第31話 奥ゆかしさ
「ここにいたの?」
放課後の図書館はひっそり静かで、海の底をのそりのそり大きな魚が泳いでいるようだった。
「なにかあった?」
「なにかって、なんのことかしら?」
「そうだな、例えば――」
エドワードは腕を組んで、勘違いでなければニヤリと笑った。
「兄上を奪われたかな? このままじゃまずいだろう。兄上も、エルメラも」
彼の目を見て笑えない。わたしは固まることしかできなかった。その場に彫像のように。もしもそうなってしまってもよかった。
「奪われたのかしら?」
「かもね。俺はダメだ。あの跳ねっ返りから下りるよ」
「それってミサキのこと?」
「ああ、めちゃくちゃだよ。しょっちゅうあのおしゃべりな口で話しかけてくるくせに、気がつけば兄上の話になってて、いまじゃ兄上にしか興味がないみたいだな」
「そんなこと·····」
「あいつの来た世界には、そういうもったいぶった奥ゆかしさみたいなのはないみたいだったぜ」
もったいぶった奥ゆかしさ。確かに『現代』はすべてのことがもっと直接的で、それがまっすぐではなく、奥ゆかしくもなく、ただLINE越しやなんかでオブラートに包まれてやってくる。
頭の中が一瞬、現代に戻ってすごい量の情報が遡ってくる。――闊歩する人々の街並み、留まることのないおしゃべり、カラフルで体のラインに沿った短い丈の服。ツヤのある唇。キラキラ光るアイシャドー。
制服。
気崩すほど不真面目になれないわたし。友達のいないわたし。いまと同じ。孤独。孤独を埋めるのはそれは、ヴィンセントやエドワードやギュスターヴ·····。いまと変わらない。
滑稽。おかしすぎて涙が滲む。
「大丈夫か?」
確かにわたしもゲームの中では傍若無人で誰にも敬意を払わなかったかもしれない。自分がすきにしてもいい場所なんだって、そう勝手に思ってたかもしれない。
「大丈夫よ」
開いてた本を閉じて、書架に返すために持ち上げる。重みのある臙脂の布張りの本はこの国の歴史書。神代から描かれている。それを読んだところでテストにも出ないのだけど。
「この国がすきか?」
年下の彼の問いかけに振り返る。
自分の中で自分に問いかける。
「ええ、とても。変わらないでほしいの。だから、滞りなくヴィンセント様に王位を継いでもらいたいわ」
図書室を出るのをエドワードは離れたところから眺めていた。それを意識しながら中庭にいるふたりを見つける。
親しげに視線を交わして話し合うふたり。
もしここがゲームの世界ではなくて、王位なんてものがなかったら、ふたりにとってしあわせな時間が待っていたのじゃないかしら?
見ているだけでいいの?
割って入らなくていいの?
ふたりの間に入って、仲を裂かなくていいの?
どうしてわたしはそうしないのかしら。
ゲームの中のエルメラには、いつもわたしの先回りをして笑われた気がする。エルメラはいつでもヴィンセントの隣で華やかに微笑んで、現代でも平民のわたしはふたりの間に入るのは至難の業だった。
どうしてあのエルメラみたいにしないの?
「エルメラ」
「ギュスターヴ·····」
彼の髪が光に透ける。顎先までのストレートの髪が揺れる。
「がんばったんだが、間違いだったようだ」
「それはないわ。あなたはあなたのしたことを誇りに思っていいのよ」
すっと手を持ち上げられる。軽く口付けられる。彼は素敵な笑顔を見せた。
「きみだけだよ、褒めてくれたのは。エルメラ、きみがいないと生きて行けないかもしれない」
きつく抱きしめられる。
「ダメ。こんなところで誰かに見られたら!」
「僕は構わない。そのせいで今の地位を失っても構わない。きみが僕を認めてくれればそれでいいんだ。僕は彼を下したよ。同じ線上で比べてくれないか? きみの夢しか見ない」
「お願い·····離して」
ギュスターヴの体温がそっと遠ざかる。
心地良さも冷めていく。
ますますわからなくなる。
「おや、ギュスターヴ。エルメラとなんの話かな?」
「挨拶程度さ」
「だろうな。次期皇太子妃だ、やたらに話しかけられる人ではないんだから」
「失礼」
踵を返してギュスターヴは俯きがちに早足で去っていった。
「エルメラ、時期尚早だ。兄上の気持ちは誰にも見えない。周囲に気をつけるんだな。足元を掬われるぞ」
そうかしら。
彼の気持ちならこぼれるほど良く見えているのに。
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