92. 岩場の洞穴
そのまま、泳いだりじゃれ合ったりして、どれほどの時間が経っただろうか。
ふと、辺りが暗くなっていることに気付く。時間的にはまだ昼前のはずで、空を見上げた僕は、先ほどまで真っ青だったはずの空が、いつの間にか分厚い雲に侵食されていることを知る。風も強くなっていた。
遠くから聞こえるのは、雷鳴だ。
「えっ、なに?」
音に驚いた様子のヴィルジニーの腕を掴み、僕は言った。
「雨が降りそうです。上がりましょう」
ところが、天候はそこから急変した。
まだ海に足を着けているうちに雨が降りはじめ、波打ち際にたどり着くころには辺りは更に暗くなり、雨粒も大きくなっていた。素肌に当たると痛いぐらいだ。
手を取って、藁葺のパラソルの下に駆け込む。
雨は更に激しくなり、恐ろしいほどの勢いでパラソルを叩いた。
そればかりか、強い横風が、雨粒を傘の下にいる僕たちにまでぶつけてくる。
帽子はすでに、風に飛ばされてしまっていた。
ヴィルジニーはかろうじて引っかかっていたビーチガウンを手に取り、羽織ったが、レースのそれでは、雨も風も防げない。
少しでも盾になれば、と思い、ヴィルジニーをかばうように立つが、この強い雨と風を受け続けるのは、厳しいと思えた。
「すっ、ステファン……」
嵐のあまりの勢いに、不安そうなヴィルジニーの声。
長くここにいるのはよくない。
「ヴィルジニー、がんばって、岩場まで走りましょう。あそこには小さいですが、雨風がしのげそうな洞穴があったはずです」
僕が言うと、ヴィルジニーは頷いた。
風が弱まったと感じられた瞬間を狙って、手を取り合って走り出す。
先ほどはサラサラで足裏にここちよかった砂浜が、いまはたっぷり水を吸っていて、足にまとわりついてくる。一歩一歩が、重い
しかし足を止めるわけにもいかず、僕はヴィルジニーを気遣いながら、なんとか岩場まで引っ張ってきた。
洞穴は、幼少期の記憶どおりに、そこにあった。
狭いが、なんとか二人で中に入れそうだ。
僕はヴィルジニーをそこに押し込むと、続いて中に入った。
洞穴は、ちょうど風が入ってこない方向を向いていた。体中を叩く雨から逃れられて、ようやく一息つくことが出来た。
「あの……ステファン?」
ヴィルジニーの声にそちらを向く。するとすぐそばに、彼女の顔があった。
その頬が、朱色に染まる。
「あっ、あの……近いですよ」
「しっ……仕方ないじゃないですか、狭いんだから」
言いながらも、僕は少しでも彼女との間に空間を作れるように、身をよじる。
雨音が、更に激しいものに変わる。
見ると、雨は雹混じりのものになっていた。粒はそれほど大きくないが、あれを生身で受ければ相当痛いだろう。ここに逃げ込めてよかった。間一髪だった。
稲光。続いて、近いところで雷鳴。激しい音が、耳をつんざく。
「これは……しばらく出られそうにありませんね」
ヴィルジニーが言った。僕は何も言わなかったが、彼女の言うとおりだと思った。
しばらく待ったが、雨は一向に、弱まる気配を見せなかった。
先ほどから、落雷もひっきりなしにあるようだった。もはや、雨音なのか雷鳴なのか、はっきり区別できないほどの豪雨だ。
スコールだろうと思っていたのだが、雨の時間がやけに長い。台風のようなものだろうか。
気象衛星も雨雲レーダーもない世界である。天気予報があったわけでもない。今朝まではとても天気が良くて、とてもこのような急変は予想できなかった。
いつまで続くのかも、予測不可能だ。
「くしゅん」
ヴィルジニーのくしゃみだ。
振り返ると、狭い洞穴で小さくなっていた彼女は、自分の膝を抱えるようにして震えていた。
冷たい雨に打たれて、身体が冷えてしまったのだろう。
あいにく、身体を拭けるようなものは持っていない。
考えた僕は、狭い洞穴で身体の向きを変え、ヴィルジニーへと向き直った。
そのままの姿勢で、身構えるように表情を強張らせるヴィルジニー。
「なっ……なんです?」
「……身体、あんまり冷やすと、マズイです。低体温症とかになるかも」
ヴィルジニーは首を傾げた。
「てい……たいおん?」
頷いた僕は、続ける。
「あの、ヴィルジニー、不本意かもしれませんが、この状況ではやむを得ません。身体を温め合いましょう」
「温め合う? ……どうやって?」
「身体をくっつけるんです」
それを聞いたヴィルジニーは、膝を抱く両腕に力を入れた。
「くっつけ……
「そうではなくてですね! くっつけばお互いの体温で、少しでも温かくなります! 僕はヴィルジニーのことを心配して……」
しばし、疑いの眼で僕を見ていたヴィルジニーだったが、もう一度、くしゃみをして、身体を震わせ、それから渋々と言った様子で、口をとがらせ、言った。
「仕方ありません……変なところを触ったりしたら、ただじゃおきませんから!」
さすがに抵抗感あるだろうと思っていたのに、意外とあっさり受け入れるところをみると、どうやら洒落にならないぐらい寒くなっているのだろう。
さて。
お互いに温め合う、というのが目的であれば、遠慮がちに触れるという程度ではお話しにならない。思いっきり、がばっと行く必要がある。
片腕で肩を抱く、程度では、無意味だ。
雨の様子も監視したい。ヴィルジニーと場所を入れ替え、僕が奥側の岩肌に背中を預けるようにして、ヴィルジニーにはその僕の正面側に、背中を預けるようにして、太もものあいだに座ってもらうことにする。
腰を下ろそうとしたヴィルジニーは、さすがにその瞬間には躊躇いがあったようだったが、もう一度身体を震わせた後、覚悟を決めたように腰を下ろし、背中をくっつけてきた。僕はその冷たい身体を抱き寄せる。
「変なところを触ったら――」
こちらを振り返るようにして言うヴィルジニーに、僕は首を横に振る。
「気をつけます。極力」
ヴィルジニーの肌の滑らかさと柔らかさに感動するより前に、その冷え切った身体に、驚く。これは、躊躇していたら本当に洒落にならなかったかもしれない。微かに震えている彼女の肩と腹部に、その豊満なバストには触れないよう、左右の腕をそれぞれ回し、ぎゅっと抱きしめる。それでは足りない、とも思えたので、両足もくっつけてできるだけ接触面を増やすようにする。
極端な接触に緊張を見せていたヴィルジニーだったが、ほどなく、その身体の強張りが抜けてくる。ヴィルジニーは、彼女のお腹に回した方の僕の腕に触れ、ほっとした様子のため息をついた。
「意外と……あたたかいのですね、貴方は」
「……お役に立てそうでなによりです」
ぎゅっと抱きしめていると、冷え切ったようだったヴィルジニーの身体からも、じんわりと体温が伝わってくる。僕だって身体は冷えていたが、一人でいるよりはずっと温かく感じられた。
すぐ目の前に彼女の髪があって、濡れそぼっていたが、いい香りがした。
「ヴィルジニーのその髪型、かわいいです」
耳元で囁くと、彼女は微かに頭を動かし、そのサイドポニーが揺れる。
「貴方……この状況で、何を馬鹿なことを」
「この状況だから、ですよ」
「……は?」
「変な意味ではありません。体温が奪われると……つまり身体がとても冷えると、眠くなることがあります。でも、そこで眠ってしまったら終わりです。二度と目覚めることはありません」
「そんな……おどろかさらないで」
「脅かしているのではありません。それが低体温症です。眠ったら死ぬぞ! という、アレです」
「……聞いたことありません」
「……とにかく、眠らないように、なにか話をしたほうが良い。そのためです」
ヴィルジニーは顔を反対に動かし、またポニーテールが揺れる。
「もっとマシな話をしなさい」
「ダメですか、この話」
「ただ……まとめただけです。かわいいもなにも、ないでしょう」
「いつもと違うお姿、新鮮で、とてもいいです」
「貴方……変なこと、考えてないでしょうね」
「えっ?」
「貴方に……気を許したわけではないのですから。いまのこれは、緊急的にやむを得ず、こうしている、というだけで」
言われて、僕ははっとする。
好きな女の子を制限付きではあるが抱きしめている、というこの状況。いい匂いはするし、首筋の白い肌にいつでもキスできそうだし、しかもこの接触を許してくれているヴィルジニーとは、昨日今日ともはや付き合ってるも同然と思える時間を過ごしていた。
だから、彼女の方も、僕のことをもう好きでいてくれているのだと、決めつけてしまっていた。
たぶん――それはおそらく、間違っていない。彼女はもう、僕のことをかなり好きだ。二人で水着デートしたり、このような身体接触を許す、という程度には。
緊急事態、とは言っても、ある程度は心を許していなければ、とてもできないことだ。
だが彼女は、“公式に別の男性と婚約している貴族令嬢”だ。心中でどう思っていたとしても、僕に対しては一線を引くのが当然だという意識のはずだし、そういう意識がある以上、僕への好意があったとしても、それには気付かない振りをし続けるはずだった。
自分で、僕に対する恋愛感情はないのだ、と、思い込むとか、言い聞かせるとか、そういうことだ。
つまり現状では、どれほど打ち解けたように思えようが、また、彼女自身にあきらかにそういう素振りがあろうが、どうなのかとはっきりと問われれば、彼女は決して、僕への恋愛感情を認めたりしないだろう。
だから僕は、そういう彼女の思考を踏まえた上で、行動しなければならない。
ここで「本当は好きなんでしょ」などと強気に踏み込むのは、大間違いだということだ。彼女の意思を尊重し、あくまでも、僕らの身体接触は緊急的な安全確保のためであり、そこに恋愛感情はない、というタテマエで振る舞う必要がある。
いまの彼女の立場なら、僕は極限状態で唯一、頼ることができる相手になる。そういう相手に、邪な考えがあるとなれば、とても安心はできないだろうし、軽蔑するだろう。
この場面は、彼女との関係を更に深める千載一遇のチャンス、などではない。その逆、ヴィルジニーからの僕の評価を下げ、関係を悪化させかねない、危急存亡の時なのだ。
この事態を切り抜けるには、僕はここでは、彼女への好意は決して表には出さず、誠実に、彼女を守る騎士として振る舞うべきだ。
「申し訳ありません。ヴィルジニーの気持ちを考えもせず」
僕は狭いスペースで頭を下げた。彼女からは見えないだろうが、気配はわかってもらえるだろう。
「無心でいることを約束します」
「……無心?」
「眠気覚ましに、当たり障りのないお話しをしましょう」
ヴィルジニーの表情は見えなかったが、微笑んだ気配がした。
「しかし……一緒だったのが、貴方でよかったです」
「ん?」
「他の殿方であれば、このように触れられるのは、さすがに耐えられませんわ」
いまの流れでそういうこと言う!?
僕はヴィルジニーの表情を覗こうとするが、彼女は顔を背けたので、上手くいかない。
「僕だったら……いいんですか?」
小さな声で聞く。
ヴィルジニーは、すぐには答えなかった。
「気を許しているわけではありませんが、貴方のことは、信用しています」
「信用?」
「貴方は、
信用されている、と言われれば聞こえはいいが、ヘタレだ、と言われているようでもある。
とはいえ、いまのこの状況で、侮ってもらっては困る、などというようなことを言い出すわけにもいかない。
「ヴィルジニーに、嫌われたくありませんから」
抱きしめていたヴィルジニーの身体から、最後の緊張が解けた、という雰囲気があった。
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