第54話 心の中を占める人

 言葉を連ねるしかなかった。そうすることでしか心の動揺を収めることができそうになかった。ヴィンセントのことを思うと悲しくなった。

 そう、こんな時にまでわたくしはヴィンセントをまだ想っていた。


「ヴィンセント様はわたくしと結婚を決めて皇太子でいるんだと仰っていたわ。周りの人たちがどんなに騒いだところで、本人の口から出た言葉に間違いはないわ。確かに彼はミサキに惹かれているのでしょう。でも、なんの後ろ盾もない彼女が皇太子妃になるなんて誰も許さないわ。誰も······」


「それは問題ない。僕の父上がミサキの後ろ盾になればいい。生憎、父上は王陛下からの信頼が篤い。そもそもきみが皇太子妃になることを父上は面白くないと思っているだろうからね、この話には絶対に乗ると思うよ」

「そんな······」

「きみの心はまだヴィンセントにあると思うのかい? 僕はそうは思わない。きみが彼を見る目は昔と違い精気を失っている。きみだってわかっている、もし結婚したとしてもヴィンセントはミサキを妾として――」


「やめて、やめて、やめて!! あなたはわたくしの心に大きな傷を残すためにやって来たの? そんな話は聞きたくないわ。わたくしが物を考えない女だと思っているの? あなたの仰ったことはわたくしの想像の範疇だわ。だからお願い、その話はやめて······」


「すまない、きみを追い込みたいわけじゃないんだ。ただきみを僕のものにするための算段ならもうついていると、そう告げたかったんだよ」


 涙で前が見えなかった。

 わたくしは以前のように貞淑な女とは呼べないだろうけど。それでも悲しい話はたくさんだった。


「問題は婚約を破棄させることだ。そうなれば次のきみの相手は僕しかいないはずだよ、エルメラ」




 悪い夢のような夜は過ぎて、静かな夜がやって来た。

 いつも通り、髪が艶やかになるようブラッシングをしてもらう。アイリーンは昔からブラッシングに熱心だ。

「今宵はお疲れでしょう。温かい牛乳をお持ちしますわ。早くお休みになって」

「······ねえアイリーン。わたくしは本当に婚約破棄されるのかしら?」

 アイリーンは口を閉じて、難しい顔をした。眉根にしわが寄る。

「わたくしの口からはなんとも言えませんわ。それは大事ですもの。――けれども、あの小うるさい社交界の方々は言うでしょうね。『ヴィンセント様は心変わりをなさった』と」


 心の中がしんと静まる。

 背筋を嫌なものが通っていくような気がした。

 これはゲームだ。

 わたくしはエルメラの役を与えられただけのNPC。なにも傷つくことはない。

 ミサキに負けただけのこと。


 あの方のことを同時に思い出す。

 抱き上げられた時のようにふわっとした心地になる。どうかわたくしを下ろさないで。もう数歩、ドアを出てしまえばあなたの家の馬車が待っているのでしょう?

 約束通り、わたくしを攫って······。


「ギュスターヴ様の求婚をお受けになりますか?」

「······いいえ。わたくし個人の考えとすれば、それはないの」

「そうでございますか。では、リアム様と?」

「リアム様がわたくしに求婚なさったことなんてないのよ? そんなこと有り得ないわ。あの方はまるでお兄様のようにわたくしたちを見守ってくださってるのよ」

「アイリーンはそうは思いません。わざわざこの屋敷にいらしたり、先日はお嬢様とダンスを踊られたそうじゃないですか? あの、人嫌いで有名なあの方がそんなことをするのはひとえにお嬢様のためだけですわ」


 リアムを思い浮かべる。

 確かに彼はわたくしに甘すぎる。

 なにも咎めず、なにも期待していない。彼の望みはわたくしの絵を描くことだけで、それ以上になにも求めてこない。

 いつでも半歩引いて、わたくしの肩をそっと押してくれる······。


「ヴィンセント様は皇太子でいられるか危うい立場です。リアム様が皇太子になることは大いに考えうるでしょう。でしたら、お嬢様がリアム様と結婚したところでなんの問題があるでしょう? 旦那様はそうなれば大喜びですわ」

「そんな······」

「それとも他に意中の方がいらっしゃるとか?」

『意中の方』という聞き慣れない言葉に耳まで赤くなるのを感じた。いままでずっとわたくしは誰かに立場で権利はなかったからだ。


「お嬢様、わたくしがその方のお名前を知っていた方がいざと言う時にお嬢様のお役に立てますか? それともわたくしは素知らぬ振りをして、その殿方にすべてを、お嬢様のすべてを委ねても構わないのですか?」

「アイリーン······苦しいの。どうしたらいいのかまったくわからないの」

「まぁ! お嬢様は本当の恋を知らないままお嫁に行かれるのかと思っておりましたけれど······そうです、それが恋なのです。お嬢様自身が選ばれたご相手こそ、あなたの心の中を占めるお方。まぁ! なんて素敵なんでしょう」

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