第36話 本当の姿

 悲しいばかりのピクニックが二度重なった。

 天気もまた雲を低く垂れて、ぐずりはじめる。アイリーンたちはピクニックバスケットを急いで片付ける。


「お先にお戻りになってくださいね、お嬢様」

 にこり、と微笑んでわたくしは立ち上がった。ヴィンセントも立ち上がると、わたくしをエスコートしてくれた。


 雨は空からこぼれ落ちそうでいて、落ちては来なかった。わたくしたちは無言で屋敷までの道を歩いた。

 子供の頃から幾度となくふたりで歩いた道……。

 いまは道端を彩るほどの花々はない。花冠はとても作れそうにないし、それにあの時遊んでいたのはヴィンセントの家の庭だった。同じ花はどのみち見当たらない。


「ヴィンセント様」

「なんだ?」

「お急ぎになられた方がよろしいかと。エルメラ様のドレスの裾を濡らしてしまいます」

 レオンがその瞳でわたくしの目を見た。彼の見たわたくしの目は、おそらく空と同じくらいの曇天だったに違いない。

 それは一瞬であったけれど、気持ちが通じるのには十分だった。

「さあ急ぎましょう。降られてからでは難儀です」

 足早に通り過ぎていく冬の庭園に、昔の面影はなかった。遠雷が凍るような音を立てた。


「アイリーン、わたくしは大きな間違いをおかしてしまったの。もう元には戻れないわ」

 泣きじゃくる、とほかのひとの前では決してできない行為をわたくしはした。

 涙が窓の外の雨と調和するように、とめどなくこぼれ落ちる。

 アイリーンがその涙を拭ってくれる。

「どうなさったのですか? お気持ちのすれ違いではありませんの?」

「……誰にも言わない?」

「もちろんですわ」

 覚悟を決める。

 もう、ひとりきりで抱えるには大きすぎる問題になってしまった。

 できる限り噛み砕いてゆっくり話す。


「そうですか……そんなことが学園で起こったのですね? 王子様がこちらにいらっしゃるなんて不思議に思っていたのです。そうなのですね、それでは王子様が気弱になられるのも無理はないですわね」

「男の方も弱気になられるのね」

「それはそうですよ。殿方の方が繊細だという話もあるくらいですわ」

「……でもわたくし、ヴィンセント様はもうわたくしの心に戻っては下さらないってそんな気がするの」

 お嬢様……とアイリーンが背中をさすってくれる。その手のひらの温かさがわたしをまた泣かせる。

 涙は温かい、という知らなくてもいいことを学んだ。


『暖かい服装で、書庫へ』


 アイリーンから渡されたものではない。最近入ったらしい大人しそうな侍女のひとりが震える手でそれを持ってきた。「ありがとう」と微笑んで受け取る。

 見たことのない、流麗な走り書き。

 でもわかる。


 ガウンを着込んでショールを掛け、裸足で音を立てず滑るように書庫に向かう。

 書庫というのは我が家に代々伝わる古文書から普通の通俗な読み物までをしまうための部屋だ。屋敷内を見回った時にたぶん、見かけたんだろう。

 とにかく、いまは一秒でも先へ――。


「レオン、どこなの? 隠れているの?」

 息が切れて言葉が途切れ途切れになる。

 しぃっとわたくしを黙らせる声がして、その主を見つける。

「その名を呼んではなりません。誰かが聞いていないとは限らない」

 冷たい板張りの床を蹴って、その広い腕の中に飛び込む。彼はわたしをやさしく抱きとめた。

「ひどいわ、あんな話をしている時に知らないふりをして」

「どうやって主君の話に割って入れと言うんです? いまのことだってもしもバレてしまえば私は田舎から二度と出してもらえなくなるでしょう」

「だってヴィンセント様だってミサキが――」

「ではいま会いにいらしたのはあてつけか?」


「いつだかは王子が夜着のあなたを抱きしめていた。私はうらやましいと本心から思った。でもそのひとがいま腕の中にいる。一分一秒が惜しい」

「……あてつけなんかではないわ。ヴィンセント様が皇太子としての責務に疲れてしまったようにわたくしだって『自由』が欲しいわ。ヴィンセント様がミサキとどこかに行くと言うなら、わたくしはこの夜着のままいっそ雪の舞うという地まで――」


「参りますか? 嘘はいけない。真実だけをどうか」

「わたくしを……」

 彼の体の温もりはわたくしから離れていく。わたくしたちは本当は冷静で、よくわかっているから。運命の輪の中に入ってしまえば出ることが難しいということを。


「寒いところですよ」

「ええ」

「そろそろ感謝祭の飾りが美しく吊るされる頃でしょう」

「ええ、きっとそうね」

「いま、この瞬間にあなたを攫いたい。しかしそれでは領地には帰れません。おわかりですか?」

「……もちろんよ。わたくしたち、逃げて隠れなければいけなくなるものね」

 彼の胸に両手をついて、ポンと軽く押した。

「ひどいひとだわ。叶わない夢を見せるなんて」

「そうでしょうか、私はあなたの立場が憎い。なぜあなたはあなたとして生まれてきてしまわれたんですか?」


 あ――!

 違う。違うの。

 わたくしはわたくしであって、わたくしではないの。

 わたくしを苦しめるあのかわいらしい少女がわたくしの真実。わたくしの本当の姿。

 どうしてわたくしはエルメラなんだろう?

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