105. 宰相執務室
宰相執務室は、事務室側から入る場合はノック不要、というルールがあった。いちいちノックされて返事をするのが億劫だから、などというのが理由だ。たとえ秘書や事務官であっても聞かれたくない話をするときは、入室禁止の措置を取るのだ。
そうしようとしても、事務室の人間からは誰にも、何も言われなかったので、僕はいつもどおり、ノックせずに扉を開けた。
執務室には、部屋の主である宰相、つまり僕の父、ファビアン・ルージュリーの他に、先客がいた。
ちょうど、話を終えたところだったらしい。二人は立ち上がりながらこちらを向き、僕は振り返った客が、知っている人物だったことに驚いた。
「ステファン様。ごきげんよう」
マリアンヌ・ドゥブレーは、僕の方へと向き直ると、優雅に会釈した。
僕は思わず、室内を見回す。
国政において、国王に次ぐ責任者の執務室だ。長方形の部屋はかなり広い。執務机のほか、高価そうな応接セットなども置いてあるが、立ったままで良ければ二十人ぐらい入れての会議だってできそうな部屋は、形状こそ違うが、
その広いスペースには、他に誰もいなかった。
つまり、父とマリアンヌは、ここで机を挟み、二人っきりで話をしていた、というわけだ。
「マリアンヌ様――先日はどうも、お世話になりました」
僕が頭を下げると、マリアンヌはニコリと微笑んだ。
「こちらこそ、お世話になりました」
それから部屋の主に向き直ると、今度はスカートの裾をつまんで膝を曲げた。
「それでは宰相閣下、失礼いたします。どうか、良いお返事をいただけますよう」
曖昧な返事をした宰相を気にした様子もなく、マリアンヌは、僕が入ってきた扉から出ていった。
扉が閉まるのを確認してから、僕は父へと振り返った。
「なんです?」
疲れた様子で自分の椅子へと腰を下ろした父は、僕の問いには答えなかった。
「今日はどうした?」
「……事前に、手紙で知らせたはずですが」
バカンスを終え王都に戻ってからこっち、父は自宅には戻らず、顔を合わせるのははじめてだった。
家の者から、仕事が忙しく、家に戻れるのがいつになるのかわからない、と聞いたのだ。
過去、仕事が忙しくなると、一ヶ月、二ヶ月という単位で戻らないことなど、ザラだった。
モタモタしていては夏休みが終わってしまう。
それが僕が、わざわざ父親に会うために、王城まで訪れた、理由だった。
僕はこの訪問については、いま言ったように、手紙で知らせていた。
父は思い出したように、机の上に積まれた書類をいくつかめくった。
見覚えのある便箋を見つけ、「それです」というと、父はそれを引っ張り出した。
広げて、目を走らせる。
大したことは書いていない。話をしたいから行く、ということを、貴族らしく長ったらしく書いてあるだけだ。
「マリアンヌ嬢は、なにしにいらしたんです?」
マリアンヌが先ほどまで座っていた肘掛け椅子に、腰を下ろしながら言った僕が思い出していたのは、ミースのドゥブレー侯爵家の別荘で、彼女が言っていたことだ。
フィリップ王子とマリアンヌ嬢のあいだになにがあるのか。二人をくっつけたい父を諦めさせるために教えて欲しい、と言った僕に、彼女は、宰相には自ら説明する、と言ったのだ。
では、父はその答えを知ったのか。
まさか、宰相執務室に乗り込んで話をするとは思わなかった。が、マリアンヌの方はあのときの段階で、正式に訪問し、話をするつもりだったのだろう。強い抗議の意図も伝わるというものだ。
僕の手紙を「既決」と書かれた決済箱に投げ入れかけた父だったが、手が離れる前に、すでにそういう段階ではないことを思い出したらしい。手元に戻した便箋をもう一度眺め、それから丁寧に折りたたむと、机の引き出しへと入れた。
それから、僕の方を咎めるような上目遣いで見ると、もったいぶってため息を吐いた。
「上手くいかなかったようだな」
「何言ってるんですか、完璧ですよ」
僕は間髪入れずに答えた。
「マリアンヌ嬢を見事にミースの別荘に引っ張り出したんです。王子とはいい時間を過ごしてらっしゃいまいたよ。肝試し――散歩のときも、腕を組んで歩いてましたし」
「マリアンヌ嬢は、自分の結婚相手のことは心配しないで欲しい、と言っていたよ」
そう言った父は、親指と人差し指で、目の間を揉むようにした。疲れの理由は、マリアンヌのことばかりではないのだろう。
「相手は自分で見つけるから、と」
「――本当に?」
「何を知っている?」
「僕は何も知りません。本当です…………ただ――」
「ただ?」
「フィリップ王子もマリアンヌ嬢も、お互いにその気がない、ということです。いや、違うな……お互いに、なにか、結婚相手にしない理由が、あるようです」
「理由とは?」
僕は返事をする代わりに肩をすくめた。
父は唸るようにため息を吐くと、椅子を半分回し、背後の窓へと向き直った。
「マリアンヌ嬢は、卒業したらわたしの元で働きたいと言ってきた」
「……はあ? ――王城の事務職員に? 侯爵の御令嬢が?」
先ほどのジョアンナなどもそうだが、王城の職員のうち、管理・事務業務に当たるスタッフは、全員が貴族出身者だ。その中でも、管理業務は上級の、事務業務は下級の貴族に割り振られることが、通例になっている。身分構造が、そのまま職場に持ち込まれた形だ。そのほとんどが男性で、女性は少ない。王城で働く女性の大半は、メイドだ。
そんな少数派である、王城で事務職に従事する女性は、男爵・子爵・準伯爵家の、学業優秀だった三女以降による奉公であるのがほとんどだ。どれほど勉学に秀でていても、長女、次女は嫁に行って他の家との結びつきを強くする、という役割があるため、上級貴族のメイドなりになって花嫁修業するのだ。ジョアンナなどは典型的な例で、彼女は男爵家の四女だった。もっとも彼女とて、然るべきタイミングで結婚相手をあてがわれ、退職していくのだろうが。
その一方で、管理業務に就く貴族女性はいない。皆無だ。それは上級貴族の男性の仕事だとされているのだ。
貴族には、生まれながらにして役割がある。
マリアンヌであれば、学園卒業後できるだけ早く、侯爵家の利になる相手と政略結婚をするのが、その役割なのだ。だから普通であれば、職に就くことなどしない。
彼女が王城に仕事を、それも事務職を求めるようなことをすれば、人事院も持て余すだろう。
常識からかけ離れた要望だ。
だが、宰相は首を横に振った。
「わたし個人の秘書にして欲しい、と言うんだ」
思わず眉をひそめる僕。
「えっ? それって……」
つまり、宰相に個人的に雇われ、秘書をする、ということだ。政治家秘書だ。
上級貴族は、わざわざ他の上級の貴族を、個人的に秘書として雇う必要はない。秘書の仕事をさせるなら、
まさか。僕は自分の想像に、一度は苦笑いしたが――
「えっ? まさか」
父は頷き、思わず真面目な顔になってしまった僕は、息を呑む。
「ではマリアンヌ嬢は、父上の――後継者に?」
父は苦笑いして首を横に振った。
「おまえがいるんだ。彼女もそこまでは望んでおらん。そうだな、せいぜい――弟子、と言ったところか。
マリアンヌ嬢の目標は、女性初の王国閣僚だよ」
政治家になろうというのだ、マリアンヌは。
そして、王国政府の閣僚になろうと考えている。
この世界で普通、それができるのは、貴族家の男子だけだ。
この世界の常識からは、かけ離れた発想。まさに野望だ。
「じゃあ、王子と結婚しない、というのは」
頷く父。
そう、王子と結婚すれば、“王子の妃”になってしまう。
彼女はそういった政略結婚で地位を手に入れるのではなく、己の才覚で成り上がろうというのだろう。
「では――王子は知っていたのか」
「ん?」
独り言を聞き返した父に、僕は言った。
「王子は言っていたんです。マリアンヌ嬢の方が、王子との結婚を望まない、と。彼女の野望を知っていたから……」
「そうだろうな。つまり我々は、とんだ無駄足を踏まされた、というわけだ」
「そう……とも限りません。今回のことがあったから、マリアンヌ嬢は父上に考えを話す気になったのかも」
なにせ、マリアンヌの卒業までには、まだ時間があるのだ。急いで言うことではなかったはずだ。
「それで、どうされるおつもりです?」
僕の質問に、父は顔をしかめる。
「どうするもなにも……わからんよ。常識で考えればありえない、が、そう簡単に突っぱねていいものか……ドゥブレー侯爵とは、話をしてみなければな」
「侯爵閣下はご存知なのでしょうかね」
「知らんが、マリアンヌ嬢には口止めされていない。――彼女の才覚を思えば、ちょっと面白い……大変に興味深い話でもあるが」
いずれにせよ、これでマリアンヌを王子の相手にするというプランは、正式に頓挫した、というわけだ。
しかし、マリアンヌの希望が通るようなことがあれば、今度は僕との間に、違う種類の縁ができることになるわけだが……
「そういうことか」
「どうした?」
「いえ……マリアンヌ嬢、やけに僕に協力的だな、と思っていましたが」
「ふむ……はじめからわたしに取り入るつもりだったのなら、その長男のおまえに恩を売っておくのは、穏当だな」
いくらマリアンヌが優秀な人物でも、前例にないことをやろうとしているなら、後ろ盾が必要なのだ。
家柄以上に才覚で現在の地位にいる父は、確かにその役目にピッタリだ。
それにしても――僕はマリアンヌの、柔和で、模範的な貴族令嬢とも言える笑顔を思い出す。
あのおしとやかで品のある女性が、そのような野望をうちに秘めていたとは……
まったく、女はわからんし、怖い。
「それで、おまえの用件は?」
言いながら、父は時計を見た。
「すまんが時間があまりない。手短にな」
だからちゃんとアポを取ったのに……と思ったが、今更言っても仕方がない。
「王子の婚約解消の件です」
「……ああ」
父の気のない返事が癇に障るが、我慢して続ける。
「王子はこの件、未だ国王陛下に言い出せていないそうです。なにせ王子には、そのお気持ち以外に、婚約を解消する大義名分がありませんから」
父は頷いた。
「現状での婚約解消は無用なトラブルを招く、と王子も理解していらっしゃるのだろう」
「王子は、陛下が婚約の解消を許してくれないかも、と心配しております」
「それは、そうだろう。わたしが同じ立場なら、許しはしない。おまえの気持ちなど知らん、責任を取って結婚しろ、と言うだろうな。そもそも、ヴィルジニー嬢を“お気持ち”だけで婚約者にしたのは、当のフィリップ王子だ」
「……そのときも、問題に?」
父は首を横に振った。
「確かに心配する声はあったが、ヴィルジニー嬢もまだ幼かった。それに相手は公爵の御令嬢。国内に、彼女以上に身分の高い貴族令嬢がいない、ということもあるし、成長されれば落ち着かれるだろうという期待もあったのだ。それに……なにより陛下が、簡単にお認めになられたからな」
「簡単に?」
「陛下は、末っ子のフィリップ王子には甘いんだよ、昔から」
「!? では陛下は、王子が婚約解消したいと言えば、あっさりと受け入れることだってありえる?」
「それはどうだろうな」
期待を込めて聞いたが、父は難しい顔をする。
「フィリップ王子も、あの頃とは違う。真剣に国を背負っていくことを考えるべき歳だ。それなのに……ただ、したくないから、という理由だけで婚約を解消したい、などと、国王の立場では、簡単に受け入れるわけにはいくまい」
父は剃り残しを気にするように顎に手を当てた。
「それこそ、マリアンヌ嬢と結婚したいから、とでも言えば良かったのだ」
言っても詮無きことを。
「うまく……陛下が納得されるような言い方とか、ありませんかね、他のプランは」
訝しげな顔をこちらに向ける父。
「その……父上は、陛下とは長く懇意にしてらっしゃいますし。何かないかなあ、と」
父はじろり、と僕を睨んだ。
「目的がヴィルジニー嬢との婚約解消、というだけなら、なにも慌てることはない。ゆっくりと、王子にふさわしいお相手を見つけ、それからでもよいではないか」
「それは……迂遠に過ぎます」
「急がなければならない理由でも?」
「そりゃあ……そうしなきゃ、僕の方も動けませんので」
僕が言うと、父はため息を吐いた。
「まったく……いっそマリアンヌ嬢を後継者にしてしまおうか」
「はあ?」
「息子はいつまでも色恋にうつつを抜かしていて……大して歳も変わらんのに、真剣に将来のことを考えている彼女は、ずいぶん立派に見える。女性だが確かに、政治家としての素養があるのかもしれん」
「はあ……まあ、後継者とやらについては、父上の好きになさればと思いますが、色恋にうつつを抜かしているなどと言われるのは、心外です」
父は僕を睨むが、僕は怯んだりしない。
「公爵閣下のプレッシャーがあります。そうのんびりしてはいられません」
これみよがしにため息を吐いてみせてから、父は時計を見た。
「すまんが、時間だ」
「話は終わっておりませんが?」
「戻ってからでよければ、待ってても構わん」
「家に戻られる予定は、ないのですよね?」
「ない。当分、無理だ」
「では、あとでまた来ます。いつ戻られます?」
「わからんが、早くても昼食の後だ。客人と会わねばならなくてね」
言いながら立ち上がった父は、上着を取ると、そのまま僕が入ってきた扉の方から出ていった。
僕としては、国王に意見できる立場の父を上手いこと使って、陛下を婚約解消に前向きにさせたい、そういう考えだったのだが。
確かに宰相としての立場なら、この問題はできるだけ遅らせたいわけで、王子が躊躇しているのは、願ったりかなったりだろう。
王族の婚姻に関わって、干渉しているとも思われたくないのだ。
この問題、やはり、僕などが手を出せる範囲を超えているのだろうか。
わざわざ王城まで来たというのに、無駄足だったか。
早くヴィルジニーを自由にして、心置きなくイチャイチャしたいだけなのに……
ため息をひとつついて、僕はセリーズを置いてきた事務室への扉を開いた。
彼女は、マリアンヌと楽しそうに話をしていた。
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