127. 魔女の弟子
翌日。僕は朝食前に学園を出て、自宅へと向かった。
授業をサボることが後ろめたかったからではない。“魔女の使い”を、逃したくなかったのだ。
明確な、そういう予感があったわけではない。
ただ、子供は、信用できないと感じた相手からは逃げようとするものだし、あの子に逃げられたら、もう魔女には会えないんじゃないか、そういう予感の方が、あった。
ルージュリー家の屋敷に着いた時、その子供、エミリーはまだそこにいてくれて、僕はホッとした。
風呂にも入って、服も着替えさせられ、こざっぱりとしていた。そういう姿をしていれば、僕にも彼女が十二歳ぐらいの少女だということがわかった。
「いいっていったんだけど……」
所在なさげにエディットを見る少女に、僕は微笑んだ。
「いいんだよ。これは僕の、感謝の気持ちの先払いだ」
そう言うと、エミリーは不審げな目を僕に向ける。
「昨日も言ったけど、先生が会うかは、わからないよ?」
「昨日も言ったけど、君の責任は問わないよ」
「服は洗って返すよ」
「いいんだよ、どうせ僕には着られないんだし」
冗談のつもりだったが、彼女が解したかはわからない。
馬車に彼女の荷物と、気を利かせたエディットが用意してくれた弁当、そしてお菓子を詰め込み、出発する。御者のほかは僕と彼女だけの旅だ。
お菓子で彼女の気を引き、警戒を解かせてから、僕は色々と疑問に思っていたことを質問する。
「魔女さんのことを、君は先生って呼ぶんだね?」
「うん」
「どうして先生なんだい?」
「いろいろ教えてもらってる」
「いろいろって?」
「……読み書きとか、計算とか」
「じゃあ君は、読み書きができるのか?」
僕が聞くと、クッキータルトを飲み込んだ彼女は少し誇らしげに言った。
「まあね」
この世界での平民の識字率は低い――この話はおそらく、以前にしたと思う。平民に対する初等教育システムそのものがないし、特に農村部にいけば、文字など読めなくても生きていけるのだ。
都から離れた村落で生きる少女である。その両親が、彼女に学を付けさせようと思わなくても仕方がない、というか、そんなこと思いつきもしないのが当然だ。職業次第ではあるが、彼女の両親がそもそも読み書きできなくても不思議ではない。
そんな村の子供に、勉強を教えているとでもいうのか、その、魔女という人物は。
「昨日、本屋で受け取った絵本、あれも読めるのかい?」
期待して聞いたが、しかし少女は首を横に振った。
「どうして?」
「どうしてって……この国では使われていない字でしょう?」
「しかし、君は代わりに受け取るのなら、字を判別できなければいけないだろう?」
「違いぐらいはわかるよ」
それで充分、ということだろうか。
僕は、少女が魔女の弟子、後継者なのではないか、と思いついたので聞いたのだが、この様子では、違うだろうと思えた。
「どうして君の先生は、魔女なんて呼ばれてるんだ?」
「知らない」
「そうなの?」
「昔から、村の大人たちは魔女って呼んでる。でも、大人たちも理由は知らないと思うよ」
「もしかして、魔法を使えるとか?」
僕の質問に、彼女は答えなかった。クッキーのフルーツソースの上にくっついたドライフルーツをつまみとって、少し眺めてから口に入れた。
聞こえないふりのつもりだろうか。
「もし魔法が使えるなら、見てみたいな。火を出したり、空を飛んだりできるのかな」
僕の言葉を、少女はバカにしたように笑った。
「火を出したりはしないよ」
「じゃあ、空は飛べる?」
すかさず言うと、エミリーは、しまった、といわんばかりに顔を背けた。
「いや、そんなはずはないな」
僕は意地悪く言った。
「空が飛べるなら、わざわざ子供を使いに出したりしないだろう。自分で飛んでいった方が早い」
少女は顔を背けたまま。詰めは甘いが、賢い子のようだ。
意地悪な気分のまま、僕は言った。
「だから、魔女なんかじゃないんだ。魔法なんて、ない」
僕の言葉を聞いて、エミリーは、音がしそうな勢いでこちらを振り返った。
彼女は敵意を丸出しにして、僕を睨んでいた。
「先生は――」
残念ながら、少女はその勢いで、僕の聞きたいことを口にしたりはしなかった。寸前で気づいたように、言葉を飲み込んだ。
それから、悔しそうな顔を窓外に向けた。
「すまない。君の先生を侮辱する意図はなかったんだ」
素直に謝り、頭を下げると、こちらを向いたエミリーは、驚いたようだった。
「魔法なんか使えなくても、魔女のように賢く、神秘的な方だから、そういうふうに呼ばれるようになったのだろうな」
そう言ってやると、少女は溜飲を下げたのか、口元を緩ませた。
もちろん僕の方は、言ったとおりのことを思っているわけではない。
ご機嫌取りに
少女の反応を見れば、彼女は魔女に、色々と口止めをされている。
そしてそれだけではなく、魔法も、ある。
それは僕が言った、火を出すといったような、わかりやすいものではないのだろう。だけどもしかしたら、空ぐらいは飛ぶのかもしれない。
少なくとも、この少女が魔法だと信じるようなものが、あるのだ――彼女の態度を見ると、そのように感じられる。
僕は、こういう考えに確信を持ちつつも、しかし、信じられない思いはあった。
なにせこれまでこの世界に生きてきて、超常現象の類に出会ったことは一度もないのだ。
恋愛シミュレーションゲームなのだ。魔法など、必要がないだろう。もしもあるなら、もっとシナリオに影響の少ない、たとえばごく一般的なものだったりするべきだ。世界そのものがそもそも、剣と魔法の世界だったりするべきだ。
しかし、この世界は、そうではない。
前世の記憶がある僕が、偶然にもあの本を見つけたから、いま、ここにいるのだ。
やはり、魔法はない――そう考えるのが自然、当然だ。
少女が見たものが、魔法のように見える、まったく別のものという可能性の方が高い、と思った。
では、魔女なる人物は、子供を騙すペテン師なのか?
エミリーの話しぶりから受けるイメージは、それとも違うように感じるが――僕は、とても頭が良くて熱心に子供に勉学を教えるが、しかし変人であるという、そういう人物を頭に描いていた。
変人――その可能性を思いついた僕は、少しばかり不安になる。
変人であれば、読めない文字で書かれた本を集めていても、おかしくないではないか。
懐かしい言葉に触れたこと。
そして、魔女などという、現実離れした言葉を聞いたこと。
立て続けに起きたそれらに、冷静な判断力を失ってしまっていたのだろうか。
いや……いずれにせよ、確認しないわけにはいかないのだ。
そう、確認だ。その前にそのようなことを考えても、仕方がないのだ。
僕は、嫌な想像を追い出すように、頭を振る。
「あっ! ここで止めて!」
エミリーが言ったのは、道が二つに分かれている分岐路だった。
とは言っても、馬車も通れそうな道はその一方だけで、もう一方はせいぜい獣道のような、人一人が通るのがやっとといった様子の道だった。
「先生のところに行くなら、ここから先は歩き」
少女はそう言って、その獣道じみた道の方を指差す。
「この先に、その、魔女――先生が?」
「うん」
エミリーは少しばかり意地悪な顔をしてみせたが、それは僕を騙そうというのではなく、貴族の坊っちゃんに歩きができるか? と試すような笑みだった。
僕は頷きを返し、荷物をまとめる。
とはいっても、背負った鞄の中に、僕の物はほとんどない。中身は主に、エミリーにくれるつもりの菓子類、そして魔女なる人物への手土産だ。
馬車に御者を残して、少女の先導で獣道へと入る。
道はほどなく、登り坂となった。そういえば、魔女は山に住んでいる、ということを思い出した。
軽快な足取りで登っていくエミリー。僕はそれを、懸命に追いかける。
「ほら、もっとがんばって。そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」
立ち止まって振り返り、息を切らした様子もなく、勝ち誇ったように言う少女を、足を止めた僕は、汗だくで見上げる。
「ずいぶん……身軽なんだね」
息も絶え絶えに、僕は言った。
いくら田舎の子供とはいえ、彼女の軽快さ、体力は、普通ではないと思えたからだ。
エミリーは、意味有りげな笑みを浮かべた。
「先生の魔法のおかげかもね」
そう言って身を翻し、また登っていく。
軽口、というように言ったが……僕は歩みを再会しつつ、少女の言葉の意味を考えた。
年端のいかない少女が、魔女なる人物の使いである、ということに感じる違和感は、前世の価値観のせいだろうか、と思っていたが、もしもエミリーが、体力を増強するとか、身を守ってくれるといった
野宿をするのかと聞いた時、平然としていた少女の表情を思い浮かべる。
彼女のことを、魔女の弟子かもしれない、と考えたことを、僕は思い出していた。
あの考えは正しくて、もしかしたら、彼女自身が魔法を使えるのかもしれない。魔法が使えるなら、単独でのお使いなど、どうってことないだろう。
だが、そのようなことを思いついたからといって、だからどう、ということもない。
歩いているあいだは、脳内は暇で、そういう、考えても仕方のない、とりとめのないことを、延々と考えてしまうのだ。
一時間ほど歩かされたところで、開けた場所に出た。
「着いたよ」
エミリーの声に顔を上げ、彼女が指差す方を見ると、そこには、一軒の、かわいいログハウスがあった。
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