76. 庭園の木陰で

 冷静になって、考えてみると。


 ヴィルジニーが、父親公爵との話し合いで、結婚相手として僕の名を上げた、というのは、やはり、どうもおかしい。


 僕とヴィルジニーの関係は、まだスタートラインにすら立っていない……と、僕は認識していた。

 強いて言うなら、スタートラインが見えてきた、というところだ。僕と彼女のスタートラインとはすなわち、彼女とフィリップ王子の婚約解消だ。


 二人が婚約解消に同意して以降、ヴィルジニーの僕に対する態度は、多少、変化しているようには感じていた。彼女はああいう性格だから、その態度から内心を正確に把握するのは困難だが、僕のことを結構好きでいてくれていると思う。本人は決して、それを認めないだろうけど。


 そういうレベルだったはずなのだ。


 彼女は僕の好意を知りながら、口では常にはぐらかしてきた。婚約解消に同意していても、それがまだ公には有効であるという事実を尊重し、僕を遠ざける素振りさえした。

 そんな彼女が、いくら婚約解消を公爵に納得させるためとはいえ、すでに他の男が次に控えている、などと、言うだろうか。


 公爵が僕を呼び出したこと、話したこと、などから考えると、ヴィルジニーが僕の名を出したことそれ自体は、間違いない。

 問題なのは、どういう意図で、どういう話の流れで、僕の名前を出したのか。


 やはり父が言うように、これは早急に確認すべき案件だった。


「父上は、いかがなさいます?」


 公爵の書斎を出ようとした僕は、ふと思いつき、訊ねる。

 父は苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「落ち着いて、ゆっくり考えたい。 ――三日ぐらい」


 僕は首を傾げて見せてから、部屋の扉を開ける。


 廊下に出た僕は、反対側で姿勢を正した従僕フットマンを見つけた。案内役として控えていてくれたのだろう。


 僕は音のしないように扉を閉じると、直立不動で立つ彼に話しかけた。


「失礼。本日は、ヴィルジニー様はご在宅でしょうか?」

「はい。ご案内できるか、確認いたしましょうか?」

「頼みます」


 僕が答えた、その時。


「ステファン……殿?」


 呼ばれ、振り返る。

 ちょうど現れた、ヴィルジニー本人が、怪訝な顔をかしげ、そこに立っていた。


 さすがは貴族令嬢。休日に家にいたというのに、バッチリと整えられた髪と化粧、爽やかな夏の装いがよく似合っている。


 色々と手間が省けた。

 僕はフットマンに会釈をすると、公爵令嬢へと向き直る。


「ごきげんよう、ヴィルジニー様。今日もとてもお美しい」


 彼女は、怪訝な顔の、更に眉をしかめた。


貴方あなたが、なぜここに?」


 貴女あなたのせいですよ、とは、使用人の前で言うわけにはいかず。


「公爵閣下に、ご招待を受けまして」


 そう聞いても、ヴィルジニーの怪訝顔は、晴れない。


「父に? いったい……」


「――少し、お話できませんか? 二人っきりで……あっ、いや、変な意味ではなく」


 ヴィルジニーに睨まれて、僕は慌てて首を横に振る。


 ヴィルジニーは一度、背後を振り返ったが、少し考える素振りを見せ、それから僕の背後、フットマンの視線を伺いながら、言った。


「では、お庭をご案内いたしますわ。本日は、お天気もよろしいですから」



 天気がいいどころではない。昼に近づき、夏の日差しは照りつけるようになりつつあった。


 ヴィルジニーと僕は、直射日光を避けて、いくつか並ぶ木がひさしを作る、庭園の端の方まで歩いていった。


 庭を散歩する、というヴィルジニーの提案は、正解だと思えた。このように、会話を誰かに聞かれる心配はない上、我々二人は、屋敷の窓から丸見えだ。ヴィルジニーが心配するように、僕が不埒な行為に及ぼうとするのを防げる――


 しないよ! そんなこと!


 とはいえ、いくら口で言っても、人がその内心で本当に考えていることなど、わかりはしないものだ。

 ヴィルジニーの警戒は、婚約者のいる貴族令嬢として真っ当なものだ。


「父が貴方に? いったい、何のようだったのです?」


 足を止めたヴィルジニーが振り返り、その訝しげな視線すらも心地良い、などと思いつつ、僕は口を開く。


「そりゃあもちろん、ヴィルジニーが僕の名前を出したからでしょ」


 ヴィルジニーはまたもや怪訝顔を浮かべる。


わたくしが? 貴方の名前を?」


 惚けるつもり……というわけでもなさそうだが、よもや昨日の今日で忘れているということもあるまい。

 それでも僕は、思い出してもらえるように重ねて言った。


「公爵は、そう仰ってましたよ。王子と婚約を解消して、僕と結婚するって言い出したって」


 ヴィルジニーは驚いた顔を見せたあと、盛大に顔をしかめた。


わたくしが? 貴方と? 結婚? そのようなこと……言っておりません。言うはず、ないではないですか」


 馬鹿げている、と言わんばかりに、鼻で笑う。


――そうですよね、言うはずありませんよね、僕もわかっていました。


 わかってはいた、にしても――その侮蔑的な嘲笑は、ちょっと心にクる。


 それに、そういうことであれば、ではいったい、なにがどうして、こうなっているのか。


「貴方と結婚など……フンッ、ありえません」

「――でも公爵は、もうそういうおつもりのようですよ。それに、ヴィルジニーが言わなきゃ、僕を呼び出したりしないでしょ?」


 ヴィルジニーは視線を逸らすと、顎に手を当てた。


「貴方のことを……そう言われてみれば――」


 どうやら、心当たりはあるようだ。


「いったいどんな会話をなさったんです?」


 ヴィルジニーは、その時の怒りを思い出した様子で、口を開いた。


「お父様――父は、大変失礼なことをおっしゃったのよ。王子と婚約を解消して、どうするつもりなのだ、おまえのようなヤツをもらってくれる殿方などいないぞ、などというような……」


 うん? 公爵に聞いていた話のとおりのようでもあるが、どうもニュアンスが違うような……?


「そこでわたくしは、そのようなことはない。わたくしのことを真に愛してくれる男性と幸せな結婚をいたします、と言いました。

 すると父は、わたくしを好きになってくれるような男などこの世にいるはずがない、などとおっしゃいましたので――」


 ヴィルジニーは、僕の表情をチラリと確認したが、しっかり目を逸らしてから、言った。


「貴方の名前を出しましたね、そういえば」


 やっぱ言ってんじゃん。


「でもそれは、あくまでも一例として名を出しただけ――わたくしを好きになった男性が約一名、いたということは事実。であれば、わたくしを好きになる男性などこの世にいない、などという父の言説は、大きな間違いである証拠。

 少なくとも最低一名はすでに観測しているのです。今後も確実に出会えるはず――。とにかく、そういう人物がいたという、証拠として、説明のために出したに過ぎません」


 僕は右のこめかみを指先で抑えた。


 つまり。


「おまえを好きになる男などいるはずない!」

「います! ステファンが好きだと言いました! 他にも絶対にいます!」


 ぐらいの話のつもりだったということだ、ヴィルジニーの方は。


 ところが、具体的に名が出てしまったことで、公爵は、これはもう相手が決まっているのだ、と思ってしまった。


 公爵自身も、父娘の話し合いは多少感情的に進行した、と認めているし、各々の証言には多少の食い違いもある様子。どうやら不十分なコミュニケーションが、重大な齟齬を生み出してしまった典型的なパターンだろう。


「それで父は……貴方を呼び出したというのですか?」

「僕と、僕の父をね」

「宰相閣下まで? ……なぜそのような」

「――貴女が、意図をキチンと説明しないからでしょう」

「なっ……わたくしのせいだとおっしゃるのですか!?」


 僕はすぐには答えず、身体ごと視線を背けるとため息をついた。


「お話は、もう少し慎重に進めていただきたかったですね」

わたくしはただ、婚約解消の話をしただけですわ……それだって、あくまでも打診だけのつもりで……そういう話をすれば、父がどのような反応をするのか、確認するためだけのつもりでしたの」


 その反応が思った以上に感情的なもので、売り言葉に買い言葉的な感じで話がエスカレートしてしまった、というところか。

 そういうことなら、この異常な急展開も理解できるというものだが――

 しかし……まったく、お騒がせな父子だ。


「ほかの男の名前が出れば、そいつと結婚したいから解消したいのだ、と思われても仕方ないでしょう」

「それは……」


 ヴィルジニーが言いよどんだのでそちらを見ると、彼女はそむけた顔をかすかに赤く染めていた。

 なんなんだその反応は。

 父親に勘違いされていることに気づいて、急に恥ずかしくなったとかだろうか。


 横顔を眺めていることに気付いたか、ヴィルジニーは咎めるような目をこちらに向けた。


「それで、貴方は何を話したのです?」

「それは……ヴィルジニー様をお慕いしております、と」

「はあっ!?」


 ヴィルジニーは裏返った声で、今日一番の驚きを見せた。


「言ったのですか? 父に? 貴方の口から?」

「仕方ないでしょ。貴女が何を話したかわからなかったんですから……それに、すでに公爵には貴女から伝わっていることですし」

「それは……そうですが」


 ヴィルジニーは腕組みをしてそっぽを向いた。


「しかし……よくも言えたものですね、そのようなことが」

「だって僕はてっきり貴女が……」

わたくしが? なんです?」


 彼女が学校で見せたやぶさかではなさそうな反応から、ただ素直になれないだけで、内心ではそういうつもりがあるのかも、とちょっと期待してしまっていたのだ――とは、いまの話を聞いた後では言えず。


 ヴィルジニーが睨むので、僕は堪えきれず視線を逸らす。


「しかし、そういうことであれば、父には訂正を……」

「お待ちください」


 踵を返し屋敷に向かいかけたヴィルジニーを、僕は呼び止めた。


「せっかくです。こうなったからには、公爵には、勘違いしてもらったままでいてもらいましょう」


「なんですって?」


 色めき立つヴィルジニーに、僕は冷静に言った。


「次の相手がいると思えば、公爵も王子との婚約解消に同意しやすくなります。お父上の最大の心配事は、貴女が行き遅れること……もとい、貴女の結婚を政治的に利用できなくなること」


 それを聞いて、嫌そうに僕を睨みつけるヴィルジニー。

 構わず、僕は続ける。


「幸い公爵は、僕には利用価値があると考えていらっしゃる様子。であれば、この状況は利用できる。ご不満かもしれませんが、少なくとも、僕と貴女がただちに正式に、公に婚約する、という話では、まだありません。王子との婚約解消を成した後で、どうとでもすることはできます」


 もちろん、僕の方はそのまま進めさせてもらうつもりだがな!

 恥をかかされてそれで終わるものか。状況はとことん利用させてもらう!


 視線を逸らしたヴィルジニーは、顎に手を当てる。いつもの考える癖だ。


「お付き合いしている振りなどしてみせて、やっぱり思っていたような男ではなかった、などと言って、公爵を納得させればよいでしょう」


 公爵、ヴィルジニーの父親に、交際を認めてもらっているという状況は、僕のヴィルジニー攻略にとっては、間違いなく追い風だ。

 公爵が僕の政治利用を考えている懸念はあるが……それだって、ヴィルジニーと行くところまで行けば、遠からず直面すること。であれば、僕がいま考えるべきことは、よりスムーズにヴィルジニーにアプローチすることだ。


 こういう話の運び方なら、ヴィルジニーは父親の前では、僕と交際している振りをするしかなくなる。必然、一緒にいられる時間が増える。どうしたって接触の減る夏休みで、これは願ってもないことだった。


 ヴィルジニーは、視線だけを動かして僕を見た。


「なるほど。一理ありますね」


 よし!

 これで、このあとすべきことは、その仮初かりそめの交際期間の間に、ヴィルジニーとの関係をマジな感じで深めること。増えた接触機会を利用して、この夏中に、一気にヴィルジニーを口説き落とすのだ!


 そう考えていた僕に、ヴィルジニーは不敵な笑みを浮かべ、身体ごと向き直って、言った。


「ですが、お断りします」


「――は?」


 予期せぬ返事に呆気にとられる僕に、ヴィルジニーはその両肘を抱えるようにした。

 顔に浮かべた笑みは、変わらない。


「なぜ――」

「いまのお話、たしかに一見、利があるように思えます。ですが……その利は、貴方に一方的なものです」


 ヴィルジニーは口元を歪め、続けた。


「父に結婚を前提とした交際中と認識させていれば、それが非公式なものであったとしても、貴方は大手を振って、この家に出入りできますものね。大方、その立場を利用して、わたくしにさらに接近しようとでも考えているのでしょうが」


 完全に見透かされているが、しかし。


「ですが、婚約解消については――」

「そちらの方は、わたくしは急ぎませんもの」


 ヴィルジニーは、つんっと顎を逸らした。


「フィリップ王子、王家との兼ね合いもあります。この件、どのような策謀を巡らせようと、最終的には政治判断です。父が反対していようと、わたくしとフィリップ王子が同意している以上、国王が了承すれば、認めざるを得なくなります」


 それから、見下すように僕を見た。


「貴方の思い通りにはなりませんわ。 ――残念でしたわね」


 僕に誤算があったとすれば。

 ヴィルジニーが、僕に多少は好意を向けてくれているのでは、と考えていたことだ。

 王子との婚約の解消に同意したのだって、それによって自由の身になり、僕との関係を大手を振って進められるようにするためという側面もあってのことだ、と。


 いや、おそらくその考え自体は、間違っていない。

 ヴィルジニーは僕のことを、多分唯一異性として、意識している。


 だからこその提案だった。「婚約解消のため」「交際しているフリ」というタテマエを提示してやれば、僕の本意を察したとしても、わかった上でノッてくれるのではないか、という腹づもりがあった。昨日だって、僕が公爵家を訪問する口実を作ってくれたりしたのだ。


 しかし――彼女の視線は、自分はそれほど甘くはない、とでも言っているようだった。

 天邪鬼の彼女には、そういうわかりやすい手に乗って、簡単に僕のものになろうとか、思い通りになってやろうという気は、ないのだ。


 彼女の、悪役令嬢としての本質は、何も変わっていない。


 悩み、苦しみもがく僕を見て、優越感に浸りたいのだ。


 もしかしたら、もう少し、一方的に僕が彼女を好いているというこの状況を、楽しみたいとすら思っているのかもしれない。


 彼女の見下すような微笑みは、「わたしのことが本当に欲しいのなら、もっとがんばって、わたしをその気にさせてみなさい」と、言っているようにも見えた。


 僕が言葉を失ったのを、敗北宣言とでも受け止めたのだろう、ヴィルジニーは勝ち誇った様子で言った。


「それではわたくしは早速、父に訂正してまいりますので」


「あっ……僕も行きます」


 言うと、彼女は嫌そうに顔をしかめた。


「来ないで下さい」

「どうしてダメなんですか」

「貴方、邪魔をするおつもりでしょう。肝心なところで口を挟まれたくありません」


 ちっ。


「邪魔などいたしません。ただ、どのような話になるのかは、聞かせていただきたい。僕が呼び出されたような、やりとりの齟齬が起きないとも限りませんので」


 ヴィルジニーは表情だけで難色を示したが、僕は重ねて言った。


「ヴィルジニーの意向はわかりました。口出しをするようなことはいたしません。その場に僕もいたほうが、公爵は納得なされます」


「……口出しは、なさらないのね?」

「はい」

「わかりました。 ――では、一言も発しないと約束するなら、同行を許しましょう」

「一言も?」

「一言も、です」


 仕方ない。僕は頷いた。


「わかりました」


 ヴィルジニーはフンッと鼻を鳴らすと、身を翻した。


 その、三歩後ろを、追うようになった僕は、今の形が、現在の僕らの立ち位置を表しているようだと気づき、こっそりと項垂れる。

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