51. 約束された報酬

 ヴィルジニーはまず、何を言われたかわからない、という顔をした。


 それから、両手で自分の、両肩にかかる左右の髪に触れる。


「髪に……はっ?」


 ヴィルジニーの表情がみるみる硬直していくのを見て、僕は、失敗した、と遅ればせながら気付く。


 口にする瞬間までは、最高に冴えた案だ、と思っていたのだ。

 なにせ、直接的に身体に触れるわけではない。割とオッケーが出るのではないか、という目算があった。


 だが彼女の反応を見るに――控えめに言って、ドン引きしている。


「ヴィルジニーの髪は……きっ、綺麗なので」


 僕は柄にもなく慌ててしまい、フォローになってないフォローをしてしまう。


 ところがヴィルジニーはそれを聞いて、頬を赤らめると、恥ずかしげに顔を背けつつ、自らの柔らかなマーメイドウェーブを撫でるようにした。


「そのような……そのようなことが、褒美になると言うのですか?」


 えっ? この反応……これ、意外とイケんの!?


 内心で喜んだのもつかの間、まんざらでもなさそうな顔をしていたかに思えたヴィルジニーは、我に返った様子で首を横に振る。


「いいえ! そのようなこと……婚約者のある身で、他の殿方に身体を触らせるなど、できるはずがありません!」


 あー……やっぱ髪の毛も、身体に入っちゃうのか。


 しかし、貴族令嬢なら、手を取ってもらったり、その手に口づけさせたりということは、普通にあると思うのだが。僕だって、彼女の肩を抱きとめたことすらある。まあ相手が恋愛感情を持っているとわかっていれば、やはり話は別か。


 やっぱりダメか。思わず肩を落としてしまう。髪がダメなら、許されるところなど……


「なにを……そのように落胆することですか?」


 ヴィルジニーの呆れたような声に、僕は力なく首を横に振る。


「それが許されるなら、今まで以上に頑張れると思いましたのに」


 大げさに言ってみせて、溜息をつく。


 その時、再び視線を逸らしたヴィルジニーの顔が、考えるような表情をしていることに、僕は気づいた。


「しかし、触れるのを許せるところなど……」


 つぶやいたヴィルジニーは、自分の両手や、その下にある自身の身体へと視線を巡らせていたが、やがて、いたずらを思いついたような笑みを、こちらに向けた。


「そうですね。足の裏、ぐらいのものでしょうか」


 その瞬間、まで。

 僕は比較的正常、というか、ごく一般的な性的嗜好を持つ、と自分で思っていた。

 普通に女の子と、普通にイチャイチャする、そういうのが好きだ、と思っていた。


 だが。


 足の裏、と聞いて、即座に頭に浮かんだのは、ヴィルジニーに踏まれる場面だ。

 なにをそんな変態的なことを、ありえないだろ、と思ったのも、一瞬のこと。


 直後に、それってすごくイイじゃないか、と思ってしまったのだ。


 もちろん、靴とか履いていたり、乱暴にされたりして、痛いのは論外だ。


 でも彼女の、生足……は無理だとしても、靴下ストッキングに包まれただけの足で、優しく踏んでもらえるのであれば。

 彼女の柔らかさとか、脚のしなやかさなどは、感じられるではないか。


 ヴィルジニーにだったら……踏まれたい!


 僕は、生まれてはじめて――前回の人生と通算して、はじめて、他人ヒトに、踏んで欲しい、と思ってしまったのだ。


「なんですか? その顔は」


 ヴィルジニーの言葉に、我に返る。

 見ると、彼女は気持ち悪いものでも見るかのような目を、こちらに向けていた。


 僕は、思わず緩んでいた自分の口元にようやく気づき、慌てて引き締める。


「触らせませんよ? 冗談ですから」


 軽蔑の眼で、言う。

 もちろん、触らせてもらえるとは思ってない。


「あのぅ、踏んでもらうっていうのは……?」


 僕が発した言葉が、ヴィルジニーの脳に浸透するのに、たっぷり五秒はかかった。


「はっ……はあっ!?」


 ようやく理解したヴィルジニーは顔を真っ赤にして、急いで椅子の上に逃れようとするように、その長い脚を折りたたんで引き寄せ、持ち上げた。まるで、床近くに足を置いていたら僕にとって食われると言わんばかりだ。気持ちはわからないでもないが、お気をつけ下さい、スカートの中が見えてしまいそうです。


 さすがにそれを見てしまうのは、と思い顔を逸らすと、彼女は察したのか、そのままの姿勢で僕をもう一睨みしてから、スカートの裾を引っ張った。


「これほどの変態とは、思いませんでした」


 正直言って、僕もです。


 しばしの沈黙、の後。


 僕が襲ってこないとわかったのだろう、ヴィルジニーは両足を揃えて椅子から下ろすと、スカートの裾を整え、それから深い溜息を吐いた。


「わかりました。褒美については、なにか考えましょう」


「えっ? 本当に?」


 思わず身を乗り出してしまった僕を、ヴィルジニーは見下すように睨みつける。


「気乗りはしませんが……貴方の希望はとても受け入れられませんし、かといってやる気をなくされて、十分な協力を得られないのも困りますし」


 思わずガッツポーズした僕に、ヴィルジニーは呆れた様子で続けた。


「言っておきますが、期待はなさらないように!」


 いやあ、無理です。しますわ、期待。


「踏んだりしませんから!」

「えっ? ないんですか?」


「まったく……貴方がそういう方だとは――。いっそ、切り捨てた方がいいかしら」

「えっ!?」

「費用対効果が悪いなら、そういう選択肢もありえるでしょう?」


 ヴィルジニーは、呆れ果てたと言わんばかりの溜息を吐いた。


「あまり情けないところばかり見せていると、本当に愛想を尽かしますよ」


 それはマジで困る。気をつけよう。


「情けない、と言えば」


 腕組みをしたヴィルジニーは、蔑むような半眼ジト目で、僕を睨みつけた。


「今日の、戦技訓練、ですか? あれもずいぶん情けないご様子でしたこと」


 彼女は再び、その脚を組んだ。


「負けたというのにヘラヘラとして。まったく」


「へっ、ヘラヘラとなど――」


 反論しようとした僕は、最初の試合で、声を掛けてくれたベルナデットとセリーズに手を振った、あのことか、と思いつく。

 自分としては、惨めな思いを和らげたかったゆえの行動のつもりだったが、確かに第三者から見れば、敗北を真剣に受け止めていないように見えたかもしれない。


 あのときの、険しい顔でこちらを見下ろす、ヴィルジニーの姿を思い出す。


「剣術が不得手なのはわかりますし、負けてしまったことは仕方ないにしても……あのような態度、見ているこちらが恥ずかしいですわ」


「それは……申し訳なく」


 なんとなく頭を下げてしまった僕だが――ヴィルジニーの発言に、感じる違和感。

 顔を上げた僕は、不思議そうに首を傾げてしまう。


「あの……どうしてヴィルジニーが、恥ずかしいと?」


「それは――」


 答えかけたヴィルジニーだが、途中で何かに気づいたように言葉を切ると、なぜか顔を赤くして、そっぽを向いた。


「あっ、貴方は……周囲では、今はわたくしの側近と認識されているのですから――配下の手落ちはわたくしの失態。恥じ入って当然です」


 先ほどリリアーヌには、鈍感、と言われたが。

 あれは相手リオネルが同性であったゆえ、ありえない、という先入観があったからだ。

 自分で言うのもなんだが、僕は人並みに、相手の心情を察する能力がある。


 だから、ヴィルジニーの赤くなった顔を見れば、言葉通りではない、とわかる。

 そもそも、本来の彼女の性格であれば、ただ、だらしない、と呆れるか、笑い者にしていただけのはずだ。


 この反応は、おそらく……ヴィルジニーは、僕に告白されてしまったことで、僕のことを意識してしまっているのだ。


 僕が、フィリップ王子に同じようにされて、彼を意識してしまっているのと、同じだ。


 おそらく、共感性羞恥の類……意識してしまった結果、僕の恥ずかしい場面を、我がことのように感じてしまったのだ。


 そういえばヴィルジニーは、好きだと言われたのははじめてだ、というようなことを言っていた。

 はじめてされた異性からの恋の告白に、きっと、否応なしに、意識させられてしまっているのだ。


 失敗だとばかり思っていた予定外の告白だったが、なかなかどうして。


 内心でほくそ笑んだ僕は、ヴィルジニーの表情を伺う。彼女が僕を異性として意識しはじめているのであれば、逆転の目は十分にある。


 しかし、焦りは禁物だ。意識は変えさせられたかもしれないが、状況は何も変わっていないのだ。現段階では、性急にことを進めようとするべきではない。

 ヴィルジニーのことだ。意識の変化に、自分では気づいていないかもしれない。指摘されれば頑なになってしまうだろう。ここは触れずにおくに限る。


 代わりに、僕は首を傾げた。


「僕が……いつから貴女の配下に?」


 何度かまばたきをしたヴィルジニーは、ニヤリと微笑む。


わたくしが言ってるわけではございません。周囲の者が、そのように認識している、という話です。だいたい、お互いの立場を考えれば、そのように思われても当然」


 ヴィルジニーの社交場ヴィルジニーズ・サロンの件などで、ヴィルジニーと一緒にいるところを、他の生徒に見られる機会はいくらでもあった。

 二人の間では、関係は対等、と確認したところではあるが、他者の前では僕からの呼び捨てを許してくれないヴィルジニーのせいで、確かにそのように見えてしまうのだろう。


 多少、腹立たしいが……しかし、身分が上の令嬢を、人前で馴れ馴れしく呼ぶわけにも、やはりいかないし。


 不本意のを吐くしかない僕を見て、ヴィルジニーはおかしそうに笑う。

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