120. 拒否

 自宅の食堂で、僕はたっぷりと時間を掛けて、朝食を味わった。


 最高にいい気分だった。


 フィリップ王子とクローディア王女はそれぞれ、双方が納得する形で婚姻に合意した。それに先立ち、王子の現婚約の解消も、関係者それぞれが非公式ながら合意している。今日は王城にその関係者が集まり、それを正式に確認することになっていて、公式発表こそもう少し先になるだろうが、今日のことが済めば事実上、王子とヴィルジニーの婚約は解消されることになる。


 僕のヴィルジニー攻略を妨げている、最大の障壁が、これにて取り除かれるのだ。


 もちろん、これで晴れてヴィルジニーを我が物に……と言えるわけではない。ヴィルジニーと僕の関係はかなり親密になっている、もはやほとんど付き合ってる、と評価していいとは思うが、ヴィルジニーからははっきりと、僕と交際してよいという言質を取ったわけではない。


 それでも、王子との婚約がある以上、これ以上の突っ込んだ話ができなかった。そういう状況が、これで変わるのだ。


 おおっぴらに、ヴィルジニーを口説くことができるのだ。


 思い立ってから長かったが、ようやくスタートラインに立った……それも、完全にゼロからのスタートではない。アドバンテージも、勝算もある勝負だ。


 まずはデートに誘おう。そして、関係性を少しずつ、着実に築き上げていくのだ。

 そうだ、せっかく同じ学校に通っているのだ。もう少しで新学期もはじまることだし、うまく進めれば、学園生活も楽しくなるぞ……


 そういう、ヴィルジニーとのイチャラブ学園生活などを妄想しながら食後のお茶など頂いていたら、時間はあっという間に昼前と呼べるようなころになっていた。


 このまま一日を終えてしまうのももったいない、なにかするべきことはなかったか、と考えたところで、僕はようやく、先日訪れた古書店での出来事を思い出した。


 古書店に、前世の言葉で書かれた本の取り置きを頼んだ客――魔女、などと呼ばれる人物についてだ。


 あの時は邪魔が入って、詳しい話を聞くことができなかった。

 その魔女なる人物が、何を知っているのかはわからないが、あのような本を集めているその理由は、確かめておくべきだと思った。


 僕が、その人物に直に会って、確かめるべきだ。

 そのためにはまず、古本屋の店主から、もう少し情報収集する必要がある。


 そう思いついた僕は、外出着に着替えると、屋敷を出た。


 ところが、門に向かおうと歩き出したところで、そちらの方から、馬に乗ってやってくる人物が目に入った。


 馬上にいる人物を見留め、思わず無視して行ってしまいたくなるが、そういうわけにもいかず、僕は足を止めると、盛大なため息を吐いて、馬が近づいてくるのを待った。


 そばまで来て、馬から降りたのは、シルヴァン・ドゥブレー……同級生にして、マリアンヌ・ドゥブレー侯爵令嬢の弟の、シルヴァンだった。


「おはようシルヴァン」


 挨拶すると、シルヴァンは顔をしかめた。


「もう昼だぞ」


 思わず空を見上げ、太陽の高さを確認する。


「そうだったな」

「そんなことより、ステファン、あれは一体どういうことなんだ」


 色めきだつシルヴァンに、今度は僕が顔をしかめる番。


「あれって?」

「ステファンと姉上が婚約するって、あの話だよ」


 僕が眉をひそめたのは、僕の中ではとっくに終わった話のつもりだったからだ。


「君が言ったんだぞ。義兄になることはあり得ないって」


 シルヴァンが真剣なのはわかるが、僕の方はどうしても、ウンザリした顔を隠せない。


「説明しろよ。なんだよその顔は」

「なぜわざわざ僕のところに? マリアンヌ様に聞けばいいだろ」

「姉上は……」


 僕の当然の指摘に、シルヴァンは力なく言った。


「何も教えてくれないんだ」


 僕は思わず、鼻で笑ってしまう。


「だったら、知らせる必要はないってことだろ」

「姉上の婚約話だぞ? 僕が知らないってこと――」

「あるよ。君はなんだ? マリアンヌ様のパパか?」

「そういう言い方」

「ああ、すまん。あまりに馬鹿げた質問で、ウンザリしてたんだ」


 僕はまったく申し訳なくなさそうに謝った。


「ただの噂だ。事実無根」

「だったら、どうしてそんな噂が?」

「歓迎会に二人でいたせいだろ」

「しかし、この話を僕にしたのは――」

「おい、いいかシルヴァン、よく考えろ」


 僕は失礼を承知で、その顔に指先を突きつけた。


「仮に、仮にだよ? 僕とマリアンヌ様が婚約するとしよう。その時に、僕、そしてマリアンヌ様の双方が、そのことを君に秘密にすると思うか?」


 自分で言っておいて、それはそれで、やっぱり秘密にしそうだな、と思った。

 目を細めてジト目で僕を見たシルヴァンも、そう思ったのかもしれない。


 と、そこに、馬の走る軽快な足音が響き、僕たちのやり取りは中断する。

 門の方から、新たに馬に乗った人物が現れ、僕たちはそちらの方に目を向けた。


 相当走らされたのだろう、鼻息荒い馬から飛び降りるようにしたのは、意外な顔――デジール公爵家の執事、ベルトラン氏だった。

 僕は、頭を下げた公爵家の執事が、きっちりとした訪問着であることに気がついた。


「ベルトラン殿、いかがなされました」


 挨拶もそこそこに訊ねると、彼は先客のシルヴァンに頭を下げてから、僕へと向き直った。


「約束もなしに突然の訪問、大変、失礼仕ります。ステファン殿に、どうしても急ぎ、お伝えせねばならぬことがございまして」


 察したシルヴァンが、その表情こそ多少不満そうだったが、話を聞く気はないとばかりに、手綱をひいて馬と共に移動し、それを待って、ベルトランは顔を近づけ、潜めた声で言った。


「本日、ヴィルジニーお嬢様とフィリップ王子殿下の婚約を正式に解消するため、主ともども、王城に上っておりますが」

「ああ、聞いております」

「その、会合の席上で、ヴィルジニー様が……婚約の解消を、承服致しかねる、とおっしゃられまして」


「…………は?」


 僕は思わず、細かい瞬きを繰り返した。


「えっ?」


「お嬢様は、フィリップ王子との現婚約の解消を拒否する、と」


 ベルトランは言い直した。


「えっ……なぜ?」


 まったく予期しない言葉に、僕は、その意味をすぐに理解できなかった。


 ヴィルジニーが、婚約の解消を、拒む? この後に及んで? まさか、そんなことが。


 悪い冗談だ、と笑おうとした僕に、真剣、深刻な目で、ベルトランは言った。


「現在、王城にて公爵が説得に当たっておりますが……わたくしは主の命を受け、急ぎステファン殿に事態をお伝えするため、参った次第です」


 そして、困ったように首を傾げた。


「公爵も、婚約の解消はお嬢様の希望でもあり、この会合は形式的なものになると考えておりましたので、事態に困惑しております。ステファン殿であれば、理由がお分かりになるのでは、と」


 僕はベルトランには答えず、少し離れたところで待っていたシルヴァン――彼が引いている馬へと走り出していた。


「シルヴァン! 馬ぁ! 借りるぞ!」


「え? ええっ?」


 戸惑った返事を返したシルヴァンだったが、僕の剣幕に恐れをなしたか、僕が突き出した手に向かって、握っていた手綱を放って寄越した。


 掴むと、走ってきた勢いを利用して、一気に馬へとまたがる。


 鼻先を返すと、ベルトラン氏もすでに鞍上で、手綱を引いていた。

 彼は僕の視線に頷きを返し、門へと向けて馬を駆けさせた。

 それに続けと、僕も馬を加速させる。

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