第52話 愛というもの、そのやさしさ
ざわめきは大降りの雨音に似ている。
なにかの演奏があったのか、誰かが素晴らしく踊ったのか、わっとした歓声がホールから響いてきた。さざなみのような拍手。
「ヴィンセントは席に戻らないわけにはいかないだろう? 宴もそろそろ終盤だ、早く行きたまえ。それがお前の役割だ。――エルメラは少し疲れたんじゃないのかな? 僕の部屋に来るかい? ここよりは静かだよ」
迷う。
ヴィンセントと一緒に行ってしまえば形だけでも悩みは幾分解消される。それは心の痛みと引き換えに。
リアムと行ってしまったら心は楽になるけれども、自分の仕事は果たせない。わたくしのするべきことはまだヴィンセントの婚約者として相応しく振る舞うことだ。
ここは、ゲームの中の世界。
だけどそこに落ちてしまったわたくしにとってはここが真実の世界。
遊びじゃない、人生だ。
「リアム様、お心遣いありがとうございます。わたくし、戻ります」
「そうかい。それもいいだろう。君たちには決断するまでの時間は十分にあると思うよ」
ヴィンセントはその後、わたくしの顔を見なかった。――ふと、わたくしなんて、もうどうでもいいのかもしれないという黒い考えが渦を巻いてわたくしに襲いかかる。
そしてそれは決して考え違いでもなかった。
ホールへの扉のすぐそこに慎ましやかに席を取っていたのはレオンだった。今日は従者としてではなく、領主の息子としてやって来ていると言った彼に「レオン、あとは彼女を頼む」と一言、ヴィンセントはわたくしを置いて王家の席へ戻ってしまった。
わたくしは途方に暮れた······。
「ヴィンセント様は私たちの間にあるかもしれないものにあまりにも鈍感だ」
レオンが苦笑する。レオンの方がわたくしたちより四つも年上なのだから、わたくしたちが子供に見えても仕方がないのだけど、その笑みは実に苦々しかった。
「レディ、あなたを直接預けられたのなら、私はあなたを連れて行ってもいいのではないでしょうか? 幸い今日は王子の護衛役ではない。王家とは遠いと言え血の繋がりの確かにある公爵家の、私は後継ぎです。あなたにまったく相応しくないというわけではないでしょう。······最もいままでと同様の目が眩むような暮らしはさせてあげられるとは言いかねますが」
「あなたは『やさしそうに見える』方ね。そして実は残酷。だってわたくしに美しい夢ばかり見せるんですもの。わたくしもこの足であなたの育った土地を踏みしめたい。美しいバラは好きよ。だけど野に咲く花の美しさは知ってるつもり。行ってみたいわ。――でもきっと、誰もが許さないもの。わたくしはそう遠くない時、大聖堂の階段を一歩一歩、純白のドレスの裾を引いて歩くことになるんだわ。それが現実よ······」
「······エルメラ。悲しそうな顔を見せないでください。私はあなたにいつでも笑ってほしい。あなたは春の風のように暖かい笑顔を持っているのに」
「現実には勝てないわ。わたくしはヴィンセント様と結婚するでしょう。そしてその時はわたくしたちの警護に当たってくださるのでしょう? 馬車の前後について」
「なかなかひどいことを仰る」
「事実だわ」
「では私が刑罰に処されるかどうか試してみましょうか?」
なんのことだかわからなかった。
けれど一瞬、体が魔法のようにふわっと浮いてわたくしはホールの扉から外に出ていた。
――そう、レオンの腕の中で。
「大切にお連れしたいのです。危ないから暴れないでください。しっかり掴まっていて」
「ねぇ、お願い、無茶よ。あなたが罰せられるなんて見てられないわ」
「さぁどうでしょう。社交界では一時、楽しいスキャンダルになるでしょうが、本当に罰せられるでしょうか? いまのヴィンセント様を見て、王陛下はなんとも思ってないとでも?」
――あ。
そう言えば王陛下と踊った時に「もったいない」と。
屋敷の入口近くの廊下は風が通り抜けて、わたくしたちの身を十分に冷やしていった。けれども心はまだ火照ったまま、お伽噺が叶うんじゃないかと夢心地だった。
大人しくしてくださいね、と彼は言ってわたくしをそっと床に下ろした。足元から寒さが這い上がってくる。そう、わたくしはこれから起こるかもしれないことが怖い。
「エルメラ······」
一度離れた腕の中にそっと包まれる。寒さから守るように、覆い被さるように。
外は雪でも降っているのかもしれない。凍りつきそう。
わたくしはひどく緊張していた。
「私はあなたを大切にしたい。わかりますか? だから今日のところはひとりで帰りましょう。そして奪うくらいなら、正々堂々と迎えに参りましょう」
「本当に······?」
「そのように天使を信じる子供のような目で見られては約束を破れないではないですか? これが『愛』と呼ぶものなのでしょうね。私の父と母の間にある暖かい感情に似たものをあなたに感じるのです。······はじめは奪って攫いたいと思うほど恋焦がれていたのに」
腕をゆっくり離すと「お戻りなさい」と言って彼はひとりで行ってしまった。
『愛』という言葉はいままでひどく重いものだと感じていた。けれどいまは――。
『愛』とはやさしくわたくしを包んでくれるものだと、そう思えた。
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