95. 危険地帯
別荘の応接間は貴族の屋敷によくある雰囲気だったが、リゾートであることを考慮してか、海を臨む広い窓がある、居心地のいい部屋だった。もっとも、日が落ちてしまったこの時間では、海は真っ暗で、砂浜に等間隔に灯された篝火の明かり以外、何も見えなかったが。
窓を開けると、気持ちの良い海風とともに、波の音が届く。
「御令嬢方は?」
聞いたのはフィリップ王子。
応接間にはすでに、今回参加の男性陣がすべて集まっていた。すなわち、王子、シルヴァン、僕、ジャック、そしてリオネル(家柄順)だ。
「二階のレクリエーションルームを使うという話です」
「なるほど。では邪魔は入らないな」
そう言った王子は、壁一面、酒瓶がびっしりと並べられた棚の前に立つと、一瞥して感嘆の溜息を吐く。
「ベルトワーズ伯爵のコレクションか、素晴らしいな。 ……とはいっても、有名どころ以外は価値がわからないが。飲んだらヤバそうなのはどれかな?」
「左側の棚がレアな年代物だということで、そっちは勘弁して下さい」
高価くても買えるものなら補填は可能だが、そもそも希少だったり、市場になかったりするものは、いかに王族であろうと入手は困難。
そういう常識をわきまえた王子で助かる。
「さて、どれにしようか。伯爵家のコレクションなら、半端なものはないと思うが」
「誰か呼びますか?」
「いやいや、こういうのも、この遊びの醍醐味だろう」
王子は適当に、一本の瓶を取った。ブランデーだ。
「お注ぎしましょう」
「いや、いいから。リオネルも座っとけよ」
そう言った王子はリオネルが並べていたグラスに、手ずから酒を注ぐ。
「ほら、シルヴァン」
「殿下自ら、恐れ入ります」
「そういうの、いいから。無礼講だろ、ここでは」
「乾杯します?」
「そういうのじゃなかっただろ、これは」
全員に酒が行き渡ると、王子もグラスを持って、手近なソファに腰を下ろした。
「どうだ? 美味い酒だったか?」
この若い身体の、未だ酒に慣れていない味覚では、判断がつかない。
「美味いかどうかはわかりませんが、高い酒の味がします」
僕が言うと、王子は愉快そうに笑った。
「それにしても、ジャック殿には驚きました」
しばらく飲み、雑談して場が落ち着いたところで、そう言い出したのはシルヴァン。
見ると、顔がだいぶ赤らみ、まあまあ酔っ払ってる様子だ。
「……なにが?」
上級生であるジャックと、家柄的にはずっと上のシルヴァン。微妙な関係の二人だが、昨日今日とでだいぶ打ち解けた様子で、すでにここまで、かなり砕けた接し方をしていた。
「ジャック殿といえば、常に連れてる女性が違う――失礼」
言いかけて、酔った頭でもさすがに失言だったと気付いたのだろう。
しかし、ジャックは笑った。
「いいよ。事実だろ」
だが、シルヴァンは首を横に振る。
「事実……だった、と言いたいのです。いえ、
「一人の女、それも平民の女の尻を追っかけてるなんて、意外だった?」
ジャックは笑みを浮かべたが、僕、リオネル、そして王子は、押し黙って見守るのみ。
グラスから一口含んだジャックは、笑みを自嘲気味なものに変え、それから口を開いた。
「確かに、らしくないと思われるだろう。だけど、セリーズ、な。あの女は、他の女とは違う。マジになる価値がある女だ……そう思う。こんな気持ちになるなんてな、自分でも不思議なんだ。フッ……このジャック・フェルテがな。おかしいだろ、笑っていいぞ」
「笑ったりはせぬよ」
言ったのは王子だった。
「ジャック殿がそういうつもりであることがわかって、安心した。特待生である彼女は、我が王家にとっても重要な人物。だから、実は少々心配していた」
王子は意地悪な視線でジャックを見た。
「他の御令嬢方にしたように、テキトーに遊んでこっぴどく捨てる、というようなことをされては、かなわんと思っていたところだ」
苦笑を返すジャック。
「これまでの俺は、そのように言われても仕方のない振る舞いをしていた、と認めます。しかし、ことセリーズに対しては、そういうつもりはありません。もっとも、向こうがどう思っているかは、わかりませんが」
「だいぶ、仲睦まじい様子でしたが?」
シルヴァンの言葉に、ジャックは首を振った。
「なかなか、簡単に心を許してくれない。今までで一番難しい相手だと感じているよ」
「平民のセリーズ嬢が、子爵家の長男から言い寄られれば、是非もないと思いますが」
シルヴァンの言葉に、ジャックは笑う。
「逆だ。むしろ、貴族であることが裏目に出ている。俺のような人間が、平民の娘を本気で相手にするとは、思ってないんだ。普通だったら物怖じするだろうに、俺に対してはまったく遠慮がないし」
ジャックの受けた印象は、僕の感じていたセリーズ像とは少し違うようだが……関係性の差だろうか。
その関係性こそが、ジャックに興味をもたせた理由かもしれない。
「ふむ。まあ、彼女の学業や学校生活に影響がないようにしてくれ」
「努力します」
王子にそう答えたジャックだったが、ふっと笑う。
「それにしても、学園で唯一の平民であるセリーズに、実は怖いお兄さんが二人もいて、目を光らせているとは。彼女と付き合うというのも、なかなかにスリリングだな」
もう一人の“お兄さん”が僕のことだと察した他の三人が、無言でこちらを見る。
僕は視線を無視してグラスに口をつけた。
「そういうシルヴァン殿は? 今日はずっと、リリアーヌ嬢と一緒だったようだが」
ジャックの言葉は初耳で、僕は思わずシルヴァンを見る。
シルヴァンとリリアーヌ。どちらも上級貴族で以前から面識はあったが、シスコンの
昨夜はそういう二人のマッチングで、もちろん肝試しの間だけ、ということだと思っていたのだが。
「ずっと?」
思わず聞いた僕に、ジャックは面白そうに頷く。
「わざわざ、朝早くからいらっしゃって、そのあとは昼ごろまでずぅっと」
視線を受けたシルヴァンは、照れたように笑う。
「いや、リリアーヌ嬢とは……あまり話したことがなかったが、接してみると――なかなか、魅力的な御令嬢だし」
「確かに、リリアーヌはな」
王子はグラスを傾けながら言った。
「いい脚をしている」
フィリップ王子のフェチ発言は珍しい。三人だけでなく、僕も驚いた。
「そっ、そうなんですよ!」
力強く同意するシルヴァン。
「普段から、制服のスカートも短めですが」
「あれは良くありません。貴族令嬢としてはもう少し慎み深い方が」
「リオネルは厳しいな。ああいうのは、黙って拝んでおけばよい。少なくとも本人は、あれが武器になるとわかって、ああいう格好をしている」
「おっ……王子も、拝んでらっしゃる……?」
「こっそりとな。ああいうアピールをされて、見ないようにするのは大変だ」
僕は王子の言葉に首を傾げる。付き合いは長いが、彼がエッチな目で御令嬢を見ていたことなど、一度も気付いたことがない。酒の席でのリップサービスだろう。
「そうすると、シルヴァン殿は、リリアーヌ嬢のお御足に惚れた、というわけか?」
わざとらしく言ったジャックに、シルヴァンは慌てて首を横に振る。
「そっ、それだけではありません!」
「しかし、今日はあの方の水着姿、堪能されていたようだが」
「それは否定しませんが……」
シルヴァンは貴族の子息らしくない仕草で、後頭部を掻いた。
「あの方とお話しをして、
えっ? ちょっと、これってマジな感じのヤツなの?
顔を赤らめた旧友を見て、驚く僕。
「……リリアーヌ嬢の方は、どういう様子だったのです?」
僕の問いにこちらを見たのはジャック。
「まんざらでもなさそうだった。傍から見ていれば、お似合いのカップルという感じだったな」
マジか……
僕は思わず、顎に手を当ててしまう。
リリアーヌとシルヴァンが、ねぇ……
「リオネルはどうなんだ。キミの方も、今日はベルナデット嬢と一緒だっただろう」
王子の指摘に、慌てた様子を見せるリオネル。
「いえっ、
「言い訳の必要はない。あの胸に迫られたら誰だって鼻の下が伸びる」
「あの顔とあの体格であの胸ですからね。仕方ないです」
王子とジャックが訳知り顔でうなずき合う。
赤面するリオネル。
「そっ、そういうつもりでは……」
「とぼけなくていい。昨夜は押し付けられて喜んでたし、今日だって見てたのを知ってる。傍から見れば、やはり仲睦まじいカップル、そのものだったぞ」
どうやら、僕がいない午前中、彼らは御令嬢方の水着姿をたっぷり楽しんだようだ。
それにしても、リオネルが人並みに、同世代の女性に興味を示すとは――僕は、少しばかりホッとする。
いつだったか、二人で“喫茶店デート”みたいになってしまったときに、僕がはっきりと性的指向を示してから、リオネルは僕の前で顔を赤くするようなことはなくなっていた。
関係性は、以前と変わったようには思えない。変わらず、色々と協力してくれている。今回のように、遊びの誘いにも乗ってくる。
いわゆる、“フラグを折った”という状態に持っていけたのだろう。
お互いの親密度自体は変わっていないが、恋愛関係に発展するような要素が、失われたのだ、おそらく。
このままベルナデットとくっついてくれればいい。僕は、昼間に見た二人の仲睦まじい様子を思い出した。長身のリオネルと小柄なベルナデット。ヴィジュアル的には大変お似合いだ。
ベルナデットもリリアーヌ同様、確かに悪役令嬢の取り巻きで、性格が良いとはちょっと言えないが、きちんと教育された貴族令嬢で、意外とこの二人の相性はいいように思える。リオネルが、童顔巨乳のああいうタイプが好みだとは思わなかったが。
「仲睦まじい、といえば」
発したのはリオネル。
視線を向けると、彼はこちらを真っ直ぐ見ていた。
「ステファン殿とヴィルジニー様も、ずいぶんと仲睦まじいご様子でしたね」
全員の視線がこちらを向いていることに気づく。
彼らの視線が、どことなく面白そうな色を発しているのを見て、僕はようやく、自分がとてつもなく危険な場にいることに気がついた。
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