28. 侯爵家の末弟
明朝に馬車を用意してもらえるよう手配し、学生課を離れた僕とリオネルは、管理棟の昇降口からこちらを見ている一人の男子生徒の姿に気付く。
シルヴァン・ドゥブレーは、ドゥブレー侯爵家の次男だ。フィリップ王子の取り巻きの一人で、大抵いつも王子とセットで見かけるので、一人でいるのは珍しい。腰巾着ではあるが、見た目は上流貴族らしい、スマートな男だ。
なんとなく芝居がかった様子で壁に背中を預けていた彼は、昇降口から外に出るため近づいた僕たちに向かって、その整った顔にわざとらしい笑みを浮かべた。
「ご両人、お揃いで」
やはり芝居がかった言い方に、僕とリオネルは思わず顔を見合わせる。
「どうしたシルヴァン。君の方こそ、一人とは珍しいじゃないか」
僕が言うと、シルヴァンはかすかにではあるがムッとした顔をする。
向こうは侯爵家の令息で、僕より身分は上だが、お互いに幼少期から王子と友人だった関係で、幼い頃から
だから僕は今でも彼をそのように呼ぶ、というそれだけのことなのだが、当のシルヴァンは、歳の離れた長兄、ドゥブレー家の跡継ぎでもある出来の良い兄といつも比べられ、他の貴族からなんとなく蔑まれている、尊敬されていない、と常日頃から感じているため、いい気分はしないのだ。
かといって、僕が「シルヴァン殿」などとよそよそしく呼んだら、そっちの方がバカにしているみたいで、不快だろう。
僕が彼を呼び捨てにするのは、そういう思いやりがあってのことなのだが、伝わってくれているかは、わからない。
とにかくシルヴァンは、僕の無礼を咎めるようなこともなく、壁から離れるとこちらに近づいてきた。
「ステファン、教えてくれ――君がどういうつもりなのか」
シルヴァンは、先程の芝居がかった様子とは打って変わって、深刻な様子で言い、僕は眉をひそめる。
「つもりって?」
「とぼけるなよ。王子はともかく、ヴィルジニー嬢にまで取り入って……なにを企んでいる?」
シルヴァンの発言はいささか唐突に思えたが――しかし、そうでもないのだろう。シルヴァンは、
フィリップ王子はあの話を、わざと彼ら取り巻き令息の前でしたのだと僕も思っていたが、このシルヴァンの行動は、王子の目論見通りなのであろうか。
それはそれとして――僕はシルヴァンの言い様に、思わず眉をひそめる。
「企んでいるだなんて、人聞きの悪い。取り入るもなにも、ヴィルジニー様は王子の婚約者だぞ? そのお手伝いをしてるってだけだ。何の問題がある?」
シルヴァンは忌々しげに口元を歪めたが、すぐには言葉を発さず、何事か考えた様子を見せてから、ようやく口を開いた。
「心配してるんだ。僕だけじゃない。君が、その……仲間を増やして、なにかしようとしているんじゃないか、って」
仲間を増やして、のところで、リオネルにチラリと視線を向けた。
「なにか?」
僕は鼻で笑った。
「なんだ? 派閥を作るとかか?」
「違うのか?」
冗談めかして言ったのに真面目な顔で聞き返され、僕は鼻白む。
「夢にも思ってない。そんなだいそれた野望、考えたこともない」
「どうだか」
「僕がそんなこと考えるなんて、思っていないくせに。本当は、なんだよ? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「君のことは……友達だと思っていたのに」
「今だってそのつもりだ。違うのか?」
「だったら……だったらなぜ、姉上の不利になるようなことをする!?」
「――なに?」
意味がわからず、僕は首を傾げる。
「どうしてそこで、マリアンヌ様が出てくるんだ?」
「とぼけるな。君がしていることだぞ。おかげでヴィルジニー嬢の評判はうなぎのぼりだ。さすがは王子の選んだ婚約者だ、などと言い出す者までいる。つい先日まで、彼女のことを王子に相応しいなどと言う者、一人たりといなかったのに!」
そこまで言われて、僕はようやく、シルヴァンが危惧していることに思い至った。
少々長い話になる。
シルヴァンには歳の離れた兄がいる、と言ったが、彼にはきょうだいがもうひとりいる。それが一つ年上の姉、マリアンヌ様だ。
侯爵令嬢マリアンヌ・ドゥブレーは、上流貴族の子女であるという点は共通するが、ヴィルジニーとは対極にいる貴族令嬢だった。
ヴィルジニーを最低最悪の貴族令嬢というならば、マリアンヌは最高最善といえる貴族令嬢だった。貴族令嬢に求められる教養、礼儀作法、社交術を完璧に身に着けていることはもちろん、慈愛に満ちた高貴な精神をあわせ持っていた。その姿を思い浮かべたとき、ヴィルジニーが常にしかめっ面なのに対し、マリアンヌは微笑み以外の表情を思い浮かべられない、というほど。王都中の貴族令息が、皆一度は恋する、と言われた最上級の美女でもある。
シルヴァンと友人だった僕も、幼い頃から彼女との面識はあった。大変に優しく接してもらえて、憧れの気持ちを抱いたこともある。友人の姉、ということもあり、ずいぶん親しくさせてもらっていた。
幼少期にすでに貴族令嬢として完成されていたマリアンヌ嬢は、その段階ですでに、同世代であり頭角を現しはじめていたフィリップ第三王子の、婚約者候補最右翼と目されていた。
そのマリアンヌを差し置いて、まさかヴィルジニーが選ばれるとは、予想していた者は上流階級に一人もいなかったはずだ。
そればかりか、正式にヴィルジニーが婚約者に選ばれて以降も、最終的にフィリップ王子の妃になるのはマリアンヌ様だ、と考えている者、信じている者は数多くいた。
その筆頭者が、実の弟でもある、シルヴァンだった。
――ヴィルジニーはいずれ大きな不祥事を起こし、フィリップ王子に婚約を破棄される。そうなったあと、フィリップ王子と結ばれるのが、マリアンヌ様だ――
それが、所謂“マリアンヌ派”の信じるシナリオだったし、他に多くの貴族が、そうなってもおかしくない、可能性は十分ある、と思っていた。
何を隠そう、この僕自身も、記憶を取り戻すまでは、そうだった。マリアンヌ様がそうなる、というのはともかくとして、ヴィルジニーが(すでに婚約者であるにも関わらず)すんなり結婚できるとは、信じていなかった。なにかやらかすか、普段の素行を理由にして婚約は破棄される、そういうことになってもまったくおかしくはない、と思っていた。
いや、今だってそうだ。ヴィルジニーとの婚約が万全なものとはいえないこれまでの状況は、おそらくゲームの伏線――
ヴィルジニーをいただくのは、僕だからだ。
それは絶対に阻止する、そういうつもりだった。
しかし、いまのシルヴァンの話は。
ヴィルジニー嬢の評判はうなぎのぼりだ、と、シルヴァンは言った。
シルヴァンは、いずれヴィルジニーは婚約破棄され、愛する姉君がフィリップ王子と結婚することになると、信じて――いや、期待していた。
彼には僕が、ヴィルジニーの名誉挽回――いや、挽回する名誉などなかった――汚名返上を手伝うことで、その邪魔をしている、と見えたのだ。
ようやくそれに思い至った僕は、思わず苦笑を浮かべてしまう。
「なにがおかしい?」
「フフッ、そんなの……心配するようなことじゃないだろ。学園内で多少評判がよくなったからって」
「学園内じゃない」
真剣な目で、シルヴァンは言った。
「社交界で、だよ」
「――何?」
「僕はこの話を兄上から聞いた。先日行われた夜会では、その話で持ちきりだったそうだ。ヴィルジニー嬢がついに貴族の義務に目覚めた、王子の婚約者としてふさわしく御成長なされている、ってな」
「えっ? ……冗談だろ?」
僕の苦笑は、引きつった笑みに変わっていた。
「だって……課外授業を主催しただけだぞ? いくらなんでもそんな――」
「特待生を受け入れたし、そもそも、あのヴィルジニー・デジールが下級貴族ばかりか一般市民までを顧みるなど――かつてのあの方を思えば、あり得ないことだ」
あり得ない、などとは酷い言われようだが……しかし、かつての彼女は、たしかにそんなこと、天地がひっくり返っても思いつかないようなタイプだった。選民思想の申し子、とも言えるメンタリティの持ち主だったのだ。
それにしても、まさか一気に社交界での評判まで良くなってしまうとは、まったく予想外――いや、予想以上の展開だった。
もちろん一連の行動で、ヴィルジニーの評判がある程度改善されるだろう、とは思っていた。しかしその範囲は限定的というか、せいぜい学園内での、生徒たちのあいだでのことにとどまるだろうと思っていたのだ。
だが、ヴィルジニーの改心(に見える行為)は、想像した以上に、貴族社会に衝撃を与えてしまったらしい。
おそらく、不良少年が善行を行うと、大変立派だと褒められてしまう、あの現象と同じだろう。やったことは普通とか、ちょっと良いぐらいのことであっても、それをした人間次第で、ものすごく上等なものに見えたりするのだ。
「それに君はいま『課外活動を主催しただけ』と言ったがね。学生が主体的に学習を行う場を作る、などというのは、今までに誰もやったことがないんだぞ」
そう言ったシルヴァンは、咎めるような目で僕を見た。ヴィルジニーのアイデアではないだろう、と指摘しているのだ。
それについては、僕は部活動という、前世の世界ではありふれたシステムをただ真似ただけだったのだが、たしかによく考えてみれば、この世界にはそもそも発想のないものだった。彼らからすれば、先進的と見えたかもしれない。そこまで、思い及ぶべきだった。
やらかしたかもしれない。
僕としては、「ヴィルジニーが王子の婚約者として相応しい」とされる雰囲気は、ありがたいことではない。
王子がヴィルジニーとの婚約を破棄しても、やむなしと受け入れられる、そういう世論であるままの方が望ましかった。
もちろん王子の結婚は、当の本人、もしくは王族の意向で決まることだ。
だが世間が、多くの上級貴族が、良しとしない結婚であれば、いくら絶対君主の王家とはいえ、ゴリ押しするのは難しくなる。
これまでのヴィルジニーには、はっきりいって王子の婚約者の器ではない、そういう世間の評価があった。その悪評は、僕の目的である、王子の婚約解消に対して、有利に働くはずだった。いよいよ、となったとき、社交界でヴィルジニーが否定的に扱われていれば、婚約そのものを考え直そうという雰囲気になることだって期待できた。
ヴィルジニーが貴族社会で汚名を返上することは、その利、期待を、失うことになる。
名実ともに彼女が婚約者に相応しいと認められてしまえば、その解消は、僕にはもちろん、王子本人にも難しくなってしまう。
つまり、シルヴァンが伝えてきた社交界での状況は、僕にとっても、まったくもって不本意な事態といえるものだった。
絶句し、険しくなった僕の顔を見て、シルヴァンはついに、その顔を怪訝なものに変えた。
「君は……わかっていてやってたんじゃないのか?」
「いや、まさか……まさかこれだけで事態がそこまで進行するとは思わなかったんだ」
僕は大げさに言うと、リオネルの顔色を確認してから、シルヴァンに向き直った。
「これは元々、一番最初は王子に言われてはじめたことなんだ」
シルヴァンは眉根にシワを寄せる。
「王子に?」
「ああ。ヴィルジニー嬢がこれ以上、評判を下げることは、婚約者である王子のご迷惑にもなる。だからその振る舞いについて、“適切なアドバイス”をするよう、王子に頼まれたんだ。本当だ、確かめてもらってもいい」
シルヴァンは懐疑的な目の色を変えなかった。
僕が言ったことは完全な真実ではなかった。“適切なアドバイス”は王子に頼まれたのではなく、ヴィルジニーに接近するため、僕の方から申し出たのだ。しかし、こういうふうに言えばシルヴァンが確かめるようなことはしないだろうと思ったし、もしも聞かれてもこのような言い方であれば、王子は否定しないだろう、という目算があった。
僕は続けた。
「それが上手くいったんで、今度はヴィルジニー様に請われて、やってるんだ。僕の立場は、わかってくれるだろ? これは決して君や、マリアンヌ様に敵対するとか、そういうつもりがあってやってることじゃない。フィリップ王子のために、やっていることなんだ」
「……王子のため?」
「そうだ。君が言ったようなことが、これほど短期間に起こるとは思わなかったんだ」
それでも、シルヴァンの疑わしげな目の色は、すぐには消えてくれなかった。
しかし、仕方ないと思う。実際に現状、彼、もしくは彼の姉君にとっては、事態は面白くない方向に進んでいるのだ。
でも、それは僕も同じなのだ。
「それにそもそも、マリアンヌ様は本当に、フィリップ王子と御一緒になりたいと思っておられるのか? 僕はあの方の口からそのようなこと、聞いたことはないぞ」
マリアンヌ様はその評判に違わず、人格的にも素晴らしく、大変慎ましいお方だ。間違っても、王子の婚約者になりたい、などと口にされるような方ではない。盛り上がっているのは彼女を持ち上げる周囲だけで、本人がそのようなアピールをしたことなど、記憶にある限りでは一度もなかった。ヴィルジニーが婚約者に決まった時でさえ、微笑まれ祝福の言葉を口にされたのだ。
だがもしかしたら、ただ一人の弟には、自分の願望を口にしたかもしれない。
そういう可能性を思いついて聞いたのだが、しかしシルヴァンは、あろうことか目を逸らした。
やはり、マリアンヌ様はそのようなこと思っていないか、少なくとも口にしたことはないのだろう。
「シルヴァン」
僕は彼に近づくと、声を潜めた。
「僕が知る限り、フィリップ王子は自ら望まれて、ヴィルジニー嬢を婚約者に選ばれた。そしてマリアンヌ様は、王子と結ばれたいと思っておられるわけではない……君の希望はわかるが、いまはもう、それをおおっぴらにしていい立場でもないぞ」
シルヴァンは顔をしかめたが、僕と同じように小声で応えた。
「しかし――ステファン、君は本当に、ヴィルジニーが王子のお相手に相応しいと思っているのか? 王子とご結婚なされる、ということは、将来、もしかしたら王妃殿下となられるかもしれない、ということなんだぞ?」
僕は難しい顔をしてみせる。
再三繰り返すが、ヴィルジニーとフィリップ王子をくっつけるつもりは、僕には毛頭ない。
しかしそのようなことをこの場で言うわけにもいかない。背後にはリオネルがいるし、シルヴァンにももちろん、まだ知られたくはない。
「滅多なことを言うなよ、シルヴァン」
内心を出してしまわないよう、僕は言葉を選ぶ。
「それを決めるのは、王子殿下だ。僕らがどうこう言うのは、明らかに越権行為だよ」
「だけどさあ……君は、そうなることが王子のために……この国のためになると、本当に思っているのか?」
シルヴァンの不敬極まりないともいえる言葉に、僕は慌てる。
後ろにはリオネルがいて、聞いているのだ。
僕が振り返ると、リオネルは微笑んでみせた。
「
シルヴァンも、存在を忘れていた、と言わんばかりの顔でリオネルを見ていて、僕たちはほとんど同時に、彼に言っていた。
「ありがとう、リオネル殿」
「感謝する、リオネル殿」
僕は友人に向き直る。
「勘弁してくれ、シルヴァン。時と場所をわきまえろ」
「悪かった、つい……」
「だけど、君の懸念も、わからんでもない。王子は、底の見えないお方だ。誰もが驚いたお二人の婚約に、何の意図もない、と単純に考えるのは、危険かもしれない」
「っ! そうだろ?」
「それは僕が確かめる」
「確かめる、って、どうやって」
「できるかわからないけど、上手く聞き出せるかやってみるよ。君は少し大人しくしておけ」
「だけど――」
「君は焦っていて、危なかっしい。下手を打って王子から遠ざけられたら、アラン様に向ける顔がないだろ」
僕が彼の長兄の名を出すと、シルヴァンは深くため息をついた。
「すまん」
「忘れるなよ。僕は君もマリアンヌ様も、大事な友人だと思ってる。でもフィリップ王子も同じだし、そうなったときに優先するのは、君の自分勝手な願望なんかじゃなく、王子の選択の方だぞ」
「……わかってる」
彼は苦虫を噛み潰したような顔で言い、まったく、このシスコン野郎め、と僕は内心だけで思う。
シルヴァンが立ち去るのを見送り、僕はずっと黙っていてくれたリオネルに向き直る。
「申し訳ありませんでした、リオネル殿」
僕がそう言うと、彼は首をゆっくりと横に振った。
「いいえ。シルヴァン・ドゥブレー殿のお立場も、よくわかります」
「今のことは――」
「もちろん、ステファン殿のお立場もわかっております。ご心配なさらずとも、このことは
「……助かります」
「それにしても――」
リオネルは顔を上げると、シルヴァンが消えた方に目をやる。
「お二人の関係、いいですね」
「えっ? どのようなところが?」
「身分の差にとらわれず、お友達でいらっしゃる」
「ああ……付き合い、長いですから」
「
そう言ったリオネルは、少し顔が赤くなっているように見えた。
「あっ、いえ……伯爵家のステファン殿と
なるほど、彼の言うことももっともだ。僕は顎を撫でる。
一般市民の若者は、お互いに敬称を付けて呼び合ったりはしないだろう。
「おっしゃられるとおりですね。では
「えっ!? ですがしかし、それは……」
「一般市民を装うなら、一方的なのはおかしいでしょう」
僕はできるだけ親しげに見えるように、微笑んでみせる。
「明日はよろしく頼みます……頼む、リオネル」
頷いたリオネルがまた顔を赤くしていて、僕は首を傾げる。
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