84. 白く深い谷

――フィリップ王子がわたくしを選ぶことはない――


 マリアンヌの発言の意味を、当然、僕はその場で訊ねた。

 だが、侯爵令嬢は意味有りげに微笑み、誤魔化すように首を振るだけだったのだ。


 二人に、なにかあるのだろうか。



 快晴の海。日差しを和らげる、真っ白なタープの下で。


 僕から飲み物の入ったグラスを受け取った二人は、セリーズを交え、にこやかに雑談をしている。その打ち解けた様子を見れば、二人になにか確執があるようには見えないのだが――



 マリアンヌの発言を聞き、思い出したことがあった。


 以前、僕の部屋で、はじめてフィリップ王子から、ヴィルジニーと婚約した真の理由を聞いた、あの日。

 マリアンヌについて、少しだけ話した。王子はあの時、マリアンヌを素晴らしい女性だ、と口にしながらも、なにか含みをもたせた言い方をしていた。


 過去に、彼女となにか、あったかのような……



 あったのかもしれない――僕はあらためて、楽しげに笑うマリアンヌ、そしてフィリップ王子の横顔を伺う。


 あったのだ、フィリップ王子が、マリアンヌ嬢に一線を引くような、なにかが。マリアンヌもまたそれを知っているから、わたくしが選ばれることはない、などと言った……そう考えれば、辻褄が合う。


 それを思いついてしまったから、この出会いの演出、いや、この別荘地に二人を合わせて招くという計画、それすべてが、無意味なのではないか、と考えては、いた。


 しかしそれでも、この二人にあらためて接点をもたせることは、我が父の指示であり、それをしないという選択肢は、なかったのだ。


 それに……そういうことがあったとしても、それは過去のこと。

 今回、この夏の海で、その確執を氷解させるような交流があれば、二人が恋に落ちることは、まだ、あり得る……

 その確執の内容、如何によっては――



「ステファン様、どうなさいました?」


 いつのまにか近づいていたセリーズが、上目遣いで僕の顔を覗き込んでいる。


 僕は答えず、手にしていたグラスに口を付ける。


「また、なにか考え事ですか?」


?」


 思わず強い調子で聞き返してしまった僕に、セリーズは驚いた様子で首をすくめた。


「いえ……ステファン様は、よく考え事をなさっているようなので」


 これはセリーズの、あなたのことをよく見ているんですよ、的なアピールだろうか。


 それにしても、見ていてわかるほどに、よく考え事をする素振りをしていたとは。自分では気付かなかった。気をつけるとしよう。


 いつの間にかその場は、フィリップ王子とマリアンヌ、僕とセリーズ、という構図になっていた。


 再びビーチチェアに腰を下ろしたマリアンヌは、僕の意図を組み、意図的に王子に話しかけているのだ。

 彼女がミッションを忠実にこなしているのであれば、邪魔をするのはよくないだろう。


 僕はテーブルにグラスを置くと、セリーズへと向き直った。


「まだ、海の水に触れてませんよね。波打ち際まで行ってみませんか?」


 セリーズは一瞬、驚いた様子だったが、すぐに嬉しそうに笑みを浮かべた。


「はい!」


 やはりグラスを置いたセリーズを伴い、二人から離れる。王子とマリアンヌに関しては、あとは成り行きに任せるしかない。


 隣りに並んで歩くセリーズは、ニコニコしながらこちらを見上げた。


「よかったです。少し、怖かったので」


 海は初めてだし、泳ぎもできないという話をセリーズから聞いたのは、買い物に連れて行ったときだ。

 その様子だと、波打ち際に興味はあったが、怖くて一人では近づけなかった、というところだろうか。


「遠浅なのでそれほど心配はいりませんが、調子に乗ってあまり遠くまでいかないように」

「はぁい」


 波打ち際に接近する。


 打ち寄せる波はまったく穏やかで、水遊びにはちょうどよいと思えるものだったが、そこへ近づいたセリーズは、一度は足を伸ばしかけたものの、再度迫って来た波に恐れをなしたのか、引きつった顔で、逃げ帰るように戻ってくる。


「やっ、やっぱり怖いです!」

「大丈夫ですよ、このぐらい」


 苦笑する僕に、セリーズは顔を赤くして手を伸ばした。


「手を握っていて下さい!」


 甘えたような上目遣い。

 なんとあざとい……セリーズのような可愛らしいコが、しかもカワイイ水着姿で、そういう風に迫ってくれば、たとえその気がなくても、親切にしてしまいたくなる。


 この僕でさえだ、まったく。

 彼女、これを狙ってやってるんだったとしたら、ホント、僕って間抜けだよな、と思いながら、その手を取った。


「仕方ありませんね」


 セリーズのすべすべした手が、僕の右手をぎゅっと握ってくる。


 そのまま手を繋いで、波打ち際へ。セリーズの足取りには躊躇いがあったが、僕は構わず彼女を引っ張り、ちょうど打ち寄せた波へと、サンダルの足を突っ込んだ。


 冷たすぎもせず、かといって不快な温さもない。水遊びには絶好、という水温に、思わず口元がほころぶ。

 これは最高だ。水着に着替えてくればよかった。


「わっ! わっ!」


 変な声を出しながら、へっぴり腰で僕の腕を両手で掴み、波へと足を踏み入れたセリーズ。

 そのままの姿勢で、波が引いていくまで固まっていた。


 固まったまま、次の波が足元を洗い、再び引いていく。


「平気でしょ?」


 僕が声を掛けると、セリーズは返事こそしなかったが、控え目に水を蹴った。


 セリーズの手を引いて、もう少し先へと進む。

 そのまま一気に、深さが膝下あたりのところまで。


「どうです?」


 手を引かれた姿勢で水面を見ていたセリーズだったが、顔を上げると、多少硬くはあったものの、微笑んだ。


「きっ……気持ちいい、です」



「ステファン様ってぇ、本当に節操なしですのね」


 そのセリーズの向こう、波打ち際の向こうに立ち、蔑んだ視線を僕に向けてくる、三人の悪役令嬢。


 先程屋敷へ戻った三人が、いつの間にか水着に着替えて戻ってきていたのだ。


 右端、僕に誹謗中傷を投げかけたベルナデットは、ピンクの花柄があしらわれたワンピースタイプ。胸元は大胆に空いているが、大きいお尻を気にしてか、裾の広がったスカート形状。自分の胸元を守るように両腕を抱えて、こちらに軽蔑の視線を送ってくる。


 その隣、中央に立つリリアーヌは、自身の美脚を誇示するような露出度高めの水色ビキニ。トップスの上から白いTシャツを着ているが、裾をウエスト、というより胸の下辺りで縛っていて、へその形の良さがよくわかる。その片手を腰に当てて、こちらもやはり、嫌悪感に満ちた視線をこちらに向けている。


 そして左端に立つヴィルジニー。白く深い谷間を強調する黒のクロスホルタービキニ。膝下まで覆うロングパレオをその引き締まった腰に巻いているが、前方開いた合わせ目から覗く長い脚が大変に魅惑的。胸の下で腕を組み、かすかに顎を逸らした彼女は、蔑み半分、呆れ半分という視線で僕を見下ろしていた。


「えっ、いえっ、えっと……彼女、海は初めてで、怖いとおっしゃるので」


 僕は多少、慌てて言ってしまってから、別にやましいことはしていない、と思いついた。


「それだけにしては、ずいぶん鼻の下を伸ばしていらっしゃるようですが」


 疑い深い目で僕を睨むリリアーヌ。


 ベルナデットは、こちらに、というか、セリーズの方へと近づいてきた。


「なぁにぃ? セリーズ、泳げないの?」

「はっ、はい!」

「だったらぁ、わたくしが教えて差し上げますわ」


 そう言って、未だ僕の手を握っていたセリーズの手を、取る。

 それから僕に、べっと舌を出して見せてから、セリーズを僕から引き離すように誘導した。


 ベルナデットは、課外活動のダンス教室等で教える側の役をやるようになってから、人に教えることの楽しさを知った様子を見せていた。これもきっと、それゆえの行動だろう。


 彼女は僕からセリーズを奪ってやった、というつもりなのだろうが、僕としては願ったりかなったりだ。


 なにせ、本命が来たのだから。

 僕はヴィルジニー(とリリアーヌ)の方を振り返った。


 ヴィルジニーを守ろうとでもいうのか、彼女に一歩近づくリリアーヌ。


 僕がリリアーヌとベルナデットをからかってしまった例の一件以降、二人の僕に対する当たりはキツい。課外活動や募金活動などでは協力関係にあるが、それ以外のときでは、このようになる。

 まあ、悪いのは僕で、自分でも自業自得だと思っているので、それはそれでいいんだけど。


「リリ」


 ヴィルジニーは友人を、いつものように愛称で呼んだ。


「ベットだけでは心配です。貴女あなたもついてやりなさい」


 リリアーヌはかすかに目を見開く。


「よろしいのですか?」

「彼に、わたくしになにかする度胸などありませんよ」


 状況さえ許せばしますけどね!


 などとは思ったりするが、もちろん口にはしない。ヴィルジニーがリリアーヌを追い払ってくれる動きをするのは、僕にとっては願ったりかなったりなのだし。


 それにしてもこの動き……ヴィルジニーはまるで、僕と二人の時間を作ろうとしているかのようではないか。

 彼女がどういうつもりなのか、その表情から伺うことはできないが……ツンと澄ました顔で、本当に僕と二人になることを考えているのだとしたら――


 ちょっ、やばっ……最高なんですけど!


 リリアーヌはヴィルジニーから離れると、僕のそばを通り過ぎざま、

「ヴィルジニー様にいやらしい真似をなさいませんようにね」

 というセリフと共に冷たい視線をぶつけ、それからセリーズたちの方へ行ってくれた。


 その背中を見送り、リリアーヌも相当ヴィルジニーのこと好きだよな、とか思う。


 とにかく、邪魔者は消えてくれた。


 僕はヴィルジニーへと近づく。

 公爵令嬢は、わずかにだが、身をすくめるような仕草を見せた。


「ヴィルジニー、すごく可愛いです。とてもよくお似合いです」

「……貴方あなた、最近本当に、遠慮がなくなりましたわね」


 せっかく褒めたのに喜ぶ様子など一切見せず、ヴィルジニーは呆れたようにため息を吐いた。


「見せてもらったのですから、感想を言うのは当然でしょう」

「貴方に見せるために着ているわけではありません」

「じゃあ誰に見せようというのです」

「自分が気に入って着ているだけです! バカ話はおやめなさい」


 うんざり、というふうにそう言うと、ヴィルジニーは背後、離れたところに張られたタープ、その下の二人に視線を送る。


「フィリップ王子と一緒にいらっしゃる女性、あれはマリアンヌ・ドゥブレー様ですか?」


 僕は一応、まだそこにいるのがマリアンヌであることを確かめてから、頷いた。


「そうです」

「なぜ、彼女がここに?」

「隣のお屋敷、ドゥブレー侯爵の別荘ですからね」


 こともなげに言った僕を、振り返ったヴィルジニーは訝しげな目で見た。


「知ってらっしゃいましたの?」

「そりゃあもちろん」

「……貴方がお呼びになったのね」

「えっ? いや、まさか。偶然ですよ、偶然」


 ヴィルジニーの目は、僕の言葉をまったく信じていない様子だった。

 まったく、最近どうも、僕の言葉は信用してもらえないようだ。


 まあ、実際にウソを言っているのだから、仕方ないとも思うけど。


「貴族であってもおいそれとは入れないミースのプライベートビーチということで、誘いに乗りましたが……なるほど、本当の目的はアレ、ですか」


「僕の本当の目的は、ヴィルジニーとの思い出作りですよ」


 ヴィルジニーが、こいつバカか? と言ってる視線を向けてくるので、僕は慌てて言い直す。


「別荘の持ち主のベルトワーズ伯爵は、父の友人です」


 それを聞けば、王子とヴィルジニーの婚約解消の件を知っている父の考えだと、ヴィルジニーにはわかるのだ。


 そして、その父に知られることになったそもそもの原因は、ヴィルジニーにあるということも。


「それが宰相閣下のご希望、ということですか」


 溜息を吐くヴィルジニー。


「よもや……はじめからマリアンヌ様を王子と結婚させるために、わたくしとの婚約を解消させたのではございませんでしょうね?」


 ヴィルジニーの訝しげな視線に、僕は力を込めて首を横に振る。


「まさか! とんでもない! それが目的ならこんな迂遠なことはしませんよ! 僕の立場では貴女との婚約が解消されさえすれば、その後は王子が誰と結婚しようがどうでもいいんですから!」

「本当に?」


 ヴィルジニーはすんなり信じようとせず、細めたジト目で僕を睨む。


「どうして信じてくれないんです」

「だって貴方あなたは……いつも、本当か嘘かわからないことを言うんですもの」

「貴女への気持ちは本当ですよ」

「そういうところです」


 すげなく言ったヴィルジニーは、ツンっと顔を逸らした。


「もっ……もしも本当にそれが目的なら、貴女をここに誘ったりはしないでしょう? 王子と僕だけでよかったんですから」


 そう言うと、ヴィルジニーは何度かまばたきをして、顎に手を当てた。


「それは……そうですね」


「それに、僕としてはありがたいです。王子が一人なら、公にはまだ婚約者である貴女が、殿下を放っておくわけにはいきませんから」


 それを聞いて、ヴィルジニーの視線が咎めるようなものになる。


「王子にマリアンヌ嬢をあてがっておけば、わたくし自由フリーにできる……ということですか?」

「まさしく、おっしゃるとおりで」

「欲望に忠実なお方ですこと」


 呆れたように首を振ったヴィルジニーは、もう一度、王子たちの方に視線を向けた。


 まあ、彼女にとっては複雑だろう。

 マリアンヌは、ヴィルジニーにとってはライバルだったはずだ。

 婚約解消をすると決まった今となっては、もはや嫉妬の対象にする必要はないわけだが、人間、感情の部分はそう簡単に切り替え出来ない。

 王子を取られてしまった、という気分は、たしかにあるはずだ。


 悪いことをしてしまったな、と僕はいまさらに思う。

 彼女に、王子とマリアンヌが仲睦まじく時間を過ごす、この光景を見せるべきではなかったかもしれない。

 自分のことばかりで浮かれていて、こうなることを思いつけなかった。


 彼女の形の良い後頭部に、さて、なんと声をかけよう、と悩んでいると、僕の更に後方から、助け舟のように声がかかった。


「ヴィルジニー様もぉ! いっしょに泳ぎましょうよぉ!」


 ベルナデットの声に振り返ると、少し沖へと移動した三人は、すでに腰の辺りまで海に浸かっていた。


 ヴィルジニーは返事こそしなかったが、合流しようと足を進めかけ、そこで思い出したように僕を見ると、いたずらを思いついた顔で言った。


「おひとりではお寂しいでしょう。仕方ありませんから、貴方も仲間に入れて差し上げますわ」


 それは嬉しいお申し出。ですが、


「あっ、でも僕、水着じゃないんで」

「なにをおっしゃるのです」


 そう言うと、僕の前に回り込んだヴィルジニーはわざとらしく、こちらの顔を覗き込んだ。


わたくしとの思い出、作りたいのでしょう?」


 そう言って、ニコリと微笑んだ彼女は、何の前触れもなく、いきなり僕を突き飛ばす。

 不意打ちにバランスを崩した僕は、抗いようもなく海面へと尻もちをついた。

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