134. 前触れなき来訪

 ヴィルジニーは、何の前触れもなく、僕の部屋に現れた。


 昨日のように、僕を無視したりはもちろんしない。かすかに笑みすら浮かべて、ヴィルジニーはいつものように椅子に腰を下ろした。


 どうやら、セリーズがうまいことやってくれたようだ。


 僕の表情を伺うようにしてから、ヴィルジニーはこれみよがしにため息を吐いた。


「ほんの一日、距離を置いたからといって、そのように動揺するとは、まったく、ステファン・ルージュリー殿ともあろうお方が、情けないですわね」


 皮肉たっぷりに言う公爵令嬢に、僕は拗ねてみせる。


「だって……何の前触れもなくあのようにされては、不安にもなります」


 するとヴィルジニーは、面白いものでも見るような目で僕を見た。


わたくしに冷たくされると、不安になる? ステファン殿は、わたくしのことが相当お好きなのね」


 否定もできないが、簡単に認めるのも癪で、僕は首をすくめる。


「しかし、なぜ、あのような?」


 問うと、ヴィルジニーは視線をそらしつつ、答えた。


「あの噂です」


 関連があればそれだけだろうと思っていたが、それがどうして、あのような態度に繋がるのかわからず、僕は首を傾げる。

 それをみて、ヴィルジニーは続けた。


「あのような噂があって、わたくしが貴方と一緒にいれば、貴方の部屋には逢引のために行っていると思われてしまうではありませんか」


 そう言って、ヴィルジニーは頬を膨らませた。


わたくしの立場では、そのような、はしたない真似はできません」


 僕は、ヴィルジニーの行動の理由がわかって、ホッとする。


「しかし、いまのヴィルジニーの態度では、逆に、噂そのものを肯定する形になってしまうではありませんか」


 言うと、ヴィルジニーは、驚いたように目を見開いた。


「えっ?」

「だって、そうでしょう。僕がヴィルジニーを怒らせて、仲違いしているのだというふうに見えます。あのような噂が事実だと思われれば、僕は――その……立場が、たいへん、よろしくないことに」


 顎に手を当てたヴィルジニーは、しばし考える仕草をしていたが、やがて、納得したように頷いた。


「なるほど。それは思いつきませんでした」


 それから、僕の方を見て、続けた。


「では、どのようにしましょう」


 ずいぶんと素直なヴィルジニーに、僕は少し面食らった。


「えっと、そうですね……僕とヴィルジニーが、以前のように、一緒に普通にしていれば、おそらく、十分かと思いますが」


 僕の提案を吟味するかのように、考え込んだヴィルジニーだったが、その様子は、長くは続かなかった。


「わかりました。では、そのように」


 頷く僕に、ヴィルジニーは微かに首を傾げた。


「それで? 話は終わりですか?」


 僕がもう一度頷くと、ヴィルジニーは椅子を立ち上がった。

 帰るのか、と思ったが、しかし彼女は、扉へと向かおうとはせず、その足先をベッドへと向けた。


 そして、先日座ったところと同じところへ、勢い良く腰を下ろす。マットレスが弾み、フレームがギシリ、と鳴った。


「せっかく来たのですから」


 そう言ったヴィルジニーは、頬を赤らめ、自らが腰を下ろした、そのすぐ横あたりを、手でポンポン、と叩いた。


「先日の、続きをしましょう」




 自分のベッドに横になっているのだと気づくのに、しばらくかかった。

 カーテンの隙間から差し込む明るさを見れば、朝だとわかる。


 僕は、ベッドの上に起き上がると、室内には自分だけしかいないことを確かめる。

 僕自身は寝間着で、それを見てようやく、昨夜はキチンと着替えてベッドに入ったことを思い出す。


 思わず、額に手をやった僕は、再び、背中からベッドに倒れ込んだ。


 そのまま、上掛けをかぶり直すと、そこに頭まで潜り込んだ。そして両手で頭を抱え、身体を横向きに、丸めるようにする。


「嘘だろ……マジかよ……っ!」


 夢を見てしまった――なんとも小っ恥ずかしい夢を!

 僕は我慢できず、ベッドの上で悶える。


 昨夜、セリーズに諭されて、ヴィルジニーが訪ねて来てくれないだろうか、と思いはしたが、結局、深夜まで待ってもそのようなことは起きず、僕は諦めて就寝したのだ。


 その僕の願望が、おそらく、あのような夢を見せた――

 そう気づけば、気分は最悪だ。


 仲違いした女性が優しくしてくれる、すんなりと和解できる……それは完全に、僕の願望、期待する未来、理想の着地点なのだが、それを夢に見てしまう、など、言いようもなく恥ずかしい。


 この経験をするのは、今生でははじめてだったが、前世では、意中の女性との関係が思うようにならなくなった、意思疎通がうまくできなくなった、というようなことがあるたびに、見たような気がする、そういう記憶を思い出して、得も言われぬ羞恥心に、僕はベッドの上でジタバタと暴れる。


 枕に顔を埋めて息を止め、呼吸を限界まで我慢するなどしてみて、ようやく落ち着く。


 冷静になって考えてみれば、ヴィルジニーがあのように、素直に振る舞ってくれるはずがない。

 ましてや、ベッドに腰掛け、昨日の続きをしよう、などと、誘ってくるなど……


 僕は、説明しようのない気分の代わりに、枕に頭を二、三度打ち付けた。


 しかし……見た夢が、理想の着地点だというのは、事実なのだ。

 あれが夢なら、全部夢であってほしかった。

 学園に帰ってきて、リオネルが迎えてくれた、あのあたりから。


 そうだ、全部夢だった、ということに、なっていてはくれないだろうか。




 もちろん、そのようなことはないわけで。


 噂が流れはじめてから二日が経過し、いよいよ、状況は悪化の一途を辿りつつあった。


 ヴィルジニーの態度は、相変わらず僕を無視する姿勢。教室でも食堂でもこれみよがしに離れた席に陣取り、一定距離に近づこうとしない。

 そういう様子を見ている女子生徒たちの、僕へと向ける視線は冷ややかだ。一度などは、ふいに接近する羽目になった女子生徒が、「ひっ」と声を上げて慌てて飛び退く、という場面すらあった。まるで害虫のような扱いに、僕は甚く傷ついた。


 男子生徒の態度はそれほどではないが、元々ことさらに仲がいいわけではなかった連中は、ほかの女子生徒への評判を恐れてか、わかりやすく僕を遠巻きにしていた。王子やリオネルは僕に気を使ってくれたが、彼らは彼らで自らのコミュニティがある。そちらへの影響を考えて、僕の方から遠慮させてもらった。


 セリーズとはあれ以来、話せる機会がない。彼女の行動力を思えば、まる一日以上が経過して何もしていないということはないだろうから、きっと、うまくいかなかったのだろう。


 そういう状況だった。打開策は、まったく浮かばない。

 まさしく針のむしろ、そういう気分だった。


 かといって、僕が姿を隠すようなことをするのは、やはりまったくの逆効果。

 であれば、極力普段通りに振る舞うのが、僕にできる唯一のこと。ささやかな抵抗だった。


 そういう一日を過ごし、最後の授業を終え、独り学生寮へと向かう道すがら、僕は待ち伏せにあった。


 マリアンヌ・ドゥブレー侯爵令嬢は、僕の姿を見つけると、優雅に身を翻し、まっすぐに向き直った。


 相変わらず、とても美しい。完璧に手入れされた、長くサラサラのプラチナブランド。完璧な顎のライン。ほかの女子生徒と何ら変わりないはずの制服を、とても上品に着こなし、その優しげな瞳に柔和な微笑みを浮かべた。


「ステファン様、ごきげんよう」


 久しぶりに女子生徒に優しく微笑まれ、僕は思わず、胸が一杯になる。


「――マリアンヌ様、お久しぶりです……いかが、なされました?」


 一度は喜んでしまったが、すぐに、学校ではほとんど接点のない二年生の、突然の接触に警戒心を覚える。夏の間は度々交流があったマリアンヌではあるが、それも夏休み、あの歓迎会の前後を最後に、途切れたままだった。


 しかしマリアンヌは、僕の訝しげな様子など気にしたふうもなく、その距離を詰め、顔を寄せて来た。その美しく整った顔が近づき、ドギマギしてしまう。いい匂いがする、と思った時、誰にも聞かれないようにだろう、耳元で囁かれた。


「とんでもない噂を、耳にしたものですから」


 マリアンヌの言葉は、気遣わしげに響いた。

 心配して、わざわざ来てくれたのか。


 顔を引いたマリアンヌに、僕は微苦笑と共に、肩をすくめてみせる。


「まったく、困ったことです……マリアンヌ様の耳にも、入りましたか」

「ええ……」


 噂は上級生にまで広まってしまっている、ということだ。


「よもや、ステファン様がそのようなこと、なさらないとは思いますが」

「もちろん。騙られているようなことは、事実無根です。ただ……」


 僕は無意識に、視線を彼女の向こうに向けていた。

 そこはヴィルジニーの社交場ヴィルジニーズ・サロンが借りている講堂のある校舎だった。講堂のある一階の窓は開け放たれていて、中では今日も、活動している様子が伺える。


「ヴィルジニーが、なぜかよそよそしくて。その態度が、どうやら噂を補強してしまっているようで」

「――そういうことですか……」


 納得顔になったマリアンヌは、僕の視線を追って、僕がどこを見ているか確かめたようだった。


 通りがかった男子生徒が、僕とマリアンヌを見て、ぎょっとして立ち止まる。

 あんまりな反応ではあるが、女性に関する不名誉な噂の主である僕と、学園で最も尊敬を集める貴族令嬢との組み合わせは、確かに意外であろう。気まずげにすれ違う男子生徒を、黙って見送る。


 通り道を塞いでいてはよくない、と、僕たちは道から少し離れたところに設置された、ベンチまで移動した。


 通行の邪魔にはならないし会話も聞かれないが、そこを通る人からは見通せてしまう。ちょうど授業が終わる時間帯だったから、人通りは多く、向けられる視線も同様だったが、マリアンヌが気にする様子は見せなかったので、僕は従った。


「なにか、そうなるような心当たりが?」


 腰を下ろしてから発せられたマリアンヌの問いに、その隣に座った僕は首を横に振る。


「それが、全然。前日はいつもどおり――いつもどおりに接しましたし」


 一度、言いよどんだのは、いつもより親密な時間を過ごしたことを思い出したからだ。しかし、いつもより良かったのなら、言及しなくてよかろうと思ったので、そのような言い方になった。


「ただ、噂が出た日は、わたくしは学園を留守にしておりまして。その間に何かがあったのか……よくわかりません。セリーズ嬢によると、特別変わったことはなかったようなのですが」

「セリーズ様は、お味方なのですね」

「ええ、まあ」

「ヴィルジニー様に、直接、お聞きになられては?」

「それが……」


 僕は、一昨日の夜、最後にヴィルジニーに話しかけようとしたときの、焦燥を思い出した。


「話しかけようとしたところ、無視、されまして」

「無視?」

「ええ。ガン無視ですよ」


 苦笑顔で言った僕に、マリアンヌは怪訝な顔を見せた。前世のスラングの意味がわからなかったからだろう。

 それでも、言葉のニュアンスは伝わったようだった。


「ヴィルジニー様の態度には、なにか理由がありそうですね」


 マリアンヌは、立てた人差し指を顎に当てた。考える仕草もイチイチ可憐だ。

 思わず見とれていると、それに気付かれたか、じろりと睨まれた。


「心当たり、本当にございませんか?」

「――ありませんよ」


 言いながらも僕が思い浮かべたのは、思わずキスしそうになったとき、ぎゅっと目を閉じてしまったヴィルジニーの顔。

 でも、あのあとは普通に別れたのだ。あれが原因であるはず、ないではないか。


「その様子だと、ありそうですね?」


 マリアンヌの指摘。

 しかし、部屋でイチャイチャしていて、勢いでキスしようとしたら拒否られた、などと、いくらなんでも言えはしない。相手がマリアンヌであっても……いや、マリアンヌだからなおさらだ。


 僕は首を横に振った。


「考え始めると、些細なことでも、それが原因ではないかと思ったり、してしまうではないですか。しかし、冷静に考えれば、それはありえないのです。そういうことです」


 マリアンヌは頷いたが、完全に納得した様子ではなかった。


「わざわざおいでくださったのに、このような体たらくで、まったく、申し訳ないです」


 言うと、マリアンヌは微かに首を横に振り、それから少しばかり意地悪な笑みを浮かべる。


「ステファン様の評判の悪化は、わたくしにとっても他人事ではありませんし」


 その柔らかい表情と優しい仕草には似合わず、将来、僕の立場と家柄を活用しようという野望があるのが、マリアンヌという女性なのだ。

 しかしその一方で、もし僕が使えなくなる、となれば、彼女の立場なら、適当な相手に乗り換えることだってできる。だから口ではそう言っても、わざわざこうやって世話を焼いてくれるのは、彼女の優しさだとわかった。


「それに、噂の内容が、内容ですから。わたくしは、役に立つと思いますよ」


 言われて僕はようやく、マリアンヌがこの時間、この場所を選んだ理由に気がつく。


 女性にいかがわしいことをした、などという噂が立っている僕が、マリアンヌのような人望厚い令嬢と一緒にいれば、その様子を見た者は、そもそもの噂の信憑性に疑問を持つだろう。マリアンヌのように清楚で可憐な女性が、噂のような卑劣漢を相手にするとは、思わないからだ。


 僕は、またもや前方を横切る生徒が、ひそひそ話をしながらこちらに向ける怪訝な視線を感じつつ、侯爵令嬢の顔色をうかがう。


「では、最初からそのつもりで……」


 行き交う生徒をなんとなしに眺めていたマリアンヌは、こちらに顔を向けると、ニッコリと微笑んだ。


「それに、わたくしの見立てが確かであれば、こうしていれば――」


 と言いかけたマリアンヌは、何かに気づいた様子で言葉を切った。振り返って彼女の視線を追うと、その先には、ヴィルジニーの社交場ヴィルジニーズ・サロンが使っている校舎があって、そちらの方から、こちらに向かって歩いてくる人影があった。


 まるで、のしのしと音が聞こえてきそうな足取りでこちらに向かってくるのは、社交場サロンの主、ヴィルジニー・デジール、そのひとであった。


 その視線、足の向く先は、間違いない、まっすぐとこちらに向かってくる。


「ほら、いらした」

「えっ?」


 聞き返したが、マリアンヌはその微笑みをヴィルジニーの方へ向け、僕もつられるように、同じ方向を見た。


 目前まで来て立ち止まったヴィルジニーは、その両手を腰に当て、僕、そしてマリアンヌを見比べるようにしたが、まずは、とばかりにマリアンヌへと向き直った。


「マリアンヌ様、ごきげんよう」

「ごきげんよう、ヴィルジニー様。ミースの海以来、ですわね」

「マリアンヌ様のその後のご活躍は、聞き及んでおります」

「あら……お恥ずかしい」


 頬に手を当てたマリアンヌは、慌てた素振りでヴィルジニーと僕の顔をチラチラと交互に見た。


「なにやら、風説の流布があったとかで……その件については、ステファン様にも、ご迷惑をおかけしました」


 マリアンヌと僕が婚約したという噂が流れた、あのことだ。


「そのお二人がご一緒にいる、となれば、見た者はいかが思うでしょう。お控えになられたほうがよろしいのでは?」


 ヴィルジニーは、言葉遣いこそ丁寧だったが、その口調と態度は、やけに攻撃的だった。

 しかしマリアンヌは、その悪意にも気付かないという様子で、ニッコリと微笑んだ。


「今となってはそのような心配、もはやする必要はないかと存じますが――」

「はぁ?」


 呆れたように問い返す、貴族令嬢の仮面をかぶり忘れたヴィルジニー。

 マリアンヌはそれにも構わず、続けた。


わたくしの心配をして、わざわざおいでくださったのですか?」


 問われ、ヴィルジニーはハッとしたように目を見開いた。


「っ!? ……いいえっ」


 それからヴィルジニーは、僕へと向き直った。そして右手を腰に、偉そうに顎を上げ、座ったままの僕を見下ろすようにしてから、「ステファン」と僕の名を呼んだ。


「はっ、はい」


 思わずそう返事した僕に、ヴィルジニーは、少し考える素振りをしてから、言った。


「その――確かめたいことがあるので、夕食の後、貴方の部屋にお伺いします……よろしくて?」


 マリアンヌの、どこか面白がるような視線を感じながら、これこそがマリアンヌの狙いだったのか、とようやく気づいた僕は、神妙な顔を作って、答えた。


「はい……お待ちしております」

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