136.(終) 僕の可愛い悪役令嬢

 ヴィルジニーは自らの胸の、心臓の辺りに手を当てた。


「だから貴方あなたと距離をとったのに……」


 つぶやくように、言う。


「えっ? ちょっ、ちょっと待ってください。つまり……僕といっしょにいると、ドキドキする、と?」


 ヴィルジニーは頬を赤くしたまま、僕を睨んだ。


「そのようなこと、言っておりません」

「いやいや、言ったでしょ」

「知りません」

「だから距離をとったって……じゃあ、ここんとこ僕のことを無視していたのは……」


 腕組みをしたヴィルジニーはそっぽを向いた。何も言わなかったが、その態度では認めたようなものだ。


「それで、距離をとって、どうだったんです? 収まったんですか? そのドキドキ……症状は」


 僕の問いに、ヴィルジニーはこちらを睨みつけた。


「何を、白々しい……」

「はあ?」

「貴方の仕業。貴方が悪いんでしょう」

「まだ僕が魔法をかけたとでも仰るつもりですか」

「そうでなければありえないわ。遠くから見るだけとか、考えるだけでそうなってしまう、なんて……」


 ヴィルジニーは言ってしまってから、失言した、というふうに、ハッとした。

 どうやら、見た目以上に動揺しているらしい。


 彼女の言葉を整理すると。

 僕と一緒にいると、やたらドキドキすることに気づいた。

 だから距離を取ってみたが、それでも、遠くから見るとか、僕のことを考えるだけでドキドキしてしまった、と。


「じゃあ、確かめたいこと、っていうのは」


 僕の問いに、ヴィルジニーはまたそっぽを向いたが、彼女がこの部屋に来て、最初にしたことを思い出せば、概ね、想像は付く。


 僕に接近……接触して、どうなるのか、確かめたかったのだ。


 そして実際にそうした、その時の態度――慌て、羞恥に顔をあかくした様子を見れば、答えは明らかだ。


 僕は――

 自分が思っていたより、緊張していたようだった。それが解けて、一気に脱力した。


 なんだ、と思った。

 噂も、キス未遂も、関係なかった。

 思い悩んで……馬鹿みたいだ。


 思わず、深いため息を吐いてしまう。


 安堵のため息だ。

 それから、急におかしくなってきて、こらえようとして手で自分の顔を押さえた。しかし、笑いは抑えきれず、漏れてしまった。


「何を……何がおかしいのです」

「クックックッ……いえ、失礼」


 僕はなんとか笑いを押し殺して、それから言った。


「それは、ヴィルジニー、病気です。恋の病、というやつです」


 僕の指摘にも、ヴィルジニーは顔色を変えなかった――羞恥に朱く染めた顔で、一生懸命僕を睨もうとしていて、とても可愛かった。


「皆も、同じことを言っていました」

「皆?」

「ベルナデットや、セリーズです」


 とすると、ヴィルジニーは症状を、友人たちに相談したのだろうか。

 いや――僕はセリーズの顔を思い出す。彼女が僕に約束したように、探りを入れて、その流れで話すことになったとか、そういう想像もできる。ベルナデットまでもそのような指摘をしたというのは、意外だが。


 ヴィルジニーは再び腕組みをすると、僕に身体の側面を向けるようにした。


「しかし、そのようなこと、ありえません。わたくしが貴方に恋をする、などと」


 おかしくなって、笑みを隠すことができず、僕はそのまま、聞いた。


「ありえない? なぜ?」


「だって貴方は……いかな宰相の長男といえど、世襲というわけでもないし、伯爵家の跡取りといっても大した領地もない――その程度の家柄の者に、アレオンで最も高貴な貴族家の長女であるこのヴィルジニー・デジールが、恋する、などと……あるわけがありません」


 僕は嘆かわしげに首を横に振ってみせる。


「家柄は、恋をする理由とは、関係ありませんよ」

「では、なにがあるというのです?!」


 ヴィルジニーは、否定する僕を睨みつける。


「貴方に、それを覆すような価値があるとでも? 自惚れもいい加減になさい。多少、頭が切れることは認めますが、腕っ節も剣の腕も、大したことはない。ことさらに度胸があるというわけでもない……立場に目をつぶっても、貴方は、頼りがいのある理想の男性像とは、かけ離れているのです!」


 うーん、グサグサ刺さる。

 かなりのダメージを受けて、苦笑せざるを得なかった僕だが、反論しないわけにはいかない。


「であれば、恋をするのに、理由は必要ない、ということでしょう」


 ヴィルジニーは、片眉をひそめた。


「理由は……いらない?」


 頷く僕。


「理屈ではないんですよ、恋は」


 僕は多少、芝居めかして、自らの胸に手を当てた。


「考えるものではない……感じるものなんですよ。貴方の心は、気持ちは、そうだと言っている……胸のドキドキは、その証拠です」


 ヴィルジニーは、つられるように自分の胸に手を伸ばしかけたが、触れる寸前、その手をぎゅっと握った。


「気持ちだ、などと……そのように不確かなもの――」


 ヴィルジニーはまたもや、僕をキッと睨みつけた。


「そのようなものに従って、本当に良いとおっしゃるの? どうしてそうなったのか、わからないのに、このような気持ち……きっと、そう長くは続きませんわ。貴方の気持ちだって、今は良くても、いずれ冷めてしまうかも。そうしたら――」


 僕はまたもや、首を振った。


「それは、それで良いんです」

「!? 良いわけが――」

「いえ、良いんです。恋は、入り口で」

「……入り口?」


 怪訝に反芻するヴィルジニーに、僕は頷いた。


「そりゃあ、燃え上がるような恋は、時間が経てば、ある程度はどうしたって、きっと冷めます。だけどその間に、愛を育くめばいいんです」


 愛、などと口にするのは、恥ずかしかったけど。

 でも、それ以外に、的を得た言葉は、思い浮かばなかったのだ。


「恋は、冷めても、愛は――相手を愛おしい、大事にしたいって想いは、変わらず持ち続けられる。だから冷めてしまう前に、恋を精一杯楽しんで、その間にそういう気持ちを作る、それが、恋愛って、言うんだと思います」


 しばし、呆気にとられたような顔をしていたヴィルジニー、だったが。


 やがて、ぷっと、小さく吹き出した。


「よくもまあ、そのような恥ずかしいこと、真顔で言えたものですわね」


 そりゃあもう、相当恥ずかしい、けど。

 恥ずかしがって、言うべきことを言えず、後悔したくなかった。


 それでも、照れ隠しに肩をすくめてみせる。


「でも僕の方は、ヴィルジニーへの気持ちは、簡単に冷めないって自信がありますけどね」


 なにせ僕は、この恋を前世から引きずっている――いや、正確には、僕はこの恋のせいで、本来は思い出さないはずの、前の人生の記憶を思い出したのだ。


わたくしの方は、わかりませんよ」


 ヴィルジニーは、僕に見られないよう、顔を背けた。


「あれほどお慕いしていたはずの、フィリップ王子への気持ちが、今では嘘みたいに、無くなってしまっているんですもの」


「それは、僕としては、良かったです。王子を吹っ切れていないって言われるよりは、遥かに」


 こちらを向いたヴィルジニーは、少し切なげながらも、意地悪に微笑んだ。


「本当に、貴方は……前向きな方ね」

「ヴィルジニーが僕を見て、王子のことを忘れてくれたとなれば、前向きにもなります」


 更に言うと、ヴィルジニーはさすがに片眉をひそめた。


「前向きに過ぎるわ」


 そうして、笑う。


 ひとしきり笑ったヴィルジニーは、笑いが収まると、右手を腰に当て、首を傾げ、僕をジッと見た。


 そしておもむろに、僕の前をさっきとは逆方向に横切って、ベッドの、先ほどまで座っていたところに、先ほどよりも勢いよく腰を下ろした。


 それから僕を見上げると、無表情で、また隣をポンポン、と叩く。


 その無表情が、照れ隠しなのだと、今ならはっきりとわかる。


 僕は先ほどよりもずっと楽な気分で、彼女の隣に腰を下ろした。

 するとヴィルジニーは、すぐに僕の二の腕に、自分の肩を押し付けてくる。

 思わずドキッとする僕。


 ヴィルジニーの“攻撃”は、それでは終わらなかった。

 僕の腕を更に押すようにして、体を彼女に向かって開かせると、自分の肩を割り込ませるようにして、僕の胸のあたりに身を寄せてくるのだ。

 僕はその、ヴィルジニーが遠慮なく預けてくる彼女の体重を支えるため、こちらからも身を寄せるようにしなければならなくなる。バランスを取るため、彼女の反対の腕を抱くようにした。


 僕の懐に潜り込むような形になったヴィルジニーは、僕の胸に、自分の頭を当てるようにした。


「あの……ヴィルジニー」

「なんですか?」


 思いっきり身を寄せ合い、完全にイチャついている、という姿勢ながら、ヴィルジニーの返事は、まるでどうということもないというふうに、いつもどおりに響いた。


「……あっ、そうか」

「なに?」


 ヴィルジニーのこの行動の理由は、おそらく、僕が気持ちに従えとか、冷める前に精一杯楽しもうとか言ったからだろう、と思えた。もっとも、そうだろう? と訊ねても、天邪鬼の彼女は、認めてはくれないだろうが。

 でも、少しばかり意地悪心が出て、僕は聞いてしまう。


「ヴィルジニーは、僕とこうしたかったんだ?」

「――知りません。わたくしは、別に」

「じゃあ、なんでこんな、僕に甘えるような真似」

「そのようなこと、しておりません」

「えっ? いやいや、でも実際……」


 思わず苦笑してしまう僕。

 ヴィルジニーの返事までには、少し間があった。


「これは、事故です」

「事故?」

「バランスを崩したわたくしを、倒れないよう貴方が支えた……それだけじゃありませんか」


 ヴィルジニーの顔は見えなかったし、声は相変わらずいつもどおり、どうということはない、というふうに響いたけど。


 ふと視線を巡らせた僕は、窓に反射したヴィルジニーの顔が、それでわかるぐらい、羞恥に朱く染まっていることに気がついた。


「えっと、じゃあ……そろそろ、起き上がれますか?」

「待って」


 ヴィルジニーはその顔を、僕の胸に押し付けるようにしながら、言った。


「もう少し、このままでいて」


 離れたくない――いや、離れて、今の顔を見られたくなかったのかな。


 とてつもなく愛おしくなって、手を回した肩を、ぎゅっと抱き寄せる。

 ヴィルジニーはわずかにビクッと身体を震わせたが、抵抗はせず、何も言わなかった。


 ヴィルジニーの気持ちを確信した僕は、良い気分になって、ここぞ、と囁く。


「今日、僕がマリアンヌ様と一緒にいた時は、どんな気分でした?」

「えっ? なにを……」


 素直じゃないヴィルジニーはとても可愛く、嗜虐心をそそる。

 僕はその耳元に頬を寄せる。


「教えてくださいよ、ヴィルジニーの気持ち」

「そっ、そんなもの――いえ、あのときは……なんだかとても、イライラしました」


 一度は拒もうとしたものの、思い直したのか、ちょっと怒ったように言うヴィルジニー。


「ほう?」

「なっ、なんです?」


 マリアンヌの見立ては正しかったのだ、と感心したのだが、そんなこと説明しても機嫌を損ねるだけなので、言わない。


「じゃあ、今は?」


 ヴィルジニーは、考えるように少し間を開けた。

 そして、深く長いため息のあと、囁くような小さな声で言った。


「なんだか――キュンキュンします」

「キュン――!? えっ? それって……が?」


 一瞬、固まったヴィルジニー。

 次の瞬間には僕の胸を押して、離れるようにした。


「まったく、貴方という方は!」

「待って、ヴィルジニー」


 僕は逃げようとするヴィルジニーの肩を握ったまま離さず、彼女はこちらを向いた。

 ようやく、彼女の上気した顔を見られた。


 その顔が、怪訝なものになる。


「なんです?」

「あっ、その、まだ、キスしてません」

「はあ?」


 ヴィルジニーは、その顔に呆れと驚きを半々に浮かべた。


「だっ、誰がそのようなことを……」

「いや、絶対、今しておいた方がいいです」

「はあ? ……意味がわかりません」


 それでもヴィルジニーは、逃れようとして入れていた力を抜いた。

 僕が抱き寄せると、顔はこちらに向けたまま、素直に寄ってくる。


「本当に……意味がわかりません」


 顔を赤くしたまま、そんなふうに言ったけど、僕が顔を近づけたら、大人しく目を閉じた。いつかのように、顎を引いたりもしなかった。

 こちらに向けられた艶っぽい唇に、自分の唇を重ねる。


 その柔らかさに、僕は一瞬、理性を失いそうになる。しかし、いくらベッドの上でイチャついている状況とはいえ、相手は貞操観念の高い貴族令嬢。ここではさすがに許してくれまい、となんとか踏みとどまる。


 唇の感触を確かめるだけに留め、離れると、目を開いたヴィルジニーは、いよいよ真っ赤になった顔で目を細め、僕を上目遣いに睨んだ。


「癪です……」

「――はっ?」

「これでは結局……貴方の思い通りではないですか」

「そう……なんですか?」

わたくしがっ! 誰にでも簡単に唇を許す女だとでもお思いか!?」

「いっ、いえ、とんでもない……えーっと、それってつまり、僕との交際を――」


 ヴィルジニーは、最後まで聞かずに顔を背けた。

 まったく、素直じゃないんだから。


 しばらくそっぽを向いていたヴィルジニーだったが、やがて、横目でチラチラとこちらを伺うようにして、それから言った。


「――責任、取ってくださいましね」

「もちろん、取ります取ります」

「なんですかその……軽い感じは」

「いえいえ、至って真面目です」

「本当に大丈夫かしら……貴方、公爵令嬢と交際するということの意味が、本当にわかってらして?」

「もちろんです。公爵閣下には、わたくしからきちんとご説明いたします」

「なるべく早くなさいね。婚約もまだのうちに、変な噂でも立てられたら困ります」

「そう、それ。つまり……お父上には、婚約、を前提にしているという感じでお話しして、よろしいんですよね?」

「っ……!?」

「だって……公爵の御令嬢がお相手ですから。婚約を前提とせぬ交際、など、それこそ道理に反するかと」


 僕の指摘に、一瞬、狼狽えたヴィルジニーだったが。


「そっ、それは……そうです。ですから、そうするのは仕方ありません」


 平静を装い、不本意そうな表情を作るヴィルジニー。

 思わずほくそ笑んでしまった僕を、彼女は悔しそうに睨んだ。


「でっ、ですが……これでわたくしを手に入れたなどと、調子に乗って安心などなさいませぬように! なにせ……婚約は、解消できるんですからね!」


 “経験者”は、立ち上がり、胸を張ると、座ったままの僕を見下ろし、勝ち誇ったように鼻で笑った。


「せいぜい、わたくしに愛想を尽かされることのなきよう、努力することね」


 真っ赤な顔で、虚勢を張るヴィルジニー。


 そんな彼女を、僕は、このコは本当に可愛い悪役令嬢だな、などと思うのだ。

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