第二章

第7話

72. 夏休み、初日。

「おはようございます、ステファン様」


 ベテランのハウスメイド、エディットに起こされて、僕は自宅に帰ってきたのだ、とようやく実感する。


 身の回りのことの大抵を人任せにできる上級貴族の生活ではあるが、かといって、怠惰な日々が許されるわけではない。いつも、こうやって決まった時間に起こされ、キチンと身なりを整え、決まった時間に朝食をとる……夏休みであっても関係ない。これだったら、寮生活での日曜の方が、まだ惰眠を貪っていられただろう。昼過ぎまで寝ていたようなことがあった前世の記憶は、文字通り遠い彼方だ。


 ベッドに起き上がった僕は、ベテランメイドの顔を見る。


 エディットは僕が生まれたときにはすでにベテランのメイドだった。ルージュリー伯爵家の女性使用人では最も職歴が長く、レディーズ・メイドやハウスキーパーの経験すらあるらしいが、僕が物心ついたときからずっとハウスメイドだ。もう歳だから責任は負いたくない、などと、事あるごとに嘯いている。


「おはよう、エディット……あの、ちょっと聞きたいんだけど」


 用意した着替えをベッドに置いたエディットは、顔を上げた。


「なんでしょう?」

「この、朝、僕を起こす役は……どういうふうに決まってるの?」

「ステファン様は、わたくしになにかご不満でも?」

「いや、エディットに問題があるとかじゃなくて……たまには、そのぉ……もう少しカワイイ声に起こしてもらいたいな、とか」

「カワイイ声?」

「若い声というか」


 エディットは腰に手を当て、溜息を吐いた。


「若い女中を、殿方の寝ているお部屋に入れられるわけ、ないじゃありませんか」

「……そうですよね」


 そう、それが常識だ。

 以前はそのようなこと、考えつきもしなかった。それが常識だからだ。しかし前世の記憶を取り戻してから、その頃の価値観のようなものも思い出していた。

 そのひとつとして、せっかく貴族に生まれ変わったのだから、若くて可愛いメイドに起こしてもらうみたいな体験をしたい、などとも思いついていたのだ。


「毎日代わり映え、しないじゃないか。たまにはそういう新鮮さがあると、日々に驚きと張り合いがでると思うんだよね」


 僕の言葉を聞いて、エディットは満面の笑顔を作った。

 え? なに? イケんの? と思った僕に、彼女は一瞬で真顔に戻り、言った。


「馬鹿なことをおっしゃっていないで、早く着替えて下さい」

「はい」



 キチッと着替え、朝食のため階下へ降りていくと、足音高く歩いてくる音が聞こえる。

 音の方を見ると、我が父にしてこの国の宰相、ファビアン・ルージュリーがこちらに向かって歩いてくるところだった。力のこもった早足と、その険しい表情を見ると、だいぶ機嫌が悪い様子だ。


 昨夜、父は自宅にはいなかった。

 多忙な彼は、職場でもある王城の専用の私室に泊まり込むことも多い。

 その彼が今、ここにいるということは、たった今、帰って来たということだろう。身に付けているのも訪問用のフロックコートで、その推理を裏付けている。


「ステファン!」


 父は、階段から降りてきた僕を見つけて、足取りを早めて近づいてきた。


「おはようございます父上。おかえりなさい」


 目前で立ち止まった父は、挨拶もせずに僕に鋭い目を向け、言った。


「なにをやった?」


「――は?」


 突然の、そしてあまりにも抽象的な問いに、そういう返事しか出来ない僕に、宰相は苛立たしげに首を横に振った。


「いや、いい。話は後で聞く。行くぞ。早く着替えろ」

「えっ?」

「そんな格好で伺えるか。訪問着だよ!」

「しかし――」

「ほら、急げ!」


 そのように言われてしまうと、それ以上、質問も出来ない。


 僕は再び自室へ戻るため、階段を駆け上がる。



 馬車に押し込まれたところでようやく、今朝はまだなにも食べていないことに気がついた。


 扉が閉じられ、馬車が動き出し、向かいに座った父が、深い溜息を吐いた。


「父上は、今朝は食事は済ませられましたか?」


 遠巻きに僕はまだだと伝えようという目論見だったが、父親はジロリと僕を睨んだ。


「まだだ。とても食欲がない」


 僕はお腹が空いているけどね、とは言えず、頬に手を付いて窓外に溜息を吐く。


「なにをやった?」


 父がまたそのように聞き、僕もまた溜息を吐いた。


「なんのお話かわかりません」


 それを聞いた父親は首を傾げ、僕の表情を伺うようにしたが、やがて、両腕を組むと口を開いた。


「デジール公爵に呼び出しを受けた。長男を連れて訪問せよ、とな」

「!? では、行き先はデジール公爵家ですか?」


 父は黙って頷きを返した。


 念の為に説明しておくが、デジール公爵というのは、ヴィルジニーの父親のことである。

 そしてデジール公爵家というのは、一度は訪問したことがあるが、つまりヴィルジニーの自宅である。


 僕は眉をひそめた。


「デジール公爵が、僕――わたくしを? なぜ?」

「おまえに聞けば、それがわかるんじゃないかと思っていたんだがな」


 父は長い息を吐いた。


「心当たりはないのか」


 ない――と言いたいところだが、全然まったく、ないわけではない。


 僕はそのデジール公爵の娘、ヴィルジニーと関係性を深めようとしている最中だった。彼女にはすでに僕の気持ちは伝えてあって、彼女の気持ちははっきりとはわからないが、まんざらでもなさそうな反応を引き出すところまでは行っている――つまりは、まだその程度の関係だ。


 もしもこれが、交際しましょうという段階になっていれば、呼び出される理由は思い付く。

 ヴィルジニーが、僕との関係を父君に話してしまった、などだ。


 しかし現状は、まだその段階にない。

 ヴィルジニーが僕について、父親に話すようなことはないのだ。

 彼女自身、公にはフィリップ王子の婚約者という立場だし、それが解消されない以上は、そのような話になるはずがなかった。


 それ以外に、なにかあるだろうか。

 思い付くのは、募金により資金を集めて貧民街に井戸を建設する、ヴィルジニーの井戸ヴィルジニーズ・ウェルの件ぐらいだが、これだってわざわざ僕を呼び出す必要などないはず。発起人である(ということになっている)ヴィルジニーの手元には、詳細な企画書があるのだ。


「――ありません」


 そう答えるまでに空いた一瞬の間を、父親は咎めるような目で見たが、僕が首を横に振ると、またもや溜息を吐いた。


「ヴィルジニー様とは、仲良くしていただいております」

「その話は聞いている。おまえが公爵令嬢の教育係をやっている、などという噂、信じられるものではないが、娘が宰相の息子に取り込まれようとしていると思えば、公爵の立場では心配もするだろう」

「!? そういうお話だと?」

「わたしが思い当たるのはそのぐらいだ」


 デジール公爵は国内で最有力の貴族で、その発言力は国王に次いで大きいと言っても過言ではない。

 宰相である我が父、ルージュリー伯爵は、国政においては強い権限を持つが、あくまでも国王の補佐という立場。そういう意味で他の貴族からも尊重されているが、とはいえ、公爵家のような上級貴族と、対等な立場に扱われるというわけではない。

 政治家として、その支持が重要となる上級貴族たちに対しては、むしろ弱い立場ですらある。


 そして、父とデジール公爵の関係は、決して悪くはないが、さほどに親しいものでもない。

 お互いに国王派である、ということで、敵にはならなかった。利害が一致するから協力関係にある。その程度のものだ。


 その宰相の息子である僕が、公爵の娘であるヴィルジニーを教育洗脳しようとしていると、心配しているのではないか、と父は言っているのだ。


「どうなんだ?」


 父の問いに、僕は慌てて首を横に振る。


「とんでもありません。教育係などと……僕はただ、ヴィルジニー嬢の求めに応じて、その……少々、アドバイスなどをさせてもらっただけで」

「ふん?」


 父は片眉を上げた。


「アドバイス、ね」


 僕が気まずげにすると、彼はその視線を窓外へと向けた。


「おまえは、政治家には興味がないのかと思っていた」

「……そういうつもりがあって、やっていることではありません」

「そうだろうな。すでにフィリップ王子との結びつきがあって、公爵令嬢に取り入る利点は、おまえにはない。公爵からだって、無視していいはずだ」


 そう言った後に、僕をまたもや、ジロリと見る。


「おまえが、他に何か隠していないなら、な」


 僕は答えず、窓外を見る。


 現状では、これ以上、僕から言えることはなかった。


 気まずい沈黙を乗せたまま、馬車はデジール公爵家の門をくぐっていく。

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