110. 王女の指名
「高山市? 飛騨高山の?」
「知ってます? あそこ、標高600メートルあるんです」
そう言った彼女は、自嘲気味に笑って、首を横に振った。
「もちろん、それでどうにかなる、なんて、思ってるわけじゃありません。ただ、両親を安心させたいっていうだけ」
彼女はその視線を遠く、窓の外へと向けた。
「年寄りには、わからないんですよね、そういうの」
「テレビで言ってることが本当かなんて、わからないよ」
僕が陰謀論とかのことを言っているわけではないとわかる彼女は、そういう僕の言葉を、面白くなさそうに笑うのだ。
グラスの中で、溶けた氷が音を立てる。
夕方のコーヒーチェーン店は、出入りする人も多く、気まずい雰囲気でテーブルに差し向かいで座る男女に、気を留める者などいない。
黙ってしまった彼女に、僕はかける言葉を持たず、アイスコーヒーが薄まるのを待つに任せた。
「そろそろ行きます」
やがて、そう言った彼女。席から立ち上がると、座ったまま顔を上げた僕を見下ろした。
「もう、二度と会えないでしょうけど、お元気で」
彼女が立ち去っても、僕は席を立つことができず、そのまま呆として座り、しばらく、カフェの喧騒に身を任せた。
すっかり暗くなった宰相執務室、その応接ソファで目を覚ました。
夢を見ていた。わけのわからない夢だった。
寂しい、別れの夢だったように思える。
そういえば、夢に出てきた女性、学園で働くメイド、セシルの顔をしていたように思える。
「似ているのかな、彼女」
そんな言葉が自然に口から出て、僕は首を傾げる。
このような、前世の記憶と思われるような夢が、本当に印象通りのものなのか、それとも僕の脳が、そこにある記憶で再構成しただけのただの夢、夢想なのかは、わからないのだ。
少なくとも、この世界に、
僕は、夢で見た女性の顔を思い出そうとしたが、一秒ごとにその記憶が薄れていくようで、本当に彼女がセシルの顔をしていたのか、それとも単に、僕が周囲の人間から雰囲気の近い人間の顔を思い出してしまっただけなのか、わからなくなる。
僕はそういう思考を無駄なもの、として頭から追い払おうと首を二、三度、振ると、大きな窓の外へと視線を向けた。
陽は、すでに沈んでしまったのだろう。空は赤から濃紫へのグラデーションとなっていて、ずいぶん長いこと眠ってしまっていたのだと、そこでようやく気づく。
と、事務室側の扉が開いた。
入ってきたのは我が父で、彼は薄暗い部屋の中に誰かがいるとは思っていなかったようで、ぎょっとした顔をした。
「ステファン――まだいたのか。いや、ちょうどよかった、か」
「ずいぶん遅かったですね。昼食会がそれほど盛り上がりましたか?」
「白熱したのは会談の後の方だ。おまえに話がある」
「はなし?」
僕は首を傾げた。僕に関係がある話などがされたはず、ないと思ったからだ。
「――明かりぐらいつけろ」
父が自ら、執務机そばの照明に火を入れるのを見て、僕も自分が腰掛けていたソファのそばのランプに火をつける。
明かりに照らされたソファと、その前の低い応接テーブルには、隣の事務室から借りた資料が散乱していた。その有様を見て、一瞬、顔をしかめた父は、次には、それらの資料が何なのかわかったようだった。
「クローディア王女と会ったか?」
頷いた僕は、開きっぱなしだった冊子を拾うと、閉じる。プレスコット情勢に関するレポートだ。
「話をしたか?」
「挨拶程度です」
「本当に?」
「なぜです?」
「どうして最新のプレスコット情勢に興味が?」
僕は手にしたままだったファイルをテーブルに置くと、肩をすくめてみせた。
「父上が戻るまでの、時間つぶしに。自分が不勉強だったことも思い出したので」
「フムン」
宰相は、自分の椅子へと腰を下ろした。高価であろう椅子が、ぎしりと音を立てる。
「それを読んだなら、我が国とプレスコットの現状が、わかるな?」
僕は曖昧に頷く。そういう質問をされると思って読んだわけじゃなかったからだ。
「たぶん」
「説明してみろ」
僕は、この分厚いファイルの中身を? 正気で言ってる? とジェスチャーで示したが、父に視線で促され、少し考えてから口を開いた。
「プレスコットで見つかった新しい石炭鉱脈が、政情不安を招いているとか。周辺国が皆、そこから出る石炭を狙っている。一方のプレスコットは、これを外交と国力増強に利用したい」
要点だけ言ったわけだが、どうやら正解だったらしい。父親は、難しい顔のままだったが頷いた。
「それほどのものですか? その、新しく見つかった石炭、というのは」
疑問を口にすると、父はもう一度、頷いた。
「素晴らしく高品質だ。火はつきにくいが、燃焼時の臭いと煙が大変少ない」
石炭、と言われても、僕には大した知識はない。
この世界では、製鉄やガラス製造、登場したばかりの蒸気機関に使われ始めているようだが、おそらく多くの一般人にとって、従来のものより火力の強い燃料、という認識でしかない。
前世の知識でも、思い付くのは蒸気機関車ぐらいのもので、乗ったこともないが、窓を開けたままトンネルに入ると乗客の顔が真っ黒になるほどの黒煙を出す、というイメージはあったから、その臭いや煙が少ないというのであれば、確かに使い勝手が良さそうだとは思う。
臭いや煙が少ないというのは、つまり不純物が少ないということだ。であれば、同量辺りの発するエネルギー量も大きいだろう。そう考えると、皆が欲しがるというのもわかる。
「プレスコットとしては、この炭鉱から取れる石炭を外国との取り引きに使いたいわけだが、その一方で、軍事力に勝る周辺国がこの炭鉱を狙って侵攻してくることを恐れている。小国であるプレスコットが短期間で強力な軍隊を整えるのは不可能だ。そこで、強力な軍事力を備える我が国と安全保障条約を結びたいと考えた。我が国としても、高品質な石炭の安定供給が約束されるなら、国益にかなう」
要するに、プレスコットは我が国をボディガードとして雇いたいわけだ。支払いは石炭だ。
周辺国と我がアレオン国の関係は良いし、軍備も充実しているアレオン国が軍事同盟を結んでいるとなれば、現実問題としてちょっかいをかけてくる国はいないだろう。そのような安全保障条約を結んでも、実際に戦争になる可能性が低い。となれば、部隊をいくつか駐屯させたとしても、それで次世代燃料が手に入るのなら、我が国としてはお得だと言える。
「では、我が国としても前向きに考えているんですね?」
「そうだ。石炭の埋蔵量は、かなり多量と見積もられている。うまくすれば我が国から炭鉱労働者も送り込めるだろう。採掘技術の習得も見込める。せいぜい、末永いお付き合いをよろしくしたい、というところだ」
父の言い回しに違和感を感じながらも、頷いてみせる僕。
「揉めるようなことがあるようには、思えませんが」
大枠では合意しているから、王女様の訪問などということができるのだ。閣僚が議論を白熱させる段階は、とっくに終わっていると思うのだが。
「そう。お互いの要求ははっきりしている。あとは細部を詰めるだけだ。ところが――食事の後、場所を変え、陛下と王子が離席して行われた会談の席で、先方の外交官が言い出したのだ」
父はたっぷり間を開けたが、もったいぶったわけではなさそうだった。
「両国間の関係をより強固なものとするため、クローディア王女殿下を、アレオン王家に嫁がせたい、とな」
僕は無表情を装ったが、心の中では両手を握ってガッツポーズしたい気分だった。
アレオン王家の三人の王子のうち、上の二人にはすでに妃がいる。独身なのは、我らがフィリップ王子だけだ。
つまり先方の申し出とやらは、自動的に、クローディア王女とフィリップ王子を結婚させたい、という意味になる。
「では、フィリップ王子と?」
念の為に聞いて見ると、宰相はやはり頷いた。
「いまや重要な同盟国となったプレスコット王家から王女殿下を迎え入れる、となれば、第三王子の正妻の座は適切だろう。ヴィルジニー嬢との婚約解消の理由としても、十分だ。思わず、同席していたデジール公爵の方を見てしまったが、閣下も同じことを考えたんだろうな」
会談の場だ、政治家である二人がとっさにそうしてしまった、というのは考えにくいが、気づかれぬようこっそり表情を伺おうとして、目が合ってしまった二人の姿を想像してしまう。
僕とヴィルジニーのことを歓迎
もちろん、僕にとっても。まさに棚から牡丹餅だ。二人をどうやってくっつけるか考えていたところなのに、自動的にそうなってくれるとは!
しかし――内心で狂喜乱舞する僕とは裏腹に、父は、浮かない表情で続けた。
「かといって、事情は他の誰も知らんのだ。その場で
真っ当な受け答えであると思うが。
「すると、王女が口を挟んで、無理に王子と、とは言わない、アレオン王国の上級の貴族の男子であれば、両国の関係を強固にするという目的は十分に果たせる、と言い出した。
そして……わたしの目を見て、な」
父はなぜかそこで言葉を切ると、ため息など吐きながら僕の方を伺うようにして、続けた。
「宰相殿のご子息ではいかがでしょう、などとおっしゃるのだ」
僕は、父の言葉の意味がすぐにはわからず、首を傾げる。
「えっと――それは、どういう……?」
父は僕の反応に、呆れたような顔をして、言った。
「クローディア王女は、政略結婚の相手に、ステファン、おまえを指名したんだよ」
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