93. 嵐の終わり

 三十分ほど続いた嵐は、ようやく風が収まりつつあった。


 望外の、この至福のときもそろそろ終わりか。


 僕はヴィルジニーを抱きしめる両手に更に力を込める――などということはできなかったが、せめて神経を集中させて、彼女の感触を脳裏に刻もうとする。


 それにしても、それぞれの両手のすぐそばに、彼女のふくよかな胸の膨らみがあるのだ。触れないようにしていても、その気配を肌で感じる、という距離感。

 これほどの密着があっても、これが触れなかったというのは、至極残念。


 せめて――


「ヴィルジニー」

「……なんでしょう?」

「この……首筋に、キスしていいですか?」

「はあ!? いいわけないじゃありませんか!」

「ダメですかね」

「ダメです!」

「ちょっとだけ。唇当てるだけ」

「きっ……訊かれてしまっては、良いと言えるはずがないじゃないですか」

「あっ、黙ってしとくべきでしたかね」

「やめなさい! 怒りますよ?」

「……わかりました、我慢します」

「あの……そんなことより、ステファン?」

「なんでしょう……」

「先ほどからなにか……当たっているようなのですが」

「えっ? あー……ああ、気のせいです」

貴方あなた、まさか……変なことばかり考えているから! 無心でいるって約束だったじゃないですか!」

「約束……しましたかね?」

「しました!」

「でも……仕方ないです。貴女あなたを抱きしめているのだから、こうなるのは当然です。むしろよく今まで我慢したと褒めて欲しいぐらいです」

「なにを馬鹿なことを……いいから早く引っ込めなさい!」

「引っ込めるなど、ご冗談を。これは無意識というか、制御できるものではなく、生理反応ですので」

「知ったことですか! だったら身体を離しなさい!」


 そのように言いながらもヴィルジニーは、自分から身をよじるなどして逃げようとはしなかった。

 僕はおとなしく、彼女を抱きしめていた両腕を離した。


「失礼いたしました」

「本当です!」


 彼女は怒った口調でそういいながらも、その身を僅かに離して、密着しない程度の距離に移動しただけだった。


「まったく……信用などしたのは間違いだったでしょうか」

「申し訳ありません。この時間ももう終わるのだと思うと、つい」

「えっ?」


 ヴィルジニーは、僕の視線が外に向いていることに気づく。


 雨はかなり弱まっていて、雨雲の切れ目から青空も見えつつあった。


「寒くないですか?」


「――大丈夫です」


 雨に濡れた身体は、すでに概ね、乾きつつあった。

 ヴィルジニーに続いて、岩陰から出る。


 雨はまだパラついていたが、これなら帰るのに支障はなさそうだった。

 時間的にももう昼ごろだ。


 ヴィルジニーに手を貸して、岩場を乗り越える。


 反対の砂浜に降りたヴィルジニーは、僕の手を振り払って、さっさと歩き出した。

 後を追うように続く。


「貴方、もしかして、あの雨を楽しんでらした?」


 あの雨、などと表現したヴィルジニーに、僕は苦笑して頷く。


「否定できませんね」

「まったく……わたくしには、命の危険があるようなことを言っておいて――もしかして、あれも嘘なのですか?」

「まさか! 低体温症っていうのは、本当の話です。その話をしたころは、本当に危険を感じてたんですよ。楽しめるようになったのは、大丈夫そうだと確信できた、そのあとです」


 振り返ったヴィルジニーは、不審げな目を僕に向けたが。


「でも、ちょっと楽しかったでしょ?」


 僕が訊ねると、ヴィルジニーはふいっと前を向く。


「――まあ、否定はしません」


 返事は微かなつぶやきでしかなかったので、僕に聞かせるつもりはなかったのだろう。


 そのまま数歩歩いたところで、ヴィルジニーは急に立ち止まった。

 驚いて足を止めた僕の目の前で、身体ごと振り返る。


「今日のことは、緊急事態ゆえ、選択したことです。勘違いなさらないように」


 僕はつい、微苦笑を浮かべてしまう。


「わかっております」

「むしろ、忘れなさい、今日あったことは」

「それは難しいです」

「誰にも言わないように」

「もちろんです」


 ヴィルジニーは不満そうな表情ながらも、言いたいことは言った、とばかりに、再び身を翻し、歩き出した。


 僕は、その揺れるサイドポニーを見ながら、後に続く。


 雨はすっかり上がり、あの嵐が嘘のように、雲が去り、また青い空が広がりつつあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る