第5話

53. 地に落ちた評判

 シルヴァン・ドゥブレーの待ち伏せに合ったのは、午後の授業のために移動中の廊下でのこと。


 彼は明らかにこちらを見ていたが、僕の方からできるような話はない。向こうが話しかけてこないのなら、と無視して行ってしまおうとすると、シルヴァンは慌てた様子で立ちふさがった。


「ちょっ……待てよ」

「どうした?」


 シルヴァンは、近くを歩いていた別の生徒が十分に離れるのを待ってから、答えた。


「どうした、じゃない。例の件、どうなったんだ」

「例の件って?」


 僕がとぼけてみせると、シルヴァンはうんざりした様子でため息を吐いた。


「そういうのはいい。君が王子に確かめるって言っただろ。殿下の婚約の件だ」


「ああ、それね」


 僕はもったいぶって頷いた。


「じゃないかと思ったけど、別の件があったかなと思って」


 フィリップ王子とヴィルジニーの婚約の件について、僕から王子に聞いてみる、とシルヴァンに約束してから、十日ほどが過ぎている。彼にしては、まあまあ我慢が出来たというところだろう。


「それで、どうなんだ?」


 はからずも、僕は彼の疑問について、答えを得ていた。

 しかし、その情報の入手方法に、問題があった。


 王子が自ら、僕を信用に足るものとして、その話をしてくれたのだ。


 おそらく、その件について、真実を知っているのは、王子、そして僕だけだ。

 だからこの話が広まってしまうようなことがあれば、漏らしたのは僕だ、とすぐに王子にバレてしまう。


 シルヴァンのことだから、王子がヴィルジニーとの婚約をいずれ解消するつもりだ、と知れば、嬉々としてそれを彼の姉、マリアンヌ嬢に報告するだろう。マリアンヌ嬢は更にそれを誰かに話す、というようなタイプではないが……そういうことになれば、もはやどこまで話が広まるか、わかったものではない。


 おまけに、フィリップ王子が、マリアンヌ嬢になびく、ということも、現状ではちょっと考えられない。


 僕から申し出たことだし、シルヴァンには悪いと思うが、話せる状況にはない。


 ここは誤魔化すことにして、僕は首を横に振った。


「機会を伺ってはいるが、なにせ内容がデリケート過ぎる。そう簡単に聞けない」


 シルヴァンは頷いてみせたが、納得した様子ではない。


「うまく聞き出すって言ったろ?」

「そうしようとしてる」

「どうだか」

「なに?」


 僕が怪訝な顔をしてみせると、シルヴァンは咎めるような目で言った。


「君は王子を避けているだろ」


 シルヴァンの指摘は、誤解だ。


 確かに昨日、そして今日は、フィリップ王子とは顔を合わせていない。あの戦技訓練の試合前後のやり取りを除けば。


 僕が避けているからではない。確かに王子の“謎発言”以降、顔を合わせるのは気まずいが、かといってわざとらしく避けるのも、よくないと思っていた。王子には忘れてくれ、と言われていたからだ。


 王子の方が、僕を避けているのだ。

 彼がそういうことをするから、僕も更に気まずくなってしまうのだが。


 しかし、避けているのは王子の方だ、などと断定的に言ってしまえば、なぜ、と問われるだろう。

 僕は目を逸らしてしまったが、こういう反応をしてしまうと、シルヴァンの言い様を肯定した、と捉えられてしまったかもしれない。


「そんなことはない」


 口では否定しておく。


「タイミングが合わないだけだ。迂闊にできる類の話ではないし」


「そうだろうな」


 シルヴァンは口元に皮肉を浮かべて、続ける。


「ヴィルジニー嬢を構うので忙しいしな」

「なんだと?」


 さすがに色めきだった僕だが、更に言い募ろうとしたシルヴァンは、僕の背後に目をやり、口を閉ざした。


わたくしのお話ですか?」


 背後からの声に、驚いて振り返る。


 そこに来ていたのは、話に出た当人、ヴィルジニー・デジール公爵令嬢。取り巻きのリリアーヌ、ベルナデット、そしてセリーズも一緒だ。

 ヴィルジニーは口元を笑みの形にしながらも、冷たく細めた目をシルヴァンへと向けた。


「このように誰が聞いているかわからないところで、女性レディの噂話など、褒められたものではありませんよ、シルヴァン・ドゥブレー殿」


 たっぷりの皮肉を込めて、言う。


 ヴィルジニーのデジール公爵家、そしてシルヴァンのドゥブレー侯爵家は、長く国内政治の主導権を争ってきた、因縁ある間柄だ。


 フィリップ王子の婚約者選びについても、そういった政争の一部、という側面があった。

 その婚約者の座を射止めたヴィルジニーを、シルヴァンが一方的に敵視している、というのではない。

 上級貴族家の令嬢として、ひとつ年上のマリアンヌと、常に比較されてきたヴィルジニーもまた、彼女の家ときょうだいを、ライバル視していた。


 何代にも渡る敵同士であることは、公然の秘密なのだ。


 そういう相手の指摘だ。素直に非を認めるのは癪だったのだろう。シルヴァンは一瞬、躊躇う様子を見せたが、それでも、無作法をしたという事実が、結局は彼の頭を下げさせた。


「大変失礼いたしました、ヴィルジニー様」


 それだけ言ったシルヴァンは、顔を上げるが早いか、僕には何も言わずにさっさと踵を返す。


 逃げたか。


 話は途中だったが、続けたいわけではない。

 立ち去るシルヴァンを、僕はホッとした思いで見送る。


 ヴィルジニーに助けられた形になった。


 それにしても、ちょうどいいタイミングだった。ヴィルジニーと話をしたいこともあったし。

 僕は令嬢方の方を振り返り、口を開こうとするが……なぜか、ヴィルジニーは距離を取ろうとするかのように後ずさった。


「……ヴィルジニー、様?」


 声をかけると、ヴィルジニーは自らを守ろうとするかのように両腕を抱き、軽蔑の視線を、僕へと向けた。


「変態のかたは、話しかけないでいただけます?」


 一瞬、何を言われたのか、わからなかった。


 変態? って、えっ? 僕のこと?


 わけがわからず、ヴィルジニー、そしてその後ろの三人に視線を巡らせた僕は、そこでようやく、状況を察する。


 口元に冷笑を浮かべつつ軽蔑の視線を向けてくるリリアーヌ。扇子で口元を隠しているが、可笑しそうにしているベルナデット。そして、器用にも気の毒と蔑みを半々に浮かべたセリーズ。


 僕はそのリリアーヌ、ベルナデットを睨みつける。


 おそらく、昨夜の食堂での出来事――リリアーヌとベルナデットにした僕の“セクハラ”を、面白おかしく報告されてしまったのだ。

 その後の、ヴィルジニーとの密会であったことの方が衝撃的で、そのことをすっかり忘れていた。


「ヴィルジニー様……お二人に何を言われたかわかりませんが、誤解があります」


 僕が言うと、ヴィルジニーは、その軽蔑の表情を、いっそう険しくした。


「誤解だなどと……わたくしが、二人の話だけで、判断したとでも?」


 言われて――僕はようやく、そうだった、と思いつく。


 僕は昨夜、ヴィルジニーに「踏んで欲しい」などと、おおよそ変態としかいいようがない要求をしたのだ。


 そういう経緯があった上で、リリアーヌやベルナデットに、いやらしい目で見られた、などと報告されれば、これはもう、自らの印象を補強するだけではないか。

 特にリリアーヌに対しては、執拗に脚を眺めたりもしたし……ヴィルジニーへの発言と組み合わせれば、脚フェチの変態、と思われるのも、もはや仕方ないではないか。自分で認めるのもアレだが……


わたくしにばかりならず、他の令嬢にまでそのような目を向けるとは……」


 吐き捨てるように口にされた言葉に、リリアーヌが反応する。


「もしやこの男、ヴィルジニー様にもいやらしいことを?」


 そのように聞くところをみると、ヴィルジニーは僕の「踏んで」発言を、取り巻き達には話していないのだろう。もしも知られていたら、三人が向けてくる侮蔑の視線は、この程度では済まなかったはずだ。

 ヴィルジニーの、最後の情け、だったのかも。


 しかし、ヴィルジニーは、リリアーヌの問いに答えこそしなかったが、心底嫌そうに、両腕を抱いた手に力を込めた。


「えっ? あっ…… ちがっ! 違うんです!」


「なにが?」


 思わず弁解しょうとした僕に、冷たく言い放ったヴィルジニーはぷいっとそっぽを向くと、もうこちらの方は見ようともせず、あからさまに距離を取ってすれ違う。そのあとに、冷笑を浮かべたリリアーヌ、笑いを堪えるのがやっとという様子のベルナデットが続き、最後にセリーズが、当惑と軽蔑をやはり半々に浮かべたまま、それでも会釈してくれてから去っていった。


 僕は四人を、呆然と見送る。


 えっ? これ……マジでマズイ感じのヤツ?

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