63. キスの理由

 夕食の提供はとっくに終わったという時間帯だったが、僕は食堂に向かっていた。


 眠ろうとしても、眠れなかったのだ。


 食堂は、夜間に飲み物や軽食を必要とする生徒のために、二十四時間、スタッフがいた。昼間よりはその数もずっと少ないし、使える席も照明も減らされてはいたが。

 王立学園の食堂は、ただ三食の提供だけを目的としているのではない。前世の学校食堂というより、貴族家の厨房・食堂周りを、そのまま大規模にしたような性質のものなのだ。


 僕が訪れたのは遅い時間帯だったが、それでも数人の利用者がいた。テーブルを囲んでヒソヒソと話をしている小グループ。ひとり書物を広げ、ティーカップを傾ける生徒。肩肘を突いて動く様子がない生徒は、あれは寝ているのだろうか。


「ステファン様?」


 席を探している僕を見つけて声を掛けてきたのは、僕が名前を知る唯一の給仕係、セシル。


「こんばんは。珍しいですね、こんな時間に」

「こんばんは。夜勤ですか?」


 セシルは返事の代わりに肩をすくめる。


「ココアでよろしいですか?」

「よろしく」


 他の生徒から十分に離れた席に腰を下ろすと、ほどなく、セシルがトレイを抱えてやってきた。


 用意されたカップは二つ。

 彼女は、ひとつを僕の前に置くと、もう一つを隣に置いて、自らその席に座った。


「サボりですか?」

「夜は暇なんです。ステファン様が来てくださってよかったわ」


 悪びれた様子もなくため息を吐いて、セシルはカップに口を付けた。


「サボりだなんて、人聞きの悪い。ちょっとした息抜き、休憩です」


 今更のように、言う。


 僕は苦笑しておいてから、ココアを一口含んだ。温かく、甘くて、ホッとした。


「ステファン様には、話し相手が必要なんじゃないかなあ、と思って」


 セシルは、こちらを横目で伺うようにしていた。

 僕は先程とは違う、自嘲気味の苦笑を浮かべてから、肩をすくめた。


「そういうふうに見えます?」


 冗談めかして聞くが、セシルは微笑んだ。


「お姉さんの目は、誤魔化せませんよ」


 ふと、僕はセシルを、まじまじと見てしまう。


 唯一、名を知っている、とは言っても、学園の使用人に過ぎない。彼女の人となりを、あまり気にしたことはなかった。

 彼女自身「お姉さん」と言ったが、確かに見た目、歳は学園生徒よりは多少上という感じで、二十歳前後だろう。そういった、見た目でわかること以上のことを、僕は知らなかった。


「セシルさんは、どうしてこの仕事を?」


 僕が聞くと、セシルはその表情に訝しげな色を浮かべる。


「話を聞くのはわたくしの方、かと思いましたが」

「セシルさんに話せる類の話かどうか、確かめておきたくて」


 セシルは微かに首を傾げたが、やがて頷いた。


「面白くもない話です。わたくしの実家は、地方の男爵家でしたが、侯爵の不興を買い改易されました。奉公先に出ていたわたくしは、侯爵におもねって解雇。見かねたその侯爵の御令嬢が、ここに紹介してくださり、なんとか転がり込んだ、というわけです」


 僕は思わず、眉をひそめる。


「えっ、それって……いや、確かに笑える話ではありませんが、ちょっと面白……いえ失礼、興味深い話ですよ。そうか、貴族家の御令嬢、でいらっしゃったのですね」


 セシルはわざとらしく肩をすくめる。


「地方の男爵家など、平民と大差ありません」

「それで、えーっと、解雇した奉公先ではなく、問題の発端の侯爵の、御令嬢が?」


 セシルは、内緒話をするように顔を近づけた。


「問題は父の方にあったのですから、問題の発端などとは、おっしゃらないでください」

「では、お父上は」

「さあ。生きているのか、死んでいるのか」


 姿勢を戻したセシルは、澄ました顔で言って、カップに口を付けた。


 改易、というのは、要するにお取り潰しのことだ。問題が父、つまり男爵本人にあったということなら、おそらく不正、不義、裏切りの類だろう。よくて追放、悪くすると処刑されている案件だ。これ以上は、好奇心で追求できない。


「その侯爵ってもしかして……つまり、侯爵の御令嬢、というのは」


 侯爵家はもちろん複数あるが、一連の言葉から思い浮かんだのは、一人だけだった。


「マリアンヌ・ドゥブレー様です」


 やはり。


 ここで出てくる、マリアンヌの名前。

 何のめぐり合わせだろう。なにか意味があるのか。

 それとも、単なる偶然か。


「マリアンヌ様とは、なにかご縁が?」


 僕の問いに、セシルは首を横に振る。


「いいえ。マリアンヌ様は、わたくしの顔もご存じないと思いますよ。マリアンヌ様のご紹介があった、と知らされたというだけですから」


 ではマリアンヌ本人の関与が本当にあったかどうかも定かではない、ということか。

 しかしその一方で、この元貴族の娘は、マリアンヌとはっきりと結びついていないながらも、どうしても恩を感じる、そういう形を仕組まれている。


 だがセシルが言うように、彼の父が処分を受けているのなら、その娘であるセシルが無罪放免というのは、普通はないのだ。それが引き続き王都に住むことを許され、しかも王立学園に職があるというのは、破格の待遇だ。


 処分を下した侯爵の立場でそのような温情を掛けるのは、他への示しが付かない。

 侯爵本人がそれをできないから、愛娘の進言を受け入れたという形にしたのだ、と思い付く。

 セシルを助けたマリアンヌという構図には、いろいろな大人の事情、思惑が絡まっているのだとは思うが、しかしマリアンヌ本人がまったく知らぬところで進められた、というのも、やはりないように思えた。


 貴族にとっては、味方は、一人でも多いほうがいいのだ。


 ということは、ドゥブレー家にとって、セシルになんらかの利用価値がある、と判断されたとも考えられるが――


「さあ、次はステファン様の番ですよ」


 セシルが言い、思索から我に返った僕は、少し悩む。


 いまの話の後にするような話か、とも思ったのだ。


「くだらないですよ、だいぶ」


 そう言ったが、セシルが視線で促すので、僕はあきらめて口を開いた。


「その……キスって、どんなときにします?」


「ん? キス?」


 首を傾げたセシルが、確かめるように唇を突き出してみせるので、僕は頷く。


 セシルは、少し考えてから口を開いた。


「そりゃあ……お互いの親愛の情を確かめ合う時、とか」

「親愛の情?」

「家族でキスするときとかはそうですし、恋人同士の好きって気持ちだって、親愛の情、でしょう?」


「――じゃあ、一方的な口づけは?」


 僕の問いに、わずかだが不審げな表情を浮かべるセシル。


「無理やり、ってこと?」

「っていうか、不意打ち、ですかね」

「……親愛の気持ちを、時?」


 セシルの答えが、だいたい僕の考えていたことと一致していたことは、僕をガッカリさせた。


 僕を悩ませていたのは、もちろん、王子の不意打ち的な口づけだった。僕はそれに、自分が納得できる、恋愛感情とはなにか別の理由とか動機、みたいなものを見つけられないか、と思っていたのだ。

 それをしなければ、気持ちよく眠ることなど出来ない、というのが、深夜校内を彷徨うことになった理由だった。


「不意打ち、されちゃったんですか?」


 セシルの問いに、うっかりうなずきそうになった首を、慌てて横に振る。


「いやっ、その、例え話……というか、聞いた話――」


 そんな僕に、セシルは面白いものでも見るような目を向ける。


「されちゃったんだ?」


 どうやら誤魔化されてはくれないようだ。

 僕はせめてもの抵抗として、問いには答えず、顔を背けた。


「それで眠れないぐらい悩んでる、と」


 知ったふうな口で言うセシル。


「不意打ちでキスしてくる理由か――」


 不自然に言葉を切ったので、目だけを向けると、彼女はいたずらっぽい視線を返し、口を開いた。


「あとは……そうですね、唇の感触を確かめるため、とか?」


 そう言って、セシルは自らの唇を舐める。


「ステファン様の唇、柔らかそう」


「確かめてみます?」


 すかさずふざけてみせると、セシルは首を傾げる。


「その余裕ができるステファン様が、キスひとつでそこまでパニックになるのがわかりません。御令嬢に唇を奪われたところで、どうということではないでしょう?」


 そこまでいうと、意地悪く微笑む。


「意外と初心ウブなんですね、ステファン様って」


 そう、セシルはまだ、キスの相手がフィリップ王子――同性、男だとは、気付いていないのだ。


 確かに、言われる通り、それをしたのが女性だったら。


 例えば……と、考えて、最初に思いついたのがセリーズだったが、セリーズにやられていたら、僕は怒っていたかもしれないな、と考える。主人公である彼女に好意を寄せられてしまう、というのは、攻略対象である僕にとっては違う意味を持つからだ。


 脳裏からセリーズを追い払い、代わりに別の、適当な女性を持ってくる。最初に思いついたのはベルナデットとリリアーヌで、僕と結婚しても良いなどと嘯いたベルナデットは気持ち悪いので除外して、リリアーヌをモデルにして考えてみる。


 ダメだ。脚は好みだが先日彼女にされた仕打ちを思い出してしまって、やはり怒りしか湧いてこない。


 僕は首を横に振った。


「そういうのじゃなくて……相当、仲が良くないと、許されないでしょ、やっぱり」

「仲、良くない相手だったんですか?」

「そういうわけでは……」


 むしろ逆で、だからこそパニックになっているんだ、と思い付く。


 セシルは訝しげな目で僕を見たが、これ以上追求して新たな情報を得ようというつもりはないらしい。

 その代わりに、いたずらを思いついた笑顔を浮かべると、顔を近づけてきて、こう言った。


「なんだったら、ホントにわたしとキスして、記憶の上書き、しときます?」


 一瞬、その艶めかしい唇に、視線を奪われてしまう。


「やめときましょ」


 僕は彼女から離れるように、カップへと向き直る。


わたくしとは、キス、できませんか?」


 冗談めかしてはいたが、まだ言うセシルに、僕は皮肉っぽく微笑んだ。


「セシルさんとは、キスできそうなんで、だから、やめとくんですよ」


 それを聞いたセシルは、笑う。


 たぶん、ここでセシルとキスをしても、僕はそれを引きずるようなことはないだろう。

 王子に関しても、同じだと考えればいいのだ。

 そう、挨拶のようなもの。ただじゃれあっただけ。どうってことない。


「でも、ありがとうございました。おかげで、さっきよりは眠れそうな気がしてきました」

「そう。お役に立てて、よかったですわ」


 カップを空にして、もう一度、お礼を言い、僕は席を立つ。


 寮への帰り道、セシルの柔らかそうな唇を思い出し、やっぱりキスさせてもらっとけばよかったかな、と思ったが、余計なことをしてヴィルジニー攻略に差し障りが出る可能性を思いつけば、しなかったのが正解だった、とも思う。


 ヴィルジニー……そう、僕が唇を狙うなら、それはあくまでも、ヴィルジニーでなければならない。

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