞こえるように囁いた。
「精一杯楽しむよう言ったのは、貴方です」
その長いまつげを間近に見ながら、昨日の話だ、と思いつく。
僕が返事をする前に、ヴィルジニーは顔を引いて元の位置に戻ると、両腕を胸の前で組んだ。
「
言っていることがよくわからないが、ヴィルジニーの有無を言わさぬ口調、迫力に、僕は戸惑いながらも頷いてしまう。
「そっ……そうですね」
「そうであれば、このようなことでは困ります」
「……はい?」
やっぱり意味がわからず、首を傾げた僕に、ヴィルジニーは嘆かわしげに首を振った。
「まったく……そうであれば――」
言いかけたヴィルジニーは、周囲を気にした素振りを見せると、またもや、先ほどよりは控えめに顔を近づけ、小声で言った。
「朝は、
僕の目は、たぶん丸くなっていたと思う。
「迎えに? 僕が? ヴィルジニーを? ……女子寮に?」
またもや元の位置に戻ったヴィルジニーは、やはり腕を組んだ。
「もちろん、貴方が朝から
あまりにも予想外の言い分に、僕は、ヴィルジニーの言うことを理解するのに、数秒を要した。
彼女の口にした言葉のうち、重要なキーワードは……「精一杯楽しむ」「一分一秒を無駄にすべきではない」「朝は迎えに来るべき」あたりであろうか。
「つまり……ヴィルジニーは――」
僕はその先を言う前に、周囲を気にした。ヴィルジニーの取り巻きがすぐそばにいるはずだということを思い出したからだ。
その時、彼女達は、僕とヴィルジニーの様子を観察するようにしながら、各々、周囲の席につこうとしているところだった。一番近い女子には、会話は聞こえているようだった。
彼女に聞こえないようにするには、僕も顔を寄せて、小声になるしかない。ヴィルジニーに向かってそうすると、彼女は嫌がる様子も見せず、耳の方を向けるようにさえしてくれた。なので、ヴィルジニーは耳の形すら完璧だよな、などと考えながら、遠慮なく続ける。
「ヴィルジニーは、僕と……登校デートしたかった、と?」
僕の言葉を聞いたヴィルジニーは、一瞬で顔を真っ赤にすると、慌てたように身を引いた。
「そっ、そのようなこと――!」
言っておりません! と続くのかと思ったが、ヴィルジニーは続く言葉を飲み込み、何度か瞬きしてから、また顔を寄せてきて小声で言った。
「あっ、貴方は……どうしていつも、そのような物言いを」
「……違うんですか?」
「えっ、その……あっ、有り体に申し上げれば、そういうことになるのかもしれませんが……
僕はここで「ヴィルジニーは、少しでも長く僕と一緒にいたいんですね」みたいな意地悪を言おうかとも思ったのだが、あまりにいじめるとマジで機嫌を損ねそうなので我慢したところで、それでもヴィルジニーのいじらしい様に、思わず頬をほころばせてしまったのだ。
だって、男子寮と女子寮は、間に植え込みなどがあって直接見通すことこそできないが、立地的にはほとんど隣り合っているのだ。玄関から玄関まで、ゆっくり歩いてせいぜい一分、という距離。そして寮は当然、学園の敷地内にあるので、登校といっても、その距離はやはりたかが知れている。一番遠い校舎まで歩いたとしても、最大で十分程度の登校時間なのだ。
その時間さえも無駄にするな、と、ヴィルジニーは言うのだ。僕が思わずほくそ笑んでしまったとしても、仕方ないだろう。
「いえ。そうですね。おっしゃるとおりです。気をつけます」
僕はそう言ったのに、ヴィルジニーはまだ不審げにこちらの表情を伺っていたので、僕はわざとらしくも表情を引き締める素振りをしてみせた。
ようやく、納得した顔を見せたヴィルジニーは、椅子にふんぞり返るようにした。
「わかればよろしいのです。貴方は、ボヤボヤできる立場ではない、ということ、しっかり肝に銘じておきなさい」
「……かしこまりました」
僕はそんなヴィルジニーを横目で伺いながら、これは彼女流のデレなのか、それとももっと別の呼び方をすべき何かだろうか、とか考えた。
そんな僕とヴィルジニーの前の席に、すでに座っていたベルナデットが、もう我慢できない、というふうに、勢いよくこちらを振り返った。
「あっ、あの! ……ヴィルジニー様」
無言のまま視線で促したヴィルジニーに、ベルナデットは続けた。
「そっ、その……近くぅ、ありませんか?」
ベルナデットが、僕とヴィルジニーの、肩が触れ合いそうな距離感のことを言っているのは明らかだったが、ヴィルジニーは首を傾げた。友人の視線を追って、ベルナデットが自身と僕を見比べていることにようやく気づいた、という様子を見せてから、答えた。
「問題ありません」
澄まして言ったヴィルジニーに、訝しげな目を向けるベルナデット。
「そ……そぅですか?」
「お気になさらず」
ベルナデットは「気にぃ、しますけど」と呟いたが、そのまま前を向いてしまったので、聞こえたはずのヴィルジニーも
ベルナデットの気持ちはわかるし、彼女の言葉はおそらく、周囲にいてこちらに気づいている人間たち全員が思っていることだ。男女が顔を寄せ合ってヒソヒソ話などをしていれば、端からは完全にイチャついているように見えるだろう。というか、会話の内容も完全にイチャイチャしてるし。
その
「よろしいのですか?」
リリアーヌの言葉はただそれだけだったが、彼女が僕に一瞬だけ向けた視線で、ヴィルジニーには通じたようだった。公爵令嬢は頷いた。
「ええ」
それで、こちらを伺っていた他の取り巻きたちのあいだに漂っていた緊張感のようなものが、ようやく和らいだようだった。
リリアーヌは、最後に僕をひと睨みすると、前方へと向き直った。
向けられる別の視線に気づき、そちらに目をやると、通路を挟んだ席についていたセリーズと目が合った。
彼女の意味有りげな目配せを見て、約束通りヴィルジニーに話をしてくれたらしいセリーズには、後でお礼をしておかないとな、と思いついた。
「何を見ているのです」
ヴィルジニーの声に、そちらを向くと、彼女は咎めるような視線を、僕へと向けていた。
「そのような暇があれば、少しでも――」
他の女を見る暇があったら自分を見ろ、とでも言いたいのか。しかしヴィルジニーは、言葉の途中でハッとした様子を見せると、そっぽを向いた。
自分が言おうとしたことの大胆さに気づいて、急に恥ずかしくなったとか、だろうか。
僕はその横顔に、顔を近づけて、囁く。
「ヴィルジニー」
「……なにか?」
目だけを向けるヴィルジニー。
その美しいブルーの瞳を見つめ、僕は言った。
「キスしてもいい?」
「はっ? ……いっ、いいわけないではないですか」
彼女は押し殺した声だったが、強い調子で続けた。
「このようなところで――一体、何を考えていらっしゃるの!?」
「ごめん、ヴィルジニーがあんまりカワイイから、つい」
「あっ、貴方は、またすぐにそのようなことを……」
ヴィルジニーは周囲を伺うようにした。ここでキスできそうか、確かめたつもりだろうか。その様子に、思わず笑みを浮かべてしまう僕。
つられて僕も同じようにしたが、さすがにこの場では、無理そうだった。
ただでさえ過剰に戯れているのだ。万一目撃されれば、大惨事だ。
同じように思ったのだろう、ヴィルジニーは僕へと向き直ると、悪戯を咎めるような顔で言った。
「もう少し、我慢なさい」
「少し? ――いつまで?」
その時、講義室前方の扉が開き、教師が入ってきた。一瞬だが、僕も含めて、そちらに教室中の視線が向く。
と、僕の左の頬に、温かく柔らかな感触が押し付けられた。
驚いてそちらを見ると、澄まし顔ながら紅潮した顔色だけは隠せないヴィルジニーが、やはりそっぽを向いて言った。
「これ以上は、帰ってからにしてください」
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