55. 悪役令嬢の提案
ニコニコしながら立っていたのはリオネルで、どこから聞かれていたのか、と心配になる。
少なくとも先程、ヴィルジニーがこちらを向いていたときまでは、いなかったはずだが。
「お邪魔かと思いましたが、次の作戦、と聞こえましたので」
本当に邪魔だった。はっきりと拒絶された直後、とはいえ、仕切り直しのためにも、ヴィルジニーとの貴重なコミュニケーションの時間であったのは、間違いないのに。
しかし、まさか追い払うわけにもいかず。
「奉仕活動……?」
つぶやくように言ったヴィルジニーが、僕の顔色をうかがうので、曖昧に頷いて返す。
そう。真面目なリオネルには、そのように理解してもらっていた。
彼は未だに、ヴィルジニーの一連の行動が、改心した彼女が貴族の義務を果たすべく行っている、つまり奉仕活動だ、と信じているのだ。
リオネルの笑顔と見比べたヴィルジニーは、リオネルを取り込んでいる方便を理解してくれたのだと思うが、なぜか僕をひと睨みしてから、リオネルへと向き直った。
「そうです」
今度は、リオネルが僕と彼女の顔を見比べた。
「見たところ、アイデア出しに難航されておられるようですね?」
余計なことを言われてはたまらん、と否定しようと思った僕より早く、ヴィルジニーが「そうなのです」と言った。
「まったく、ステファン殿は頼りにならず」
えっ? そりゃあないでしょ、僕がこれまでどれだけ……
あまりの言われように、思わず目を見開いてしまう僕を、ヴィルジニーは無視。
一方、リオネルは、どこか嬉しそうな様子で口を開いた。
「やはり、市井の恵まれない人々のためになるようなことをするのが、よろしいかと思うのですよ」
それはマズイ。その手の本物の慈善活動では、ヴィルジニーの評判が上がってしまう。
僕はその方面に行くのを阻止したかったが、貴族の奉仕として真っ当なその提案を否定する、うまい言い訳がとっさには出てこず、言葉を探しているあいだに、ヴィルジニーに先を越される。
「恵まれない……できるならば、あまり関わりたくありません」
そう言ったヴィルジニーは、不快げに顔をしかめた。
「あのような臭い……堪えられません」
関わりたくない、というヴィルジニーの言葉は歓迎するが、その後の「臭い」の意味がわからず、首を傾げる僕。
ところがリオネルは、それだけでわかったのだろう、頷いた。
「チェバル通りでのことですね? 貧民街の」
言われて、思い出した。
セリーズの自宅に行ったときのことだ。確かに、下水の臭いがしていた。
チェバル通りは下町にしては整った町だったが、あのとき確か、臭いは貧民街の方から漂ってくる、と、リオネルは言っていた。
「なぜ街全体に、あのような臭いがしているのです?」
ヴィルジニーの問いに、リオネルがまたもや答えた。
「水のせいです」
「水?」
「あの通り向こうのあたりは元々、近くを通る川を水源としておりました。ところがこの川は、ずっと王都を流れてきた、下流域にあたるのです。上流の街が発展した現在では、多くの生活排水を含むようになってしまい……」
リオネルが言葉を切ったのは、ヴィルジニーがやはりわかりやすく顔をしかめたからだ。
「つまり、あの臭いは、川が原因だと?」
「川そのものの臭いではなく、川の水の質が悪く、使えなくなってしまったこと、の方に原因があります。洗濯や掃除に、清潔な水をたっぷり使う、ということができませんので」
自分で掃除や洗濯などしたことがないだろう貴族令嬢に、丁寧に説明するリオネル。
つまり悪臭の元は町の衛生状態にあり、そのそもそもの原因は、清潔な水が得られなくなったことにある、ということだ。
それを聞いて、ヴィルジニーは呆れたように言った。
「川の水が悪いなら、井戸の水を使えばいいではないですか」
パンがなければケーキを食べろ、みたいな顔で言うヴィルジニーに、リオネルは辛抱強く説明する。
「そもそも貧民街には、井戸がありませんからね」
「では、作ればいいではないですか」
「確かに。しかし、井戸というのは、作るのがなかなかに難しいのです。確かに王都は地下水が豊富で、それなりに掘れば必ず出る、とは言われておりますが、井戸掘りは経験と技術が必要な、難度の高い土木工事。それができる職人と、作業員。なにより、かなりの資金が必要となります。そのようなこと、貧民街の住民ではとても……」
リオネルは首を横に振った。
「王国政府も、井戸の必要性はわかっていて、公共事業としてあちこちに作る計画はあるようなのですが、貧民街にまで行き届くのは、だいぶ先になるでしょうね」
ヴィルジニーは顎に手を当て、考え込むようにした。
「井戸を掘るのは公共事業……つまり、国王が、それを望まれている?」
「えっ? ……ええ」
ヴィルジニーの唐突と思える問いに、リオネルは戸惑いつつも、頷いた。
「広く国民が豊かになること、それが国王陛下のお望みであられますから」
それを聞いたヴィルジニーはかすかに俯くと、その形の良い顎を指先で撫でながら、「陛下の望みは……王子の望み……」などとつぶやいていたが、やがて、顔を上げた。
「その井戸を……
「えっ? ヴィルジニー様が、ですか?」
「なにも、
驚いたリオネルに、ヴィルジニーは言った。
「例えば……そうですね、お金を出す、とか?」
ヴィルジニーの発言に、リオネルはまず、目を見開いた。
それから、感極まった様子で、身体をぶるっと震わせる。
「素晴らしい……このリオネル、感服いたしました。ヴィルジニー様、貴女がおっしゃるのは、とても素晴らしい……素晴らしい慈善事業だと、
「そっ……そうですか?」
偉丈夫のあまりの感激っぷりに、若干引き気味になりつつも、賞賛の言葉を受け入れるヴィルジニー。
リオネルの反応は多少、過剰だとも思えるが……しかし、ヴィルジニーの過去の振る舞い、評判を知っていれば、貧民のために自らが井戸を作る、などという言葉がその口から出てくるなどと、到底信じられるものではない。それを目の当たりにしてしまえば、感動を禁じ得ないのであろう。
その動機がとてつもなく不純であることを知っている僕だけが、その限りではないのである。
しばし、感動に打ち震えていたリオネルだったが、ふと、何事か気付いたかのように、今度は失望した様子で、がくりと首を折る。
「大変に良いアイデアだとは思います。しかし……井戸掘りはかなりの長期工事。失礼ながら、いかな公爵令嬢たるヴィルジニー様といえど、それほどの資金のご用意は、困難かと……」
リオネルの指摘に、ヴィルジニーは不満げに口元を結んだが、反論はしない。
そう、公爵令嬢とはいえ、未だ未成年の身。自由になる金など、たかが知れている。ひとを短期間、少数雇う程度ならともかく、工事事業となると、現場監督や技術者などの高給取りも含めて、より多くの人数を、しかも長期間、雇わなければならない。
「時間がかかるのは、困りますね」
ヴィルジニーは、資金面には触れず、そう言った。さっさと結果を出して早く王子に褒められたい、と考えるヴィルジニーにとっては、数カ月を要するような井戸工事の完成など、待ってはいられないのだろう。
「残念です。良いアイデアだと思ったのですが、さすがに無理かと」
「そうでもありません」
話の推移を見守るだけだった僕が口を挟み、二人は僕の方を見た。
貧民街での井戸建設、など、押しも押されぬ慈善事業。
そんなことをやらかせば、ヴィルジニーの名声が高まるのは、必至。
だが……それをわかっていて、僕は言った。
「大変いいアイデアです。いま、お二人が言った問題点は、両方解決できます」
「本当に?」
訝しげに眉をひそめたヴィルジニーに、僕は力強く頷いた。
「はい。まず……なにも、本当に井戸を作る必要はないのですよ」
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