135. 悪役令嬢の症状
僕とマリアンヌがベンチで“仲良く”話をしているところに、おっとり刀で駆けつけたヴィルジニー。
その行動を説明できる理由は、嫉妬――一度は婚約の噂まであった僕とマリアンヌの、一見仲睦まじい様子に、思わず嫉妬した……そうとしか考えられなかった。
マリアンヌの狙いは、それだったのだ。
しかし、僕の方は。
そう考えながらも、その説をどうしても、信じられずにいた。
ヴィルジニーに、無視されていたからだ。
本当に嫉妬するほど、僕のことを好いてくれているなら、では、あの態度は、いったいなんだったのだ、となる。
だから、逆に、ああいう態度、露骨な無視をしていた以上、僕に嫉妬するはずなどない、と思ってしまうのだ。
約束を取り付け背中を向けたヴィルジニーを見送ってから、仕事は終わったとばかりにベンチから立ち上がったマリアンヌは、僕を振り返ると優しく微笑み、こう言った。
「早く仲直りしてくださいね」
そして、僕が返事を探している間に、さっさと立ち去ってしまったのだ。
侯爵令嬢が何を見抜いているのか、わからない。
いや、マリアンヌの勘違いかもしれないのだ。彼女は、ヴィルジニーが僕のことを好いている、と思っている。ヴィルジニー本人に聞いたということは、二人の関係を考えれば、ないだろう。おそらくは公爵令嬢の振る舞いから、そう確信した。
それを前提として振る舞った。そして思ったとおりの結果になった。それは事実だが、その二つに本当に因果関係があったかは、わからないのだ。
ヴィルジニーが僕とマリアンヌのところへやってきた理由は、もっと別にあるのかもしれない。
ヴィルジニーの、ここのところの僕への態度を思えば、どうしても、そう考えるしかない。
しかし、であれば……僕は、ヴィルジニーが僕へ向かって言ったことを思い出す。
彼女は夕食後に、僕の部屋に来る、と言った。
話があるだけなら、もっと早い時間でも良いし、そもそも僕の部屋である必要もない。なんなら、今ここで話をしてもよかったはずなのだ。
僕の気持ちを知っているのだ。その上で、僕のことをもはやどうとも思っていないのなら、いくらなんでもそのような遅い時間に、単独で部屋を訪れる、などということは、しないと思えた。
では、彼女の目的は、いったいなんだろうか。
確かめたいことがある、と彼女は言った。
なんだろう? まったく見当が付かない。
もはや、考えても仕方がないのだが、気になって、その後は何も手に付かなかった。
食欲もなく、しかし手持ち無沙汰だったので、夕食を早い時間に済ませた。時間がたっぷり余っていることに気づき、風呂に入りに行く。ヴィルジニーが来るから、と考えて、念入りに身体を洗ったが、あんまりのんびりしていて、万一ヴィルジニーが来た時に不在では良くない、と思い付き、髪を乾かすのもそこそこに部屋に戻った。先にヴィルジニーが来ていた、というようなこともなく、時計を見た僕は、まあそうだよな、などと思いながら、開け放たれた窓辺で自然風を浴びながらタオルで髪を乾かした。
夜空を眺めながら、女に振り回されて情けないな、と思い付き、笑う。
でも、悪い気分ではない。追いかけている相手は、最上級の高嶺の花だ。そういう相手と、なかなかいいところまで行ったのだ。しかも彼女は、今から僕の部屋を訪ねてくる――まあ、その彼女がどういうつもりで来るのかは、わからないが。
それでも、最後にチャンスをもらえた、という気分があった。あのままフェードアウトされて、何がなんだかわからないままお別れする、というのとは、全然違う。
やることは、やった。その結果が失恋であっても、甘んじて受け入れよう。
「キスぐらいしとけばよかったなぁ」
使ったタオルを、洗濯物を入れてある籠に放り込み、僕は呟いた。
扉がノックされたのは、その後、程なくして。
ヴィルジニーが僕の部屋をノックするときはもう少し乱暴だから、その控えめな音に、別の誰かだろうか、とも思ったが、扉を開けてみると、そこに立っていたのはヴィルジニーだった。僕を見る顔は、不機嫌そうだ。
「……どうぞ」
その表情に多少、傷つきながらも、僕はヴィルジニーを招き入れた。
ヴィルジニーは、部屋に入って数歩進んだところで、立ち止まった。
僕が扉を閉めるあいだに、室内を見回すようにした。その視線はまず、彼女がいつも座っている椅子、それから窓際の、彼女が来た時に僕が座る椅子、と動き、最後にベッドに向いた。
それから、数瞬の間をおいてから、彼女はその足を、ベッドへと向けた。
なんと彼女は、前回と同じように、そのベッドの長辺へと腰掛けた。
座り心地を確かめるように居住まいを正し、それから、こちらへと顔を向けた。
ヴィルジニーは無表情だった……ただ、その頬が、微かにピンクに染まっているように、見えた。
意図がわからず、僕が微かに首を傾げると、ヴィルジニーは表情を変えることなく、その手で、傍ら、つまり自らが座るすぐ隣、という位置で、ベッドの表面をポンポン、と叩いた。
ベッドに腰掛け、まるで僕を誘うように振る舞うヴィルジニー。夢と同じ――いや、夢のはにかんだ笑顔とは違い、今の彼女は真顔だった。
これは……なんなのだろうか? これも夢か?
今朝見た夢の、続き? 僕はまた、ヴィルジニーを夢に見ているのか?
思わず、固まってしまった僕に、ヴィルジニーは頬を染めたまま、不機嫌そうに目を細めた。
「なにをしているのです……早くこちらに来なさい」
そう言って、またベッドを、ポンポンと叩くのだ。
なんなのだろうか、これは。
僕は盛大に混乱していたが、しかし、ヴィルジニーの睨むような視線を受けると、従うほかない、という気になる。夢ならどうせ、自分が恥ずかしい思いをするだけだ、と思いつき、多少、ぎくしゃくとした足取りながら、なんとかヴィルジニーの横まで行った。
前回のように思い切ることは、できなかった。
密着してしまわないよう、慎重に、ゆっくり腰を下ろす。
着地には成功し、僕は背筋を伸ばした姿勢で、ヴィルジニーの隣、ギリギリ触れないという距離感で腰掛けた。
緊張を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸。しかし、息を吐き終わる、前に。
ヴィルジニーがその肩を、僕の腕に押し付けるようにしてきた。
驚いてそちらを見ると、ヴィルジニーは、僕の腕に寄りかかっていた。僕が状況を完全に把握する前に、ヴィルジニーはその体重を僕に預けるように、しなだれかかってきた。
その柔らかな頬が、僕の肩のあたりに触れる。
僕は、背筋を伸ばした姿勢のまま、硬直していた。
なんだ、これは。
僕の位置からでは、ヴィルジニーの表情は見えない。そちらを向けば、彼女の髪から、芳しい香り。
「お風呂、入られました?」
ヴィルジニーの問いに、思わずビクッとしてしまう僕。
「石鹸の香りがします……」
「あっ、はい」
僕が返事をするが、早いか、ヴィルジニーは突然、身を起こすと、勢い良くベッドから立ち上がった。
それから、僕の前を回り込むようにして、開け放たれたままの窓のそばまで行った。
そして、窓から外の方を向いて、ふうっと、ため息を吐く。
「あの……ヴィルジニー?」
呆気にとられた僕が呼びかけると、窓枠に手を掛けたヴィルジニーは、外に向かったまま、うつむき加減になって呟いた。
「……られません……」
ベッドから立ち上がった僕に、ヴィルジニーは振り返った。
「認めません、
ヴィルジニーの表情は怒りに満ちていたが、しかしその顔は、朱く染まっていた。
怒りの赤ではない。羞恥の朱だった。
「いったい、どうなされた?」
僕が問うと、ヴィルジニーはふいっとそっぽを、再び窓の方へと身体を向けた。
「どうもいたしません」
「いえ、そんな……そんなはず、ないでしょ」
「どうもない、はずなのです!」
彼女は顔だけこちらに向け、キッと僕を睨んだ。
「こんな……これはきっと……そうか、
「はっ?」
ヴィルジニーは僕へと向き直ると、胸の前で腕を組んだ。
「貴方が
「僕が何をしたって――」
「そうに違いないわ。何か……そう、魔法でもかけたのよ」
魔法――その言葉に僕はどうしても、“魔女”のことを思い浮かべてしまうが。
「僕が? 魔法? そんなこと」
「そうとしか考えられない」
ヴィルジニーは首を横に振った。
「そうでなければ、こんなこと……」
「ヴィルジニー。何を仰っているのか、わからない。魔法など、あるはずがないじゃないですか。ちゃんと説明してください」
ヴィルジニーはもう一度、そっぽを向いたが、辛抱強く待つと、こちらを伺うようにしてから、またもや、ため息をひとつ吐いて、ようやく口を開いた。
「おかしいのです。
「どう、あるのです? ……具合でも悪いのですか?」
思わず気遣わしげな目になった僕を見て、ヴィルジニーは曖昧に頷いた。
「そう……そうか、病気かもしれない」
さすがに驚く僕。
「どのような症状があるのです?」
ヴィルジニーは少し考えてから、答えた。
「胸の辺りが……ドキドキします」
動悸? 心臓か?
「他にも……顔が火照ったり、熱っぽかったり、胸が苦しくなったり」
もしも循環器疾患だったら、とゾッとする。この世界には、
まさか、そんな病で、ヴィルジニーを失ってしまうのか?
いや、待て。しかし、この世界が、僕の考えているようなものであれば、そのような病気など……
「貴方のそばにいると、決まってそうなるのです」
…………ん?
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