129. 選択

「えっ……不具合? ……修正?」


 呆気にとられた僕が、ようやくそう発する間に、魔女はさっさとソファを立つと、壁際の戸棚に歩み寄っていた。


「心配いらない」


 棚の、やはり透明度が高いガラスがはめ込まれた戸を開き、魔女は言った。


「君に起きていることは、確かにイレギュラーだが、予測された範疇ではある」


 魔女が開けた戸棚には、透明な小瓶がたくさん並んでいた。それらはすべてが同じ大きさ、形状に見えたし、ラベルも貼られていなかったが、魔女はその中から、迷う様子もなく一つを選んだ。


「保護された初期記憶へのアクセスは、ブロックされているのだが、おそらくなんらかの理由で、それが破られてしまったのだろう。わたしの立場では、その理由などは想像するしかないが……」


 戻ってきた魔女は、再びソファに腰を下ろすと、テーブルに小瓶を置いた。中には、なんとも不気味な、青い半透明の錠剤が詰まっていた。


「ゲーム、と言ったか」

「……は?」

「相当な思い入れがあったか? やりこんだとか……もしかしたら、製作に関わったか?」


 僕は、前世の自室にあった、ヴィルジニーのタペストリーを思い出していた。


 魔女は僕の返事など待たなかった。


「強い感情が、コードを上書きしてしまったのだろう。ままあることだ」


 魔女はそのあいだに、小瓶から錠剤を一つ取り出し、その広げた白い手のひらに乗せ、差し出した。


「プロテクトを再構成してくれるツールだ。これを飲めば、改変されたコードは上書きで修正され、開いてしまったアクセス経路は塞がれるはずだ。 ――つまり、君が言うところの前世の記憶は、思い出さなくなる」


 突き出された手と、その上に乗った錠剤を見て、僕は思わず仰け反り、広げた両手を彼女へと向けた。


「ちょっ、ちょっと待ってください……どういうことなんですか? ちゃんと説明してくださいよ」


 僕が言うと、魔女は困ったように首を傾げた。


「必要ない」


「はあ?」


「その必要がある時に、知れるようになっている。いま、重要なことは、君が思い出すはずのないこと、思い出すべきではないことを、思い出してしまった、そのことだ。それがなければ、君はこの世界で、何の疑問もなく生きていける」


「そんな、乱暴な……」



 魔女は力強く言い切った。


「これを飲めば、前世のことなど思い出さずに生きていける。心配しなくても、その記憶は消されるわけじゃない。然るべき時がくれば、思い出せる。今は、まだその時ではないし、その時が来るまで、その記憶は思い出さない方がいい……いや、思い出すべきではないんだ」


「なぜ?」


「君を守るためだ」


 僕は、彼女の手の上の錠剤に、一瞬だけ目を落とす。


「しかし……そう言われても、納得はできませんよ。僕は、なぜ僕がこの世界に……前世とはまったく違う、異世界、ゲームの世界にいるのか知りたくて、あなたなら知っているんじゃないかと思って、ここに来たんだ」


 確かに、魔女の言う通り、前世の記憶を思い出さなければ、そのような疑問はなくなるわけだが、そういう解決を望んだわけではない。


「知って、どうする?」


 魔女は冷たく目を細めた。


「君は異世界、と言ったが、この世界は……いや、確かに、別の世界、という意味では、異世界と呼んでも差し支えないかもしれないが、しかし、この世界は、君が言うような、ゲームの世界などではない。君がここを、前の世界とはまったく別に存在する並行世界、パラレルワールドのようなものだと考えているのだとすれば、それは間違いだ。この世界は、君が言うところの前世の世界から、不可逆的に繋がるものだ。戻ることなど、できないんだぞ」


「え? なに? 不可逆的に……繋がる? では、この世界は、未来の……? しかし――では、なぜ僕が?」


 魔女は首を横に振った。


「君だけじゃないんだ」


「――は?」


「ここで生きている者たちは、ゲームのキャラクターなどではない。君と同じ、人間なんだ。ただ、違うのは、君が過去の記憶にアクセスできてしまった、だから気づいてしまったという、それだけのことだ。だからそのことを忘れ、思い出さずにさえいれば、他の皆と変わらず、この世界で生きていける」

「そんな――」


 皆が同じ、だって?


 僕は、ヴィルジニーやフィリップ王子、リオネルやセリーズといった、身近な人間たちのことを思い浮かべた。


 僕が、ゲームのキャラクターだと思っていて、シナリオや設定、アルゴリズムやステータスに支配されていると思っていた、彼ら、周囲の人々が、すべて、僕と同じように、自らの意思で、考え、行動する、本物の人間だった、ということなのか。

 彼らもまた、ただ思い出せず、自覚がないだけで、同じように前世を持ち、同じところから来た、というのか?


「なぜ、このゲームなんですか?」

「ん?」

「あなたも言った。ゲームなど、無数にある」


 魔女は肩をすくめた。


「偶然だよ。ライブラリにあるものをローテーションして、世界観と環境設定を流用してるだけだ。それに今回たまたま、君が刺激を受けた――。恋愛シミュレーションといったな? 人が死なないなら、ちょうどよかったんだ、きっと」

「ローテーション? その言い方だと、まるで――」


 魔女が微笑むのを見つけ、僕は続けた。


「今回、と言ったな? では、この世界は……何回目なんだ?」


 僕は、思いついたことを口にしたが、彼女は微笑みを変えず、答えはしなかった。


「ゲームの数なんて、何十なんて数じゃ足りない。何百回……何千回?」


 僕の言葉にも、魔女はまったく表情は変えなかった。だけどそのことが、僕には、僕の想像はそう遠くないのだ、と思わせた。


 もしも考えたとおりだとすれば、覚えておくべきではないと言った魔女の言葉も、当然だと思えた。そのように繰り返され、それを覚えていたら、人の精神では、耐えられないだろう。


「なぜそんな……なんのために……」


 思わず呟いた言葉だったが、意外にも、魔女の返事があった。


「いまとなっては、誰にもわからない。だがが来るまで、もはややめることもできない。意味があったかどうかは、その時、が判断してくれるだろう」


「それって――」


 僕の問いを遮るように、魔女は再度、錠剤を差し出した。


「いずれわかる。その時は必ず来るが、今の君は、それを考える必要はない。これを飲んで、彼らと共に、この世界の人間として、生きろ」


 僕は、この世界で、孤立無援だと思っていた。

 仲間が欲しかったのだ、おそらく。そういう思いが、僕をここに連れてきた。

 魔女が、僕の仲間、同じように前世の記憶を持つ人間ではないか、と期待したからだ。


 だが、実のところは、僕はずっとこの世界で生きていて、つまりはこここそが僕の生きるべき世界で、僕の本当の仲間も、ずっと僕の身近に、周囲に、いたと、そういうことなのだろうか。


 僕は、いつの間にか錠剤を見つめてしまっていたことに気がついた。


「これを飲んだら……前世の記憶を、思い出さなくなる?」

「そうだ」


 皆と同じになる――


 錠剤に手を伸ばしかけた僕は、そこでふと思いつき、手を止める。


 前世の記憶を失ったら――魔女の言葉通りなら、それは失われるわけではなく、思い出さなくなるだけなのだが――そうしたら、今の僕は、どうなるのだろうか。


 今のままでいられるとは、思えなかった。


 この春、前世の記憶を取り戻して以降の僕の行動、思考は、その記憶があったからこそ、なされたものだ。


 なかったら、このような数カ月を過ごしては、いなかったはずだ。


 セリーズの存在に疑問を持つことも、フィリップ王子の歪みに気づくことすらもなく、過ごしていたはずだ。


 そして、なにより、ヴィルジニー――彼女への恋心など、抱くはずもなかった。

 僕がヴィルジニーに惚れたのは、前世でのこと。この世界でのことでは、ない。


 それを思い出したからこそあの、美人だが性格の歪んだ悪役令嬢、ヴィルジニー・デジールのことを、恋しく、愛おしく感じるのだ。


 それが、いま、前世の記憶を失ったら、僕のこの想いは、どうなってしまうのか。


 ヴィルジニーへの気持ちは、なくなってしまうのではないか。


 そうなってしまったとき、僕はヴィルジニーに対し、どう振る舞うのだろうか。記憶を取り戻すまでの僕は、ヴィルジニーに異性として興味を持ったことなどなかった。もしもあのときのような感覚、態度に戻ってしまえば、彼女に対し優しく接するような真似は、絶対にしないだろう。


 僕が冷たくすれば、僕に向き始めているヴィルジニーは、どうなってしまうのか。


 なにもわからないまま、僕に拒否されてしまうヴィルジニーを、想像する。


 魔女は、この世界の人々は、ゲームのキャラクターではない。僕と同じ、人間だ、と言った。その彼らがゲームと同じ姿形、身分を持っているのは、世界観と同じように、ゲームから設定を借りたから、だろう。

 つまり彼らの――ヴィルジニーの言動は、ゲームの設定に影響こそ受けていても、ゲーム的なステータス、増減する数値やアルゴリズムによって決定されたものではなく、彼女自身が思考、判断した末のものなのだ。


 とすれば、そのヴィルジニーが、僕などに心を許すようになったのは、好感度の数値を順調に上げられた、からではなく、僕の振る舞いが、彼女に僕を受け入れさせた、そういうふうに考えるべきだ。


 おそらく、悪役令嬢である彼女は、その性質故、過去に他人から純粋な好意を向けられた経験がなかったのではないか。立場があるから、ちやほやはされるが、それは本心からではなく、公爵の娘という看板があるからだと、彼女自身もわかっていた。

 フィリップ王子との婚約も、政略的なものだった。

 他人から真に愛されていると感じた経験が、なかったのだ。


 僕の積極的なアプローチにより、承認欲求がついに満たされた。おそらくは、それが僕を受け入れた、大きな理由だ。


 そんな彼女が、なにもわからぬまま、僕に突き放されたら――


 ショックは、大きいだろう。もしかしたら、もう誰も信じないとか、そういう気分にさえなりかねない。

 彼女に、そんな悲しい、寂しい思いを、させたくはなかった。


 そう思うのは、彼女のことを想うから、というだけではない。僕自身がやはり、ヴィルジニーのことを好きだからだ。

 彼女に悲しい顔などさせたくない。ことに、僕が原因で。


 なによりも、僕自身が、彼女と共に居たい。そう思うのだ。


 僕は手を引っ込めた。

 それを見て、魔女は首を傾げた。


 僕は言った。


「今の僕には、この記憶は、必要だ。失われたら、僕は僕でなくなる」


「その感じ方は、危険かもしれない。ひとは、何もかも抱えて生きていけるようには、できていない。わたしは、それを知っているから、ここにいる」


 その言葉を聞いて、僕は、この人は親切なひとなんだな、と思った。


「ありがとうございます。あなたのおかげで、僕はようやく、この世界で生きていく覚悟ができたのかもしれない」


「君の選択は、君に致命的な破滅を招くかもしれないぞ」

「構いません。もはやこれなしに、今の僕を構成し得ないんです。これを失うぐらいなら……いや、これを失うことは、死ぬことと同じだ」


 僕がそう言うと、魔女は錠剤を乗せていた手を、閉じた。


「そうか……君の選択が、悪い結果を招かないことを祈るよ」

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