54. 抗えない後退

 放課後。


 学生寮に戻るため歩いていた僕は、途中の校舎一階、ヴィルジニーの社交場ヴィルジニーズ・サロンが借りている講堂の開け放たれた窓に、ヴィルジニーの姿を見つける。後ろ姿だが、あの美しい金髪は、間違いない。


 変態扱いされるのは自業自得だが、話しかけるな、と言われたのはショックだった。午後の授業、なにをやったか覚えていないほどだ。


 直ちに弁解したい気分ではあったが、あの手の気の強い女性は、しつこくすると逆効果だろうと思い付き、ほとぼりが冷めるまで時間を置こう、と思っていたところだった……のだが。


 そっと、別の窓から中を覗く。

 今日の課外活動は、ダンスレッスンのようであった。参加者には男子生徒もいる。もちろん、真剣な表情の田舎貴族もいるが、中には王都の社交界で見た顔もあって、お前ら踊れただろ、なにしてんだ? という気になる。


 彼らの表情を伺うと……パートナーの令嬢に鼻を伸ばしているのがわかる。どうやらこの場を、男女の出会いの場として利用している様子だ。


 同年代の貴族の子女が集まるこの学園生活を、結婚相手を見つける機会と考える者は、多い。

 ここでそういう相手が見つからずとも、貴族ゆえ、結婚相手にはいずれ適当な相手をあてがわれたりすることになる。だがこの学園生活は、貴族の子女には数少ない、恋愛結婚をするチャンス、その出会いの場となりえるのだ。


 しかし……自分が考えた課外活動が、まさかそういうふうに利用されるとは。

 してやられた感に苦笑しつつ、更に伺う。


 窓際に立つヴィルジニーは、どうやら、一人。貴族令嬢としての教養はすでに身に付けているヴィルジニーには、ダンスの練習になど参加する必要はないということだろう。室内に目を走らせると、覚束ない足取りでパートナーの男子生徒に掴まるセリーズは受講者側だろうが、ベルナデットは教える側に回っているようだった。リリアーヌの姿はない。


 窓を挟んでヴィルジニーの背後、という位置に、そっと近づく。床の高さのせいで、彼女の頭がちょうど、僕の顔と同じぐらいの高さにある。その美しい髪から漂う芳しい香りを楽しみつつ、その後頭部に向かって、僕は囁くように言った。


「ヴィルジニー……お話が」


 彼女は驚いた様子もなく、ちらりとこちらを確認しただけで、視線はすぐに前に戻したが、返事はしてくれた。


「なにか?」


 今度は「話しかけないで」とは言われず、その点にはほっとしたが、その口調は冷たく、思わず肝が冷える。


「いえ、あの……申し開きの機会を、いただきたく」


「申し開き?」


 ヴィルジニーはまたもや、目だけでこちらを確かめたが、なぜかくすり、と笑った。


「もう、いいのです、そのことは」


 意外にも優しく言われ、僕は拍子抜けする。


「いい、とは?」


 それでもそう聞くと、今度は顔を半分だけ向けて、ヴィルジニーは意地悪く微笑んだ。


貴方あなたがリリアーヌに交際を申し込んでも、わたくしには何の関係もございませんものね」


 そう言ったヴィルジニーの目は、笑っていない。


 もちろんヴィルジニーが言っているのは、昨夜の、食堂で僕が口にした冗談のことだ。

 そう、冗談。あのときはリリアーヌに、ちゃんと冗談だ、と断ったはずだ。

 彼女は一体、ヴィルジニーになんと言ったのか。


 リリアーヌを内心で罵る。


 しかし危急の問題は、ヴィルジニーの怒りの方だ。

 その理由はよくわかる。そりゃあ、自分のことを好きだと言っておきながら、他の令嬢にも言い寄っている、と知れば、見くびられている、馬鹿にされている、と怒って当然だ。


「リリアーヌ嬢が、なんとおっしゃられたのかはわかりませんが」


 僕は声が大きくならないよう、顔を近づけ、囁くように言った。


「僕が本当に好きなのは、貴女あなただけです」


 ヴィルジニーはしばらく、微動だにせず、また声も発しなかった。ただその頬が、微かに赤くなったような気がした。


「そのようなこと……このようなところで、言うものではありません」


 口調こそ変わらなかったが、機嫌はなおしてくれたようだった。僕は表に出さないように、ほっとする。


「誰かに聞かれでもしたら、立場が悪くなるのは、貴方の方ですのよ?」

「確かに。それは困りますね」

「それに、いくらそのように言われたからって……わたくしがどうこう、というのは、ありませんから、勘違いなされぬよう」


「どうこう、とは?」


 とぼけて聞くと、ヴィルジニーは、ついにこちらに向き直った。


「もちろん、貴方がわたくしにどのような想いを寄せておられようが、心に秘めている分にはどうということもございません。しかし、わたくしはフィリップ王子と婚約している身。そのわたくしに、繰り返しそのようなことをおっしゃられる……貴方はわたくしに大変無礼なことをしている、そういう自覚はお有りですか」


 怒りをたたえた視線を、突き刺してくる。


 確かに言われる通り、王族と婚約している彼女に、言い寄ろうとしているかのような僕の言動をみれば、そうすればなびく女だと思っている、というふうにも取れる。侮辱的だと思われても仕方がない。


 ここは素直に謝っておくべきだ。頭を下げる。


「謝罪いたします。申し訳ありませんでした、ヴィルジニー様。もう軽々しく口に出すことはいたしません」


 そういうと、ヴィルジニーはぷいっと顔を逸らす。


「わかればよろしいのです」

「ただ、リリアーヌ嬢にどうこう、というのは、本当にないということは、わかっていただきたく。話の流れ、例え話をわかってもらうために口にしただけで」


 ヴィルジニーは、じろり、と僕を睨んだが。


わたくしには関係のない話ですが、貴方の言ったことは、覚えておきます」

「ありがとうございます」


 わかってもらえた、という部分には、安心する、が。

 ヴィルジニー攻略という目的に対しては、大きく後退してしまった、と気付く。


 おそらく彼女は、僕のことをしていた。そういう状態であれば、気付かれぬうちに親密度を高める、ということが可能だったはずだ。


 しかし、今回の出来事で、ヴィルジニーは僕のことを、異性として見ることはない、とはっきり確認することになった。


 ヴィルジニーに、一線を引かせてしまったのだ。


 すべての発端は僕の言動。ゆえに自業自得、ともいえるが……そもそも、あの食堂で、リリアーヌとベルナデットを相手にしていた段階では、ヴィルジニーとの関係は、より悪いと認識していたのだ。予定外の告白でドン引きされているとばかり思っていたものが、考えていた以上にいい状態を作っていたと気付いたのは、そのあとのことだ。


 知らずにやってしまった行動で、せっかく進んでいたものを、台無しにしてしまった。


 僕はヴィルジニーに気付かれぬように、そっとため息を吐いてしまう。

 また、スタート地点に押し戻されてしまった……そういう気分だ。

 昨夜の浮かれた気分は、もはや遠い出来事のよう――


 と考えたところで、いや、そういえばヴィルジニーが約束してくれた“報酬”については、まだ生きてるな、と思い出す。

 それを希望、生きる糧にしよう、と自らを奮い立たせる。



「そんなことより」


 ヴィルジニーはダンス練習の方へ向き直った。講師役の令嬢の熱の入った指導に、受講生は一生懸命ステップを辿っている。


「次の作戦の方は、どうなっています?」


 そのままの姿勢で、言う。


「えっ? ……昨日の今日ですよ?」


 ヴィルジニーは、これみよがしに溜息を吐く。


「一晩も経っているではありませんか」

「……そう簡単には出てきませんよ」


 そう。そう簡単には出てこない。

 なにせ今回は、ハードルが高い。

 王子には認めさせつつ、かつヴィルジニーの世間の評判が上昇しないこと、という面倒くさい条件が付いているのだ。


 そのとき。


「次の奉仕活動のご相談ですか?」


 突然、背後から掛けられた声に、僕は驚いて振り向く。

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