126. 期待と覚悟

 すっかり遅くなってしまった。


 急いだので汗もかいてしまっていた。先に風呂を済ませて食堂に行くと、いつもより遅い時間であるせいだろう、利用者の数は少なく、ヴィルジニーも、彼女の取り巻きもすでにいなかった。


 明日のことも考えなければならないが、兎にも角にも、ヴィルジニーだ。あまり遅い時間になってしまうと、男子寮に入るのに抵抗が出てしまうかもしれない。


 素早く食事を済ませて、急いで男子寮に向かうと、渡り廊下の途中、女子寮への分岐路となる分かれ道で、そのヴィルジニーと鉢合わせた。


「ずいぶん遅かったではありませんか」


 不機嫌そうな顔で、彼女は言った。


「このわたくしを待たせるなんて、いいご身分ですこと」

「……待っていてくださったのですか?」


 僕の問いに、ヴィルジニーは慌てたように言った。


「このわたくし貴方あなたを待つなど、するはずがないではありませんか!」


 五秒で矛盾が発生しているが、もはや指摘するまい。


 外はすでに暗く、屋根だけがある渡り廊下に設置された薄暗い外灯でははっきりとしなかったが、ヴィルジニーのその頬は、赤く染まっているように見えた。


「いえ、その……失礼しました。どうかお許しください」


 ヴィルジニーは返事をせず、憮然とした顔のまま、居丈高にその形の良い顎で男子寮の方を指し示した。


 えっ? このまま行くの?


 疑問には思ったが、僕が黙って、その男子寮の方へ向かおうとすると、ヴィルジニーもやはり、黙って付いてきた。


 昼間は抵抗があるようなことを言っていたはずなのに――二人で一緒に男子寮に、僕の部屋に向かうのは、オーケーなのか……?


 僕の内心を他所に、やはり憮然とした表情のまま、すぐ後ろに付いてくるヴィルジニー。

 否応なく、そのまま男子寮へと進入する。


 一階のロビーにいた二人の男子生徒が、僕と、その後ろに続くヴィルジニーを見て、ぎょっとした顔を見せたが、ヴィルジニーは涼しい顔で、さも当然、とばかりに、僕に続いて廊下を付いてきた。途中で行き会った男子生徒が驚いて道を譲ったが、ヴィルジニーは一瞥しただけですれ違った。


 そのまま、僕の部屋に到着する。


 先ほどすれ違った男子生徒が呆気にとられた様子でこちらを伺っていたが、ヴィルジニーは気にした様子もなく待つ素振りを見せたので、仕方なしに、僕は扉を開け、ドアを押さえた。


「……どうぞ」


 躊躇いなく、僕の部屋に入っていくヴィルジニー。

 続こうとした僕は、固まった姿勢でこちらを見ている男子生徒に向かって、真顔で、立てた人差し指を唇にあてて見せた。意味があるかはわからない。たぶん、ないだろう。


 部屋に入り、扉を閉める。


「あの、よろしかったのですか?」

「なにが?」

「その……一緒に部屋に入るというのは、さすがに」

「ここには、何度も来ております。今更、と仰ったのは、ステファン、貴方の方ではありませんか」


 こともなげに言ったヴィルジニーは、そうしながら、僕を更に狼狽えさせる行動をしていた。


 彼女はなんと、いつも指定席にしている椅子、ではなく、のだ。


 思わず固まってしまう僕。


 これは一体、どういうことだ。確かに、イチャイチャするなら隣に座りたいし、そのように使えるものは僕の部屋にはベッドしかない、というのは、つい数時間前に考えたことだが、まさかヴィルジニーをベッドに座らせることなどできるはずがない、というのも合わせて考えていたのだ。それがなんだこれは、僕が言うより先に、ヴィルジニーは自らベッドに、えっ、これって、えっ、どういうこと? どうしていいの僕?


「――なにをしているのです」


 座った姿勢のまま、ヴィルジニーは訝しげに、僕を見上げた。


 その頬は――偉そうな口調とは裏腹に、微かにピンクに染まっている。


「えっ? あっ……ええっと……」

「……そうやってぼーっとしているだけ、というなら、わたくし、帰りますよ?」

「えっ! あっ! すいません、つい」


 変なふうに言い訳をしてしまった僕は、慌てて彼女に近づいた。


 えっ、でもこれ……いいのかな?


 その、わずかな距離を詰める一瞬で、僕は考えた。


 部屋には二人しかおらず、この部屋は一人部屋だが、僕が追加で用意したものも含め、二脚の椅子がある。いつもだったらその片方、僕が普段使っている椅子の方に、ヴィルジニーは当然のように腰掛けるのだ。

 それが今日は、彼女はその椅子の傍らをわざわざ通り過ぎて、その向こうのベッドの長辺に腰を下ろしている。僕に椅子を譲った、という可能性も、考えなくはないが、であれば、もう一脚の方に座るのが自然だ。

 であれば、つまり、この行動は、僕といっしょに、ベッドに座るという意味に、ほかならないのでは?

 実際、今この瞬間も彼女は、まるで僕を待つかのように、上目遣いでこちらを見ている。その頬の血色は、まるで何かを期待しているようですらある――


 期待? まさか、本当に? あのヴィルジニーが?


 いや、こういう僕の考えが、すべて間違いであったとしても、構わない。どっちであろうと、ここは行くべきところだ――ヴィルジニーの隣りに座る。僕はそう決心していた。


 決心したらしたで、また次の、重要な選択があった。

 距離感だ。


 どの程度の距離感をもって、腰を下ろすべきなのか。


 あまりに近すぎると、嫌がられてしまうだろう。機嫌を損ねられてしまっては、またこのシチュエーションに持ち込むのが、難しくなる。かといって離れすぎてしまうと、せっかくのヴィルジニーの気遣いが台無しだ。彼女がなのだとすれば、ガッカリさせてしまいかねない。


 ええい、ままよ! 僕は決して発声したことがない言葉を頭に思い浮かべた。


 ここはもう、行く! 行っちゃう! もしも嫌がられたら、ベッドが柔らかすぎたからとか、適当に言い訳しよう。ヴィルジニーにこれほど気遣わせておいて、遠慮などしたらその方が失礼だ!


 覚悟を決めた僕は、ヴィルジニーのすぐ横、という位置まで行くと、思い切って腰を下ろした。


 僕の体重を受けて、マットレスはズシッと沈んだ。

 お互いの身体が、その凹みに吸い寄せられるようになって、僕とヴィルジニーの肩が、寄せ合うように密着する。


「おっと、失礼」


 平静を装った僕がヴィルジニーの方を見ると、至近距離にある彼女の顔は、先ほどよりもはっきりと赤かったが、彼女もまた、平静を装おうとしているのがわかった。


 目と目が、合う。


 見つめ合っていたのは一瞬だけ。ヴィルジニーの方から、恥ずかしげに目をそらした。

 思わず、口を開く。


「よかったんですよね?」

「っ……なにが?」

「いや、その、ここに座っても」

「知りませんよ、そんなの」

「えっ、じゃあ、なんで?」

「――貴方じゃないですか」


 ヴィルジニーの受け答えは支離滅裂に思えたが、彼女は僕を、上目遣いに睨むようにした。

 そして、聞き取れるかギリギリの、小さな声で、言った。


「イチャイチャ……したいと言ったのは、貴方の方です」


 僕はようやく、昼間のやり取りを思い出す。


 そうだった。たしかに僕はヴィルジニーに、二人っきりでイチャイチャしたい、と言った。それに対しヴィルジニーは、人目がある学内では無理だ、と答えた。では、誰にも見られない僕の部屋ではどうか、と言ったのは、僕だ。


 僕としては、単に二人っきりになるために僕の部屋に呼んだ、というつもりだったのだが、どうやらヴィルジニーの方は、イチャイチャしたい、という、そっちの方の希望を飲んだつもりで、応じたのだ。


 つまり……僕は顔をそらして表情を確かめさせようとしないヴィルジニーの豪奢な金髪を見つめた。


 このコは最初から、完全にそのつもりで――つまり、僕とイチャイチャするために、そういう覚悟があって、ここに来ている、ということだ。


 何も言わず、いきなりベッドに腰掛けたのが、何よりの証拠だ。


 そうとわかれば……僕は、ヴィルジニーと密着している方の肩を、開くように後ろに下げた。

 すると、そこに当たっていたヴィルジニーの肩が滑って、バランスを崩す。とっさに踏ん張ろうと手を伸ばしたが、しかしその手が触れたのは僕のふとももで、動揺したのだろう、慌てて手を引いてしまい、自分では身体を支えることができなかった。そのまま倒れる形になった彼女は、その肩を僕の胸に預けるようにしてようやく止まった。

 彼女の頭が、僕の顎のあたりに触れる。


 僕がヴィルジニーを抱きとめたような形だ。


 ヴィルジニーはその身を強張らせた。しかし、逃げようと思えば逃げられる形であったにも関わらず、彼女はそのような素振りはしなかった。


 その体重のかなりを、僕に預けるような形だ。僕にとっては彼女の存在を実感できる、心地よい重さ。


 やがて、その姿勢のまま、彼女の方から口を開いた。


「まったく、図々しい方ね」


 言葉こそ辛辣だが、言い方は穏やかだった。


「嫌だとおっしゃられるなら、すぐに辞めます」

わたくしのせいになさるのね」

「そういうつもりでは」

「何もかも許したというわけでは、ございませんのよ」

「もちろん、承知しております。でも、ヴィルジニーも、こうしたかったんでしょ?」


 彼女は僕の方に顔を向けようとしたが、近すぎてできなかった。


「まったく――自惚れも程々になさい。わたくしがそのようなこと……あるわけないじゃありませんか」

「でも、ヴィルジニーは、僕のこと好きですよね」

「言ってなさい」


 しかし、身体から力を抜いたヴィルジニーは、ついに遠慮なく、その体重を僕に預けるようにした。


「でも、ヴィルジニーのそういう、素直じゃないとこ、かわいいですよ。好きです」

「そのように言えば、なんでも許されるとでも思っているの?」

「なんでも、とまでは思いませんが、少しぐらいは、とは考えてます。ヴィルジニーは、僕には甘いから」


 そう言って、肩に手を回してみる。


 ヴィルジニーはその、肩に乗った僕の手を一瞥したが、振り払ったりはしなかった。


「嫁入り前の身です。婚約者でもない貴方に、これ以上を許すことはできませんので」

「僕が責任を取ると言っても?」


 ヴィルジニーは鼻で笑った。


「自惚れも大概にしなさい。責任が取れる立場ですか」


 公爵令嬢は強がったが、僕は気にしなかった。


 それよりも、彼女からはっきりとNGが出たことが重要だった。

 つまりは、ここまでは良いということだ。


 ヴィルジニーを抱く手にぎゅっと力を込めてみせる。ヴィルジニーからはムッとした雰囲気があったが、何も言わなかったので、そのままにした。


「まったく……これが貴方のしたかったことなのですか」

「あっ、いいえ、これだけではありません。せっかくですから、楽しくお話しをしましょう」

「このままで?」

「ダメですか?」

「…………勝手になさい」


「そういえば、ヴィルジニーは、ご友人のことを愛称で呼ばれますよね?」


 僕の話の切り替えを、唐突と感じたのも当然だろう。ヴィルジニーは怪訝そうに問い返した。


「はぁ……?」

「ベットとか、リリとか」

「ああ……それが、なにか」

「あれ、親密な感じがしていいですよね。僕らもあんな感じで呼び合いましょうよ」

「はあ?」


 ヴィルジニーは呆れたような声を出したが、僕はあえて気にせず、続ける。


「いいでしょ?」


 ヴィルジニーは少し考えるように間を置いてから、言った。


「……わたくしのこと、なんと呼ぶつもり?」

「えーっと、ヴィルジニーなので……ヴィヴィ、とか、ジニー、とか」

「プレスコット風に?」


 彼女は身を起こすようにしたので、僕はその肩を抱いていた手を離す。

 すると、彼女はこちらを振り返って、僕の表情を観察するようにした。


「では、ステファンのことはなんとお呼びすればよいの? スティーブ?」


 どうやら、そう呼びかけたときの、僕の反応を見たかったらしい。

 僕としては、そういう呼ばれ方も悪くないな、と思ったのだが。


 ヴィルジニーは口元を押さえ、可笑しそうに笑った。


「ダメね。貴方はスティーブという感じではないわ」


 小馬鹿にしたような言い方に、流石に少し、ムッとしてしまう僕。


「やっぱり、貴方はステファンね。わたくしのこともこれまでどおり、ヴィルジニーと呼んでくださる?」

「変わらないじゃないですか」

「あら、公爵令嬢たるこのわたくしを呼び捨てにできるのは、貴方の他は両親と、元婚約者のフィリップ王子ぐらいなものよ?」


 そう言ったヴィルジニーは、僕の顔に向かって手を伸ばしてきた。

 そして、まるで形を確かめるかのように、指先で僕の顎に触れた。


「相当の特別扱いですよ、これは」


「言われてみると、たしかにそうですね」


 納得してしまう僕。


「ということは……僕はだいぶ前から、ヴィルジニーに特別扱いしてもらっていたわけですね」


 なにせ、呼び捨て自体を許されたのは、もう何ヶ月も前のことだ。もっともそれは、二人っきりでいるとき限定、だったが。


「今頃気づいたのですか?」


 ヴィルジニーは少しばかり呆れた顔をしてみせた。


「ずいぶん図々しい要求だと、呆れていたのですよ」


 そう言って微笑むヴィルジニーの顔が、至近距離にあることに、今更ながらに気づく。


 瑞々しい唇に、視線が引き寄せられる。


 僕はその顔に、自分の顔を近づけた。


「ステファン、それは……」


 少し怯えたような、ヴィルジニーのか細い声。


「ダメですか?」

「……聞くなんて、卑怯です」


 ヴィルジニーはぎゅっと目をつぶって、顎も引いてしまった。

 雰囲気に流されたくない、という彼女の気持ちがわかってしまった僕は、無理強いはせず、その額の髪の上に唇を当てるだけにする。


 離れると、目を開けたヴィルジニーが、顔を赤くし、拗ねたような目で僕を見上げた。


「すいません。ちょっと、急ぎすぎました」


「……本当です。気をつけてください」


 赤くなった頬を膨らませたヴィルジニーは、目をそらし、そう言った。

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