103. 夜の浜辺で

 もしかしたら、貴族令嬢に嫌悪感がある王子に、平民であるセリーズが取り入る、というのがゲームの筋だったのかもしれない、と思いついたのは、その夜のこと。



 夕食の後、遅い時間、僕は一人、ビーチに出ていた。

 白いタープの下、ビーチチェアに陣取る。照明は、ローテーブルに置かれたランタンの、揺れる炎だけ。


 人気ひとけの絶えた夜の砂浜には、等間隔に並ぶ篝火。遠目に、そのパチパチと爆ぜる炎を眺めるのは、考え事をするにはもってこいだ。



 そういうときだ、セリーズ×フィリップ王子ルートについて、思いついたのは。


 もはや、ゲーム世界であることすら、最近は意識することが少なくなっていた。

 セリーズがジャックと落ち着きそうだということ、ヴィルジニーの破滅の心配がなくなったようだということで、僕は僕のことに集中できると思っていたからだ。ヴィルジニーとの関係構築も順調……たぶん、順調だ。


 あとは王子とヴィルジニーの婚約を解消してもらうだけ。

 そう思っていたのだが。


 簡単にはいかないのだろうか。

 王子は、そのことを国王に話す、となったとき、当然予期される反論に対し、返すすべがないように見えた。

 そのことが、二の足を踏ませているのだ。


 もはや当人たちにとって、当然不可避の婚約解消が、国王、そして王家、そこに属する第三王子の立場では、無理難題、大いなるわがままにしか見えないのだ。婚約解消、そして別の相手を探し、結婚する、という、そうなったときに当然必要とされる流れと、それによって生じ得る政治的損失を思えば、王子と、一度その婚約を受け入れた公爵令嬢としては、本人たちの気持ちなど飲み込み、既存の決定事項を甘んじて受け入れるのが当然だろうと言われれば、そのとおりなのだ。


 例えば、ヴィルジニーよりもっと、王子の妃にふさわしい御令嬢が現れて、そちらと結婚するために、婚約を解消したい、というなら?


 その理由は、国民、世論には、受け入れられないだろう。ヴィルジニーに瑕疵があるならともかく、逆に昨今はその評価を上げつつあるところなのだ。そういう相手との婚約を解消する、となれば、ヴィルジニーとデジール公爵家への不義、大変に道理に反することだと評価されてしまうだろう。新たな相手の方が利点が大きい、などということは、関係ない。


 だが、国家と王家の利益を優先する国王であれば、その方が良いとなれば、納得してくれるかもしれない。国王さえ許せば、国民に婚約解消の理由を正しく説明する必要はない。適当な理由を付けた婚約解消だけ発表して、あとはほとぼりが冷めたころ、その御令嬢との婚約を発表すればよいだけなのだから。


 王子が別の、ヴィルジニーより御身にふさわしい御令嬢と、恋をしてくれればよかったのだ。


 だが、当の王子は、そもそも女性に興味がない、などと嘯いている。

 明らかにヴィルジニーより“上”の御令嬢、マリアンヌと政略結婚をしてくれればよかったのが、こちらも理由は不確かながら、お互いにその気がない――というか、この世界をゲーム世界だと認識している僕からでは、二人がくっつかない、なにか“設定”があるのだというふうにすら見える――


 そう考えた時に、ようやくセリーズのことを思い出したのだ。


 王子の、女性に興味がない、嫌悪感すらあるという発言の“女性”が、正しくは“貴族令嬢”だった。

 現在、王子のそばにいて、それに当てはまらない存在、それがセリーズ……このゲームの主人公であり、パッケージではメイン攻略対象である王子と共に描かれていた女性だ。


 ヴィルジニーの婚約解消には、セリーズの王子攻略は、必須イベントだったのかもしれない。

 その、平民という立場を利用して、王子の女性に対する偏見を正す……などといった役割が、あったのかもしれない。


 今更、それに気付いたところで――もはや後の祭りだ。

 セリーズは、二番目の攻略対象、ジャック・フェルテとの関係を深めている。


 ゲーム的に、現在の進行度がどの程度なのか、シナリオ全体のどの程度を消化しているのかがわからない以上、確かなことは言えないが、現在の状況から方向転換させて王子とくっつけるなど、とても無理だと思える。ここまで二人には、私的な交流がほとんどないのだ。少なくとも短期間では不可能だ。


 こうなってしまえば、もはや思い付くのは、本音をぶつけること。


 王子が、自分はヴィルジニーと結婚したくない、と、その感情的な理由を、国王にぶつけるのだ。


 果たして、国王陛下は、それで納得されるだろうか。


 とてもむずかしいと思う。そもそもが、理想の結婚をできる世界ではない。

 政治的に重要な立場にある上級の貴族なら、なおさらだ。


 だいたい王子には、生涯に渡り結婚をするつもりがないわけだが、それを言ったところで、常識からして、やはり納得はされないだろう。


 そもそも僕は、国王について、その人となりを知らなさ過ぎる。僕が知っているのはおおやけの立場の陛下だけなのだ。彼がどのような思考をする人間なのか、そこから考えなければならない。こうなったら――



「立場を考えなさい、と言ったはずですが」


 ヴィルジニーの声は、すぐ後ろから聞こえた。

 考え事をしていて、接近に気付かなかった。


「考えたゆえ、このようにしているのですよ」


 ヴィルジニーはブラウスにロングスカートを合わせた、いつもきっちりしている彼女にしてはラフな格好。普段着、というか、ほとんど部屋着なのだろう。


 残念ながらその美しい顔は、不満げに歪んでいた。


「それで、このようなところに?」

「ここなら、誰にも見つからないでしょう。それに、夜の海というのもなかなかにいいものです。星空も綺麗だ」


 言いながら、僕は自分の眉間を指先でなぞる。

 ヴィルジニーは、自分の額の皺を気にする素振りをみせてから、僕が勧めた隣の椅子に腰掛けた。


「不満を表明したい時は、頬を膨らませるといいです」


 僕が言ってやると、一度は怪訝に首を傾げたヴィルジニーだったが、言われたとおりに、頬をぷくっと膨らませる。


「あっ……」

「?? どうされました?」

「それ、すごくいいです。かわいいです」


 ヴィルジニーは僕を睨むようにしたが、しかめっ面は作らず、代わりにもう一度、頬を膨らませた。


「――貴方あなたを喜ばせようと、しているわけではないのですよ」

「ヴィルジニーの気持ちもわかるし、僕も嬉しいし、最高じゃないですか」


 ヴィルジニーは、これみよがしにため息を吐いた。


「まったく、貴方という方は――」


 “このようなところ”に彼女が来てくれたのは、もちろん、事前に呼び出したからだ。御令嬢方の目を盗んでメモを渡すのも苦労した。


 招きに応じてくれないとは、思っていなかった。

 ヴィルジニーはあのとき、立場をと言った。わきまえろ、ではなく。


 つまり考えるべきは僕の立場、ではなく、ヴィルジニーの立場、だ。

 目立つところで声を掛けたりするな、話をしたいなら人目を忍べ、ということだ。


「確かに……星は綺麗ですね」


 遠く、水平線を眺めて、ヴィルジニーが微笑む。

 炎に照らされるその横顔に、僕は見とれる。


 僕が見ているのに気付いて、ヴィルジニーは呆れた視線をよこした。


「ホント……おめでたい方ね」


 せっかく来てくれたのに、機嫌を損ねられて立ち去られては困る。

 そろそろ、本題に入ることにする。


「どうも、ヴィルジニーにはご迷惑をおかけしたようで」


「まったくです」


 そんなことありません、などとは返してくれないのが、やはりこのヒトらしい。

 ヴィルジニーは両肘を抱いた。


わたくしたちが二人とも屋敷にいないとわかれば、またすぐに勘ぐられます。だって、いつ気付かれたものか」


「自室にいると思ってくれることを期待していますが、手短に済ませます――仰られるように、おおやけには未だ、フィリップ王子の婚約者である貴女あなたに、これ以上のご迷惑はおかけできません。しばらくのあいだ、は自重いたしたいと思います」


 ヴィルジニーは片眉を吊り上げた。


「そう……それだけをおっしゃるのに、わざわざ?」

「ご足労をおかけしましたが、黙ってそっけなくすれば、ヴィルジニーが寂しがるかも、と思いましたので」


「ずいぶんと、自信過剰でいらっしゃいますのね」


 彼女はフンッと馬鹿にしたようにそっぽを向いた。


「そのようなこと……あるはずがないではありませんか」

「そうですか?」

「そうです」

「こうやって、来てくれたのに?」


 ヴィルジニーは顔をこちらに向けた。その目は、いつもの皮肉めかしたものではなく……視線を真っ直ぐ、こちらに向けていた。


「なにが……言いたいのです?」


 僕はその目を真っ直ぐに見返す。


「――ここには、僕しかいません」

「……だから?」

「ですので、正直になってください――僕といっしょにいるの、楽しい、でしょ?」


 ヴィルジニーは目を逸らしたが、その表情は真剣なままだった。

 そのまま視線を、水平線の方へ漂わせる。


「なぜ、わたくしが、貴方に、正直にならなければならないのです?」


 まだ憎まれ口を叩くヴィルジニー。


 だが、今夜の僕は簡単に折れるつもりはない。

 今後、しばらくは自重する、と言った身なのだ。


「ヴィルジニーの本心、聞かせてください」

「――本心?」

「しばらくこういうふうには話ができないんですから。会えない間、安心する材料が欲しいんですよ」

わたくしが貴方を安心させる必要など……」


 一度はそう言いかけたヴィルジニーだが、何を思いついたか、言葉を探すように視線を彷徨わせた。


 それから、僕の方に視線を向け、しばらく考えるようにした後、もう一度視線を、海の方へと向けた。


「そのようなもの――わかりません」


 ヴィルジニーは、遠くにあるものを見ようとするように、目を細めた。


「癪ですが、貴方の仰られる通りなのでしょう。わざわざこうやって呼び出しに応じているのです。少なくとも、悪い気分では、ないのでしょうね」


 ヴィルジニーは目の端でこちらを伺うようにする。彼女の気持ちを知りたくてその目の色を伺おうとするが、それに気付いた彼女は、またもや視線を逸らす。


「殿方と一緒にいて、こういう気分になるのは……はじめてです。ですから、わたくしが貴方に――貴方に、感じている、この気持ちがなんなのか……わたくしには、わかりません」


 彼女はまた、こちらに目を向けたが、先ほどまでとは違い、それは鋭い光を帯びていた。


「しかし、たとえこれが恋心だったとしても――いまのわたくしは、やはり、それを口にするわけには参りません。今はまだ、わたくしは、フィリップ王子殿下の婚約者、ですから」


 わからない、と口にしながら、その言い方では、ヴィルジニーは僕に恋をしていると、認めているようなものだ。


「なにがおかしいのです?」


 僕はいつの間にか笑みを浮かべてしまっていたらしい。

 少し不貞腐れたようにするヴィルジニーに、僕は微笑む。


「いえ……かわいいな、と思って」


「そっ……そういうところです!」


 ヴィルジニーは憤慨してみせる。


「淑女に向かって、使う言葉ですか!」

「えっ、でも……かわいいので」


 ヴィルジニーは、怒りつつも照れたようにそっぽを向く。


「そのようなこと……幼いころ、父に言われたことしかありません」

「えっ、そんなこと、ないでしょ」


 再三言っているが、ヴィルジニーはとても見目麗しい女性なのだ。


 だが、公爵令嬢は首を横に振った。


「もちろん、わたくしが美しいのは事実ですから、この美貌を褒めてくださる方は、いくらでもいらっしゃいます。ですがそれは……あくまでも、公爵令嬢に対する、社交辞令」


 ヴィルジニーは頬を赤らめたまま、拗ねたような顔をこちらに向けた。


「でも、貴方のような、そんな……そんな言い方――卑怯ですわ!」


 そして、真っ赤にになった頬を、怒ってるんだぞ、というように、膨らませる。

 上目遣いで、僕を睨む。


「そういう態度を取られたら、どうしたって――意識してしまうではないですか!」


「それは……僕としては、望むところであるわけですが」


 悪びれもせず言ってやると、ヴィルジニーは呆れたように顔を背けた。


「まったく、勝手なお人ね!」


 その、拗ねたような横顔も、とてつもなく可愛く感じられて、僕は思わず、その名を呼んでしまう。


「ヴィルジニー」


「……なにか?」


「あの……キス、しても?」


 驚いたように振り返った彼女は、僕が身を乗り出し気味なのを見つけ、わずかにだが怯んだ様子を見せる。


「いっ、いいわけ……ないじゃありませんか!」

「ダメですか?」

「ダメです!」

「じゃあ抱きしめるとか」

「貴方……わたくしの話、聞いてらっしゃいました? わたくしはまだ王子の――」

「聞いてはいました。でも、今なら誰も見てません」

「そういう問題ではございません! わたくしは――」


 ヴィルジニーは視線を彷徨わせ、それから続けた。


「いくら決まっていることとはいえ……王子を裏切るところを、貴方に見られたくありません」


 頬を叩かれたような気分。

 僕はゆっくりと、乗り出し気味になっていたその身を、椅子へと戻す。


 ヴィルジニーは……もしかしたら僕以上に、僕との関係を大事にしようとしているのかも。


「大変……失礼しました。迂闊に過ぎる言動、お詫びします」


 僕が言うと、ヴィルジニーは両肘を抱え、ホッとしたようにため息を吐いた。


「わかれば、いいのです」


 申し訳なくて、言葉が出ない僕。

 実際、もう用は済んでいるわけで、ヴィルジニーは、いつ行ってしまってもおかしくなかった。


 そのまま黙って海を眺めていると、やがて、ヴィルジニーのため息が聞こえた。


「仕方ありませんわね」


 ヴィルジニーの言葉に、見ると、彼女はこちら側の手を、僕の方へと伸ばしていた。

 意図を測りかね、僕はその長い指先を見て、首を傾げる。


「あの……これ、は?」


 ヴィルジニーの顔を見ると、彼女は、またもや赤く染めた顔を、不機嫌そうに背けた。


「殿方に、手を握らせることぐらいはあります。このぐらいなら、いいでしょう」


 僕だって、何度だって彼女の手を握ったことはある。昨日だって。


 でもこういうふうに……ただ触れ合うためだけに、彼女が手を伸ばしてくれたことは、はじめてだった。


 僕はゆっくりと手を伸ばし、彼女の手に触れる。

 すると彼女は、僕の手を握るようにしてくるので、僕も自然に、握り返した。


 彼女の顔を見ると、彼女も僕を見ていた。

 しばし見つめ合う形になるが、何かに気付いたような表情をしたヴィルジニーが、恥ずかしげに視線を逸らす。僕は彼女の視線を追うようにして、夜の海に目を向ける。


 そのまま、お互いに手を繋いだまま、海を眺める。


 これがおそらく、今、ヴィルジニーが許せる、最大限の触れ合いなのだ。


 ヴィルジニーの気持ちが確認できた、今。


 最後に必要なのは、王子とヴィルジニーの、婚約解消。

 なんとしてもそれを……早期に実現しなければならない。

 僕は海を眺めながら、そういう気持ちを新たにする。


「そういえば、昼間にやったあれ……スイカ割りでしたか?」


 ヴィルジニーの視線が砂浜を向いているのに気づく。そういえば、スイカ割りをやったのがあのあたりだった。


「妙な遊びを知っていらっしゃるのね?」

「ああ、ええ、まあ……ヴィルジニーも、楽しんでらしたようですが?」

「まあ……それなりに盛り上がったことは、否定しませんが……それにしたって、四つはやりすぎでしょう」


 本当に盛り上がって、スイカを四つとも割ってしまったのだ。当然、食べきれなかったので、別荘の使用人にも配って、消化を手伝ってもらった。


「貴方には……いつも驚かされます」

「……そうですか?」


 僕が問い返すと、ヴィルジニーは細めた目をこちらに向けた。


「貴方がそのような方だとは……以前には、想像も付きませんでした」

「どういう人間だと思ってたんです?」


 彼女は意地悪な笑みを浮かべた。


「真面目で、いつも冷めてて、偉そうで。面白みのない、つまらない人間だと思っていました」


 そう言われると、そうだったかもしれない、と思うのだ。


「では、今は?」

「今は――そうですね」


 彼女は考えるように僕の顔を見たが、ほどなく、恥ずかしげに視線を逸らした。


「そうですね……ちょっとは、まあまあ――その……人間的な魅力もあることは、認めてもよろしくてよ」


 彼女の言い様に、僕は苦笑するしかない。


「恐れ入ります」


 その後も僕達は、手を繋いだまま、とりとめのない話を、遅くなるまで続けたのだった。

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