66. フィリップ王子の井戸

「ステファン。どういうことなのか説明してくれ」


 フィリップ王子が僕の部屋にやってきたのは、ヴィルジニーが立ち去った、その直後。


 おそらく、ヴィルジニーが僕の部屋を訪れていることを知り、立ち去るのを待っていたのだろう。ヴィルジニーが入るところを目撃したのかも。王子が扉をノックしたのは、そういうタイミングだった。


 ヴィルジニーとの貴重なふれあいの余韻に浸る暇も、蹴られた脛の痛みが引く間もなく、僕は現実に引き戻されたというわけだ。


 王子は、口調こそは落ち着いていたが、気色ばんでいるのは、見れば明らかだった。


 切り替えて行こう、ここは重要な局面だ――僕は考える振りをしながら、気持ちを落ち着かせるためゆっくりと深呼吸して、それからかすかに首を傾げて見せた。


「どう、とは?」

「とぼけなくていい。ヴィルジニーの井戸ヴィルジニーズ・ウェルだよ」


 すでにそう呼ばれていると知り、内心で笑う。


「ヴィルジニーが思い付くことじゃない。だけど、キミには念を押したはずだ。ヴィルジニーの評判が上がるようなことはしないように、と」


 僕は頷きを返し、王子は信じられない、というふうに首を振った。


「じゃあ、ヴィルジニーが言っていたことはやはり本当なのか」

「井戸を作ると言い出したのは、ヴィルジニー様、ご本人ですけどね」

「寄付を募る、などと、思いつかないだろう」

「確かに。それは僕が言いました」


 呆れたように、王子は僕を見た。


「貧民街に井戸を作るために、学生が寄付を募る? そのようなことをしたら、間違いなく、ヴィルジニーは名声を得るぞ! 貴族社会に興味がない平民までも、彼女のことを知って、そればかりか崇めてしまうことだってありえる」


「そうでしょうね。さすがは次期国王の婚約者に選ばれるような方だ、と言われるでしょう」


 こともなげに言う僕を、王子は、宇宙人でも見るような目で見た。


「それがわかっていて、なぜ」


 僕は頷いた。


「もちろん、王子の指示は忘れていません。わたくしはこれを、王子の婚約解消に利用しようと考え、ヴィルジニー様に協力しています」


 それを聞いた王子は、目を見開いた。


「なに? ……いったい、どういうことだ?」


「そうむずかしい話ではありません。確かに寄付集めをするとか、貧民街に井戸を作るなどといったことは、ヴィルジニー様の評価を高めます。しかしそれは、、です」


「……なに?」


 僕は王子を見つめて、言った。


「この井戸建設では、



 表情を固くした王子は、辛抱強く聞いた。


「なんだと?」


 僕はこともなげに繰り返した。


「事故が起きます。怪我人、悪くすれば死人も出るでしょう。スケジュールの遅延はもちろん、補償金も支払わなければならない。そのようなことが繰り返し起きれば、寄付で集めた資金はすぐに枯渇します」


 僕が言うことを、信じられない、といった様子で聞く王子。


 もちろん王子は、僕が未来を予知した、などとは思っていない。

 事故は起こるのではなく、僕がなんらかの方法でのだと、わかっていた。

 わかっていたからこそ、そういう顔になったのだ。


 それでも構わず、僕は続けた。


「にっちもさっちもいかなくなったときに、王子、貴方あなたが不足分を供出します。そのあとは、事故はおさまり、井戸が完成した暁には」


 僕は、芝居がかった様子で両手を開いた。


「井戸は“フィリップ王子の井戸フィリップス・ウェル”になっているでしょう。その時に、ヴィルジニー様のことを覚えている者は、おりません」


 王子は動揺した様子で、床に目を走らせる。


「では……それでは、ヴィルジニーは?」


 僕は大げさに肩をすくめる。


のがよいでしょう」

「責任?」

「責任を取るのが、責任者の仕事、義務です。失敗の責任を取る。当然の流れです。

 作業員に犠牲者を出した上で、尻拭いを王子にさせた、となれば、婚約を解消して社会的に責任を取らせる……文句を言う者は、誰もおりますまい」


 どこか遠くを見つめる王子。

 その表情を確かめつつ、僕は言った。


「寄付は上級貴族からも募ります。金策が順調に行けば、一年ほどで、ケリは付きます。ヴィルジニーを厄介払いできるし、王子の評判も高まる。王家に興味のない平民も、王子を崇めるでしょう」


「しかし……」


 王子は戸惑いを隠せない目で、僕を見上げた。


「キミは、さっき言ったな? 貧民街に井戸を作ると言い出したのは……ヴィルジニーだ、と」


 僕は小さく頷く。


「衛生状態の悪い貧民街の様子に、心を痛められたようですよ。井戸があれば少しでもよくなると知って、そのようなことを言い出したのです。利用できると思って乗っかったのは、わたくしの方ですね」


 そして皮肉な笑みを浮かべてみせる。


「思いつきは良かったと思います。しかし彼女は温室育ちの貴族令嬢。現実を知らない。今回は、それが我々にとって優位に働く」


 言葉を失う王子に、僕はまた、おどけたように肩をすくめる。


「今日までのやりとりで、僕は彼女に信用されていることがわかります。誘導するのは容易い。皮肉にも、彼女は、自分が歩む破滅への道を、自ら舗装しているわけですが、それに気付かれることのないまま、終わらせることができるでしょう」


「キミは……ヴィルジニーは、キミを信用しきっている、それをわかっていて、そういう彼女を裏切ろうというのか?」


 王子の言葉を、僕は苦笑して受ける。


「確かに、酷い裏切りだと思います。しかし、王子とヴィルジニー様の婚約を解消するにあたり、王子の責任にしないためには、ヴィルジニー嬢を悪者にするしかない。――その点については、王子もそのようにお考えだった、と理解していましたが」


「……確かに、そうだが」


「ヴィルジニーの不品行など、待つ必要はございません。この作戦なら、彼女の振る舞い如何に関わらず早急に、しかもこちらが望むタイミングで、彼女の評判を貶め、婚約解消に至らせることが出来ます」


 考え込むように顎に手を当てた王子に、僕は言った。


「これがわたくしの、真の井戸建設計画です」

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