122. 乗馬の時間
僕は身を翻し、自分の馬――ベルトラン氏に預けてあったシルヴァンの馬へと、駆け寄っていた。
みすみすと
ヴィルジニー攻略の最大の難関であった、彼女とフィリップ王子との婚約、その解消は、もはや目前であった。
あとは、ヴィルジニーただひとりが、イエスと言うだけなのだ。
馬に飛び乗った僕は、焦る気持ちを抑え、握った手綱を軽く引く。
侯爵家のよく訓練された馬は、それだけで僕の意図を汲み、ヴィルジニーが乗った馬車を追いかけるように駆け出した。
馬車と、馬である。すぐに追いついた。
客車に並走するようにすると、ほどなく、窓が開いて、怒り顔のヴィルジニーが顔を出した。
「ついてらっしゃらないで!」
「そういうわけにはまいりません」
「なぜです!?」
「話が終わってませんから」
「話すことなどありません!」
「そんなことないです」
僕は笑顔を作り、肩をすくめてみせた。
「どうせ、お屋敷に帰られるのでしょう? ご一緒します。断られても参りますよ」
ヴィルジニーは顔をしかめた。
「勝手になさい!」
怒ったように言って、窓を閉められてしまう。
どうせ、馬車と馬との間で、話すようなことではない。
そのまま、デジール公爵邸へ。
門番は僕の馬に目を向けたが、止められるようなことはなく、馬車と一緒に中へ入った。
長いアプローチを、馬車はペースを落とさず走り、エントランスでようやく止まった。
僕がその、馬車のそばに馬を寄せると、降りてきたヴィルジニーは、両手を腰に当て、僕を見上げて忌々しげに言った。
「まったく……まるで自分の家のように」
そのヴィルジニーに、僕は鞍上から、身を乗り出して手を伸ばす。
ヴィルジニーはその僕の手を見て、一度は不思議そうに首を傾げたが、ほどなく、何も聞かずにその手を掴んだ。
僕は反対の手も伸ばして、彼女の手をしっかりと掴む。
意図を汲んだヴィルジニーは、空いた方の手でスカートの裾を持ち上げると、僕が突っ張った鐙の、僕の足の甲に躊躇なく、自分の足をかけた。
彼女が身体を持ち上げようと踏ん張るのに合わせて、思いっきり引っ張る、が、スカートである。すんなりと持ち上げることはできなかった。しかし、察した従者と御者がすぐに駆け寄ってきて、彼女のお尻を押し上げてくれた。
馬上で後ろにずれた僕は、手から離した片方の手で彼女の腰を掴んで、鞍へと引っ張り上げる。
ヴィルジニーは、スカートで馬にまたがるわけにはいかず、足を揃えたまま、僕の前、鞍の上で横座りの形になった。
馬上は、広いスペースではない。否応なしに、身体が密着する。
こちらを振り返ったヴィルジニーの顔は、すぐ間近にあった。
「どういうおつもりです?」
咎めるように言った彼女の目には、しかし、先程のような剣呑さはない。
僕はそれには答えず、手を貸してくれた二人に「ありがとう」と言った。二人は揃って、にやりと微笑むと、御者の方は親指を立てさえもした。
かかとを馬の腹に当てる。
馬はゆっくりと歩き出すと、たった今、通ってきたアプローチの方へと鼻先を向けた。
ヴィルジニーは、再度問う代わりに、その視線を向けてきて、僕は、その耳元に口を寄せた。
「内緒話をするのに、都合がいい。ヴィルジニーを逃さなくても済む」
その滑らかな頬に唇を当てたくなる衝動を堪え、艷やかな髪の香りと、密着する彼女の背中の柔らかさを楽しむだけにしておく。
アプローチを覆うように生えた木の陰に入ったところで、僕は口を開いた。
「どういう話をお聞きになられた? 僕とマリアンヌ嬢が? 婚約?」
馬鹿な冗談を、とばかりに、鼻で笑いながら言うと、半分だけ振り返ったヴィルジニーは、不満そうに唇を尖らせた。
「マリアンヌ様が、フィリップ王子の婚約者候補と言われながら、そうならなかったことも、最初から
僕は、何も知らなければそういう解釈も確かにできる、と感心し、苦笑する。
「マリアンヌ嬢と僕の間に、そのような関係はございません」
「では、噂はただの噂だ、と仰るおつもりなの? でもこの話をしてきたのは、一人や二人ではございませんのよ?」
そのように広まってるのだと聞くと、ちょっと頭が痛い。
「歓迎会の場で、マリアンヌ嬢にそのように振る舞ってもらったのは、事実です。しかしそれは、クローディア王女殿下の求婚を避けるための、方便です」
ヴィルジニーはその横目を、細めた。
「本当に?」
「僕だって、本当ならヴィルジニーを連れて行きたかったですよ。嘘を吐かなくて済むし」
「そのようなこと……できるわけないではないですか」
「そういうことなんですよ、マリアンヌ嬢に協力していただいたのは。だいたい、ヴィルジニーの言った通りなら、僕はデジール公爵すら敵に回すやり方をしてるってことになっちゃいます」
ヴィルジニーは、迷うように目を逸らした。
その横顔に向かって、僕は続ける。
「マリアンヌ嬢は、有力貴族の子弟とは、結婚したくないんですよ」
「えっ?」
「これは秘密ですが、
「そんなこと……」
「信じられませんか?」
少し考える素振りをしたヴィルジニーは、首を横に振った。
「いえ、あの方なら、言い出しそうですね」
頷いた僕は、続ける。
「だから、父と僕には、協力的なんです」
「それで、そのような噂が立っても平気、というわけですか」
ヴィルジニーの身体から、緊張が少しばかり抜けるのが、わかる。
アプローチの途中、木々の間を抜ける小道があるのを見つける。その方向は、広い庭に抜ける道だろうと当たりをつけ、そちらに鼻を向けさせた。ヴィルジニーも何も言わなかったので、行っても大丈夫だろう。
「プレスコットの王女様と、僕などをくっつけるわけにはいかない、そういう、宰相や他の大臣たちの意図を汲んで、マリアンヌ嬢は動いていました。両国の利益を考えれば、クローディア王女とフィリップ王子が結婚するのが、一番いい。
もちろん、僕にとっても」
視線が通らない小道にいるのをいいことに、僕はヴィルジニーに更に身を寄せ、両手は手綱を握っているので、両の二の腕で、彼女の身体を抱くようにした。
ヴィルジニーは、少しばかり身体を強張らせたが、拒否するような素振りは見せなかった。
「王子と
ヴィルジニーは一瞬、こちらを振り向こうとしたが、思いとどまったように、その視線を前へと向けた。
「それで……そうなったら?」
僕は、その耳元に口を寄せた。
「そうなってくれれば、もう、貴女と会うのに、このように人目を忍ぶ必要はなくなります」
ヴィルジニーは身を捩ると、僕から離れようとする素振りを見せた。もっとも、狭い馬上では、本当に離れることなどできなかったが。
「そのようなこと……
「えっ? ダメなんですか?」
おどけて言うと、ヴィルジニーは振り返って僕の顔を見た。そして、睨むのをやめ、苦笑気味に笑った。
「本当、おめでたい人ね」
再び前を向いたヴィルジニーは、更に馬が十歩ほど進んだ後に、さり気なく、というふうに、その身を僕に預けるように、もたれかかってきた。そればかりか、その頭まで、僕の胸に預けるようにした。
僕は、彼女の重さを、喜んで受け止める。
美しい金髪が、僕の鼻をくすぐった。
ヴィルジニーは何も言わなかったので、僕も、何も言わなかった。
言葉はなかったが、もう、必要ないと思えた。
馬の足音だけが聞こえる、ゆっくりとした乗馬の時間を、ただ、二人で楽しんだ。
小道を抜け、開けた庭に出たところで、ヴィルジニーが口を開いた。
「芝を荒らすと、庭師が嫌がります。向こうの石畳を通って、玄関に戻ってください。 ――行くところがあります」
「……どちらに行かれるのか、聞いても?」
ヴィルジニーは、片目だけをこちらに向けると、少し呆れたような、それでいて照れたように、言った。
「王城へ――決まってるじゃありませんか」
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