32. はじめての御実家訪問
「“上の町”に回しなさい」
馬車の座席に腰を下ろし、脚まで組んだヴィルジニーは、頬杖を付いて窓の外に目を向けながら、不機嫌そうにそう言った。
“上の町”は、上級貴族たちが多く住む地域の通称だが、公爵令嬢である彼女が言うなら、それはすなわち、同地域にある彼女の自宅、デジール家そのものを指す。
彼女はこちらを見ていなかったが、僕は頷くと、御者に行き先変更を告げる。
公爵家といえば、国内では、王族を除けば最上位に位置する貴族だ。直接仕える人間が多いことはもちろんだが、収める領地も広く、当然そこで働く人間も膨大。彼らが使う道具、装備も多様、多岐、無数にわたる。
上級貴族家とそれに関係する地域、団体は、前世で言うところの、大企業、複合企業体のようなものだ。
この世界の文明レベルでは、革の道具は頑丈で、出番は非常に多い。採取、加工に手間取るため比較的高価だが、モノによっては他に替えが効く素材がないため、特に上流階級では引き合いは多い。
リオネルが言ったように、武具や馬具。普段遣いでも、ベルトや鞄などだ。
名のある貴族であれば、当然、お抱えの革職人がいるだろうが、公爵家ほどの規模なら、そういう職人は何人いても困らない。
デジール公爵家とその関係先で使用する革製品、その一部でもサンチュロン家に発注することができれば、セリーズの家族はだいぶ潤うだろう。
ヴィルジニーが行き先変更を口にするまでは、セリーズを学園に引き止めるためには、最悪、それを僕がしなければならない、と思っていた。伯爵家、とはいえ特殊な事情があってその爵位を賜っている我がルージュリー家は、爵位の割に領地の規模はさほどでもない。それでも、リオネルと協力すれば、セリーズの負担を多少は減らす手伝いができるだろう。
ただ、それをしてしまえば、当然、セリーズを助けたのは僕とリオネル、ということになる。
そのようにする義理は、僕とリオネルには、表向きには、ない。
それと同時に、
これまでの経緯を含めても、それをするのはヴィルジニーであってほしかった。そう考えていた中で言い出してくれたのだから、僕はほっとしたのだ。
誘導に従い、馬車はデジール公爵家の門前で止まる。
二人の門番は、馬車からヴィルジニーが顔を出したのを見つけると、驚いた様子を見せたが、警戒を解いて姿勢を正した。
「お嬢様! おかえりなさいませ!」
ヴィルジニーは返事をしなかったが、門番は門を開けてくれた。
馬車はそのまま、門から続く長いアプローチへ。さすがに公爵家の庭は広く、手入れもよく行き届いていた。思わず散歩などしたくなる景色をしばらく眺め、ついにエントランスへとたどり着いた。
馬車を降りると、玄関から慌てた様子の若いメイドが飛び出してきた。
「おかえりなさいませお嬢様!」
掛けられた声を無視して、ヴィルジニーは僕、そしてリオネルを振り返った。
「もう、帰っていただいても結構ですのよ?」
意地悪な視線を向けてくる公爵令嬢に、僕は首を横に振る。
「まだ、
後ろにいたリオネルが、僕の隣に並んでくる。
「ここまで来たのです。最後まで見届けさせて下さい」
それを聞いて、ヴィルジニーはツンと顎を逸らしてそっぽを向く。
「ずいぶんと信用されていないこと……お好きになさい。でも、見たいものが見られるとは、限りませんわよ」
「そうさせていただきます」
「馬車は、帰してもらって結構よ。帰りは、家の馬車を出してもらいます」
チップを多めに渡して馬車を帰す。
ヴィルジニーは、先程は無視したメイドへと声を掛けていた。
「ベルトランを呼びなさい。厩舎にいます」
返事をして頭を下げるメイドを一顧だにせず、ヴィルジニーは屋敷とは違う方向に歩き出した。僕とリオネルもその後に続く。
歩きながらすぐ隣にやってきたリオネルが、小声で囁く。
「デジール家に来るのは、はじめてです」
「僕もだ」
広大な敷地内をずいぶんと歩き、たどり着いたのは、彼女が言ったように厩舎だった。貴族の屋敷にある厩舎は、ほぼすべてが乗用、もしくは馬車用の馬を飼育するためのものだ。デジール家のものも例外ではないようで、ひとつの窓から馬が顔を出し、こちらを眺めていた。
ヴィルジニーは厩舎を一瞥してから、その隣にある建物に向かった。馬車を収めるための車庫、馬を準備するための繋ぎ場、そして乗馬用の装備を収納してある馬具倉庫だ。
馬具倉庫の中には一人の男性使用人がいて、顔を上げた彼は、主の令嬢の姿に驚いて姿勢を正す。
「びっ、ヴィルジニーお嬢様! このようなところに……お帰りになられていらっしゃったのですか?」
厩舎要員か蹄鉄師か、道具の手入れをしていたらしい男の言葉を、ヴィルジニーはやはり無視して、馬具が並んでいる棚へと近づいた。そのうちのひとつ、女性用と見られる華美な装飾がされた鞍の一つの前に立つと、扇子を口元に持ってきて、ジッと眺める。
「
「あっ……はい、それは――」
男性使用人が返事をしようとした時、僕たちの背後で、扉が開いた。
入ってきたのは、ひと目で執事とわかるみなりのいい、しかし執事にしては若く見える男で、彼は素早く室内に視線を走らせると、まず僕、そしてリオネルを見てから口を開いた。
「これは、ステファン・ルージュリー様、リオネル・ヴュイヤール様。ようこそおいでくださいました。お迎えに上がれず申し訳ございません。デジール家の執事、ベルトランと申します」
「とんでもございません。こちらこそ約束もなしに突然の訪問、大変失礼いたしました」
「ベルトラン、その者たちは放っておきなさい」
ベルトラン、と呼ばれた執事は、僕とリオネルに頭を下げてから、不機嫌そうに言った主の娘に向き直った。
「ヴィルジニー様、おかえりなさいませ」
「少し、立ち寄っただけです。すぐに学園に戻ります。それより」
彼女は畳んだ扇子で、傍らの鞍を指し示した。
「これはいったい、どういうことです?」
執事は、公爵令嬢の鋭い視線にも、一切動揺することなく、その怜悧ともみえる視線と共に問い返した。
「どう、とは?」
「
ベルトランはすぐには答えず、少し考えた様子を見せた。それから男性使用人、リオネル、そして僕に目だけ動かし視線を巡らせてから、女主人へと戻した。
「申し訳ございませんお嬢様。できるだけ早急に修理ができますよう、直ちに手配いたします」
「なにか、そうできなかった事情がございますの?」
ヴィルジニーの問いに、ベルトランはかすかに、怪訝な表情を浮かべた。彼はずいぶん訓練されているようで、その動揺をほとんど表に出さなかったが、近くにいた僕には、わかった。
「はい――実は、従来デジール家の馬具を任せていた革細工技師が、最近、廃業いたしまして。代わりの職人を、まだ見つけられないでいるのです」
「見つけられない?」
ヴィルジニーは不満そうに目尻を釣り上げた。
「いないのですか? 代わりは」
「はい。公爵家の仕事を任せるには、並の装具師では務まりません。何件か伝手を当たってはみたのですが、十分な革細工技術を持つ者が、見つからず――」
「なんとまあ。デジール公爵家の執事ともあろうものが、革細工職人一人見つけられないとは、なんとも呆れたものですわね」
ヴィルジニーが顎を逸らして言い、ベルトランは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません」
「ですが、そういうことであれば――」
ヴィルジニーは扇子の先を自分の顎に当てた。
「腕の良い革細工職人に、ちょうど心当たりがあります。確か――リオネル殿がその職人が手がけた品を持っているとか」
名を呼ばれ、はっと我に返ったリオネルが、持っていた鞄から、先程購入したベルトを取り出す。
「これです」
何も言われていないのにベルトランに向かって差し出す。
デジール家の執事は、一瞬、不審げな表情をしたが、すぐに取り繕うと、「拝見します」と言って受け取った。
しばし検分したベルトランは、リオネル、僕、そしてヴィルジニーにと順番に視線を送り、それから言った。
「確かに良い品のようです。これが作れる職人ならば、デジール家の仕事を任せてもよいでしょう」
「結構。ではそのようになさい。店の場所は、ステファン――ステファン殿がご存知です」
言われて、僕は住所を書いたメモを取り出す。場所はわかったし、もう必要ないだろう。ベルトランに手渡す。
受け取ったベルトランは、今度ははっきりと不審げに、僕を見た。
その視線に、曖昧に頷いてみせる。
「速やかになさいね、ベルトラン」
いつの間にか出口近くまで移動していたヴィルジニーが言い、執事は頷いた。
「かしこまりましたお嬢様」
「では……
「はい……少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか。なにぶん、準備がこれから、となりますので」
「……では昼食を用意なさい」
「かしこまりました」
執事の返事を待たず、ヴィルジニーは一人、さっさと外へ出ていく。
取り残された僕、リオネル、そしてベルトランは、お互いに顔を見合わせる。
「――ご案内いたします。どうぞこちらへ」
「あっ……恐れ入ります」
変な感じに返事をしてしまって、僕はリオネルと共に、執事の後に続いて馬具倉庫を出た。
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