132. 外れた目論見

 なにも、やましいことがあるわけではない。


 確かに、何もなかったか、と問われれば、あった。ついうっかり、ヴィルジニーにキスしそうになった。

 ただ、寸前でとどまったし、彼女もそのことで、気分を害した様子はなかった。


 機嫌よく、僕の部屋を後にしたのだ。


 スキンシップは合意の上のものであった……はずだ。確かにはっきりと言質を取ったわけではないが、そもそも、積極的だったのは彼女の方だったし、拒否する素振りもなかった。


 嫌がったのは、キスだけで、それだって、無理やりするようなことはなく、拒否の素振りを見せたところで、すぐにやめた。


 少なくとも、噂されているような、女性の意に反して行われたようなことは、なにもなかったのだ。


 そう、だから、ヴィルジニーが僕に対して、機嫌を損ねているはずがない。


 目撃された彼女のおかしな様子――顔を赤くして、足早に立ち去った、というのは、目撃者が考えたような、僕の狼藉などが原因ではないのだ。


 僕との時間を思い出し、照れただけとか、そういうものなのだ、おそらく。



 故に、僕が普段通りに振る舞えば、彼女もそうするはずだった。


 授業はもう終わっているが、そろそろ夕食時だった。


 いつもどおりの時間に行けば、ヴィルジニーもきっと来る。新学期になってから、つまり僕が正式にキチンと告白してからほとんどずっと、夕食は一緒だった。


 一緒になればヴィルジニーは、それが教室でも、食堂でも、まるでさも当然とばかりに、僕の隣りに座るのだ。


 だから今日、僕がするべきことは、いつもどおり、いつもの時間に食堂に行き、最近指定席となっている、いつもの席に座ることだ。

 そうすれば、やはりいつものように、少しばかり遅れてやってくるヴィルジニーが、僕の隣りに座るはずだ。


 それで、この件は終了だ。


 隣り合って座る僕たちを見て、まだ、あのような噂を――僕がヴィルジニーによからぬことをした、などという戯言を、信じる者はいないだろう。


 血相を変えたリオネルや、注がれる好奇の視線には驚かされたが……それもこれで終わりだと思い、ホッとした。



 時間が来て、食堂に向かうときには、今日はまだヴィルジニーと話していないが、夕食の席で今夜彼女を誘う暇があるだろうか、などと考える。夕食はいつも一緒、とはいっても、二人きりというわけではなく、彼女の取り巻きが同じテーブルにつく。最初の頃、同席するリリアーヌやベルナデットが僕を見て浮かべていた怪訝そうな顔を思い出す。


 食堂では、先客の生徒たちが遠巻きにしながらも、僕の方を伺うような視線を向けてきた。

 まあコレも今のうちだけだ、と自らを慰めながら、いつもの席に着く。



 給仕係が来るより早く、ヴィルジニーとその取り巻きが食堂に入ってきた。


 居場所を合図する必要もない。ここはいつも座っている席だ。ヴィルジニーもいつもどおり、こっちに向かってくるはず――


 おそらく、同じように思ったのだろう、グループの先頭で、足先をこちらに向けたベルナデットは、ヴィルジニーが方向に向かおうとしていることに気づき、振り返る。


「あっ、あの、ヴィルジニー様」

「なぁに?」

「よろしいのですか?」


 ベルナデットは皆まで言わず僕の方を伺うようにして、その視線につられるように、こちらに顔を向けたヴィルジニーは、僕と目が合うか合わないか、というタイミングで視線をそらした。


 そして、ベルナデットには返事もせず、そのまま違うテーブルへと向かって行ってしまう。


 慌てて後を追うベルナデット。リリアーヌやセリーズ、その他の取り巻き連中も、それぞれ思い思いの表情を浮かべて、公爵令嬢のあとに続いた。何人かは僕の方に、意味有りげな視線を向けた。


 離れたテーブルに座るヴィルジニー、そしてその取り巻きを、呆然と眺めていた僕は、最後の一人が着席したところでようやく、食堂中の視線が僕の方を向いていることに気がついた。


 周囲を見回すと、視線を向けていた生徒たちが、一斉に目をそらす。


 いつの間にか静まり返っていた食堂に、徐々に喧騒が戻って来たが、僕の方は、まだ何が起こっているのか、把握できずにいた。


 このようなことが、起こるはずがないのだ。


 僕は、その会話が聞こえないほど遠く、離れたテーブルで、取り巻きと談笑するヴィルジニーの様子を、信じられない思いで眺める。


 どうしてヴィルジニーは、いつものように僕のところに来ないのか。

 なぜ、視線すら合わせようとせず、無視するような素振りで、遠く離れたテーブルについたのか。


 今、起きていることの意味が、僕には全然わからなかった。


 まるで、半日、留守にしている間に、世界がまるで、自分が知らない形に組み変わった、そのような感覚に陥る。


「失礼します」


 声をかけられ、はっと我に返る。

 いつの間にかそばに立っていたのは、食堂の給仕係――セシルだった。


「どうしました? 今日は」


 慣れた様子でカトラリーを並べはじめたセシルは、作業を続けながら言った。


「えっ?」

「最近は、いつもヴィルジニー様とご一緒なのに」


 すぐに返事ができない僕の方を横目で覗き見たセシルは、一瞬だが、意地悪な笑みを見せた。


「ケンカでもなさりました?」


 さすがに使用人にまでは、噂は伝わっていないのだろう。


 だが、そう、事情を知らないセシルでさえも、こういう認識になるのだ。


 あの噂を聞き、様子をうかがっていた他の生徒たちには、いまのこの、ヴィルジニーがこれみよがしに距離を置いた光景は、その内容を補強するもの、答え合わせにしか、映らないだろう。


 これはマズイ……直ちに立ち上がり、ヴィルジニーにどういうつもりか聞きに行きたいと思った。しかし、慌ててそのようなことをすれば、状況はもっと悪くなるかもしれない、と思いとどまる。

 もしもヴィルジニーが会話に応じてくれない、などということでもあれば、大惨事だ。


「そういうものではございませんよ。女性には大事な、女性同士の付き合いもある……そうでしょ?」

「ああ……」


 それで、セシルは納得してくれたようだった。

 彼女には最初から探るようなつもりがあったわけではなく、ただの世間話だったからだ。


 食欲は完全に失せてしまっていた。

 それでも、僕は食べるふりをしながら、その場にとどまった。


 平静を保っている素振りを見せるべきだと思ったし、チャンスはこのあと、ヴィルジニーが食事を終え、女子寮に戻る、そのタイミングしかないとも思いついたからだ。その機を逃せば、ヴィルジニーと話せるチャンスは、おそらく明日に持ち越しになる。


 チャンス――思い浮かべたその言葉の意味を、僕はフォークの先でサラダに入ったプチトマトをつつきながら、考える。


 何のチャンスだ? もちろん、ヴィルジニーに、この食堂での態度を確かめるチャンスだ。いつもと違う行動をした、その理由を問いただす。

 いや、しかし、そもそも夕食の席をともにする、ということも、示しあったことではないのだ。最近はいつも一緒だった、といっても、ヴィルジニーが勝手にそうしているだけ。はっきりと誘ったことも、誘われたこともない。


 それでも、突然それを辞めた、理由などには、心当たりはないのだ。


 なにかあったのだろうか、僕が学園を留守にした、半日の間に。


 リオネルや王子の口から出た言葉は、それらしいことを示唆していなかった。彼らすら知らないところで、何かがあったのだとすれば、それは推し量ることはできない。


 そういったことがあれば、考えても仕方がない。本人に聞くしかないのだが、その時が来るまで、どうしてもそういうことを頭の中であれこれ想像してしまう、僕の悪い癖だった。


 ヴィルジニーに嫌われてしまったとかだと、嫌だな、などと思うし、話しかければ普通に応じてくれるだろう、そうして欲しい、などと思う。


「そろそろお食事、終わるようですよ」


 手付かずの皿を黙って下げてくれたセシルが、そう耳打ちしてくれた。


 どうやら結局、何かあるということはバレバレだったらしい。


「……ありがとう」


 礼を言った僕は、彼女達より先に、席を立つ。


 そのまま食堂を出て、学生寮へと向かう渡り廊下を途中で横道に逸れ、目立たないところで足を止める。

 以前にもこの場所で、ヴィルジニーを待ち伏せたことがあった。もっともあの時は今とは逆で、食堂へ向かうヴィルジニーを捕まえたのだが。


 陽はとっぷりと落ち、炎の揺らぐ照明が、渡り廊下を照らしていた。


 時間が止まったかと思えるような長い時間の後、ヴィルジニーとその取り巻きたちが、食堂から出てきた。


 タイミングを見計らって、接近する僕。気づき、こちらを見る令嬢方は、先頭を行くヴィルジニーの出方をうかがうように、視線を行き来させた。例の噂、そして先ほどのことがあっても、最近の僕たちの関係を実際にその目で見ている彼女たちには、未だ、半信半疑という気分があるのだろう。


 そのヴィルジニーは、動かした目の端で、僕を捉えた。こちらを認識した、と確信した僕は、声をかける。


「ヴィルジニー……」


 しかし、僕はそれ以上を口にできなかった。


 あろうことか、公爵令嬢は、一度はこちらに向けたはず視線を一瞬後には前方へ戻し、僕の呼びかけをあからさまに無視したのだ。


「あっ、ちょっ……」


 目前を、歩くペースをまったく変えず通り過ぎるヴィルジニーを、僕は呼び止めようとするが、まったく想定外の彼女の態度に、とっさに言葉が出ない。


 思わず手を伸ばしかけた僕と、ヴィルジニーとの間を遮るように、素早く立ちふさがった人物がいた。


 リリアーヌだ。


「ヴィルジニー様には、ステファン殿とお話するようなことはございません」


 彼女の態度を恣意的に翻訳したリリアーヌは、ずいっと身を乗り出すと、僕を蔑みの上目遣いで睨みつけた。


「馴れ馴れしく近寄らないでください……汚らわしい」


 最後の部分はつぶやくように吐き捨てられたが、至近距離にいた僕にははっきり聞こえた。


「リリアーヌ嬢、その件は」


 思わず弁解しようとした僕だったが、リリアーヌは聞く耳持たず、という様子で、身を翻す。

 すでに数歩先に行っていたヴィルジニーとその取り巻きを追いかける背中を、僕は呆然と見送る。


 期待したが、しかし、ヴィルジニーは結局、こちらを一度も振り返ることはせず、行ってしまった。


 ただ、最後にセリーズだけが、気遣わしげな表情でこちらを振り返った。

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