第26話 馬上の人
リアムはわたくしに向かって、「馬車に乗っていくかい?」と聞いた。あの、いつかの諍いを知ってのことなのかはわからなかった。
辞退申し上げようと思ったけれど、お父様から送っていただくよう厳命を受けた。
深夜に馬車は走る。
漆黒の中を滑るように。
「こんな時間に申し訳ないね、レディ」
「いいえ、馬車に共に乗せていただくだけでも光栄ですのに」
「……僕は本来なら軽々しく出かけてはいけない身なのでね。それに僕といるところを見せたくない相手はいるだろう?」
わかっているのにそれは狡い質問だと思った。王子はイタズラめいた顔をして満足そうに微笑んだ。
確かにヴィンセントに見られてしまったら言い逃れはできないだろう。世の中ではヴィンセントの方が皇太子として位は上だけれど、それでもリアムを無視はできないのではないかしら? 腹違いとはいえ兄上だもの。
馬車は走る。夜の闇をものともせず。
「眠っていてもかまわないのだよ」
「いいえ、夜の森は珍しくて」
木々の枝の隙間から月明かりが細く道を照らす。枝に遮られては暗くなり、枝がなくなれば空は光を地上に投げかける。屋敷にいたのでは知り得ない美しさだった。
「きみの美しさは月下美人のようだ。一夜しか咲かない貴重な白い花。僕もきみを今夜しか知り得ない。きみの絵は白を基調に描こう」
今夜だけ。今夜限りの秘密の邂逅。まさか会うとは思わなかった人。
「困ったことがあったら僕のところに来るのだよ。僕にだって微力ではあるけど王家に口を挟むことができるのだから」
「お気持ちはうれしいのですが、無理だと思うのです。……変わってしまったひとの心は変わりませんわ」
リアムは口を結んでわたしの顔をまじまじと見た。月明かりがリアムの顔の片方だけに光を投げる。色素の薄い端正な横顔。
「あの『タンポポ』姫のことかな?」
「タンポポ?」
「地面にしっかり根付いているようで、その実、花は早く結実して飛んでいこうとしている。彼女にぴったりだろう?」
「お会いしたんですか?」
「いや。失礼ながら僕にも女性の好みがあるのだよ」
そう言うとリアムはにこりと微笑んだ。純粋な微笑み。その裏側があるのを知ったような気がした。リアムはミサキを軽蔑している。
「わたくしも彼女も同じく女性であることに変わりはありませんわ」
「そういう凛という芯の通ったところも素敵だよ。ヴィンセントとは近頃はとんと会わないけれど、見るべきものを間違えているようだね。見るべきものは『心の中』さ。きみのように真っ白なひともいれば、ただ個性的な目につきやすい色を乗せている者もいるということさ。さあ、そろそろ到着だ。朝まで間がある。少しは寝るといい」
自分を『幽霊』だと名乗る王子と真夜中のひととき。夢だとしか思えない。
でもこれは夢じゃない。
学生たちはまた朝になったら車止めでの喧騒に包まれる。わたしはそれを高みの見物だ。――もうミサキの仕業に心惑う必要はない。
そうだ、王子のために花を摘もう。幼い頃にふたりで摘んだ、クローバーやハーブ、マーガレットなんかを。
最初は学園内の花園で摘んでいるつもりだった。あの花には、この花は、と思い出をたどるうちにいつの間にか学園から出てしまったんだろう。こういうのは後の祭り。
今頃は車止めでまた争いごとが起こっているかもしれない、そんな時間。でもそれが済めば授業が始まる。
わたしくは外に出るための軽いドレスしかみにつけていなかった。一度、部屋に戻って身支度を調えなければ。
と、馬の蹄の音が後ろから響いてきて、その音は近づくと穏やかになる。
朝早くから花摘をしていたわたくしのように、乗馬を楽しんでいた殿方がいらっしゃるのかもしれない。
粉白粉さえ叩いていない素肌をひとに見せるのは避けたい。
馬は足踏みを踏んで、男性は「どう」と馬を諌めた。
「エルメラ様、なぜこんなところまで。授業に間に合いませんよ」
振り向かなくてもわかる。それはレオンだった。
「ヴィンセント様の警護はいいの?」
「今週末は非番だったのです」
「そうですか。ゆっくりできたのは良かったわね」
「こんなところまで来てなにをなさっていたのですか?」
「花摘みを――。そうだ、レオンの育ったところはどんなところなのかしら? ここみたいに花はいっぱい咲いていた?」
レオンは仕方ないといった顔をして馬を下りた。そうして、わたくしのすぐそばへ座った。いつもあまり喋らない彼がなにを話すのか、わたくしはワクワクしていた。
「つまらない小さな山村ばかりなんですよ、うちの領土は。山がちなので少ない平地に農民たちは小麦を育て、また牧草地を作ります。夏の間はそうして蓄えを作って、冬に備えるんです。小さな村々には冬になると農民たちも降りてきて、天使様の祭りをするんです。都会には敵いませんが、村の真ん中の大きな杉の木に精一杯リボンや小さな飾りをつけて、その年の無事を感謝するんです」
「感謝祭ね」
「はい。そのような娯楽しかなくて。こちらのように整備された庭園もなければ、立派な城も建物もない。田舎者なんですよ、私は」
彼の指がすっと動いてドキッとすると、前髪についた草の葉を取ってくれたようだった。
そんな小さなことにいちいち反応していたら身が持たないのに――。
素朴な生活をして育ったという彼の国を想像してみる。
朴訥なひとたち、子供たちの大きな笑い声、小川のせせらぎ。想像はわたくしの心を暖めた。
「失礼」
きゃっと思うとレオンは軽々とわたくしを馬上に乗せてしまった。わたくしはレオンに横向きに抱きかかえられた形で彼の首にしがみ ついていた。
「そろそろお戻りにならないと。学園まですぐですよ」
いつも通り言葉少なに彼はわたしを抱えて馬を走らせた。こんな事をしたのは子供の頃だけだ。お父様がわたくしを驚かせようと。
走る度に馬は上下するので、しっかりレオンにしがみつく必要があった。その間、彼はなにも語らなかった。
彼のことをなにも知らない。話の糸口を見つけられないまま、学園に着いてしまった。
レオンはわたしを下ろすと、自分も下りてから馬を労うようにその体を撫でた。
「王子には内密に」
「ええ、あなたこそ。とっても助かったわ、ありがとう」
レオンの翠色の瞳が朝の光に反射する。普段、生真面目で笑顔を見せることのない彼が頬を緩ませ、わたくしに微笑んだ。
「あの舞踏会の日以来、もうあなたをこの手に抱くことは叶わないのだと思っておりました。天からの恵と思ってよろしいでしょうか?」
こくん、とひとつうなずいた。
「こんな幸運は二度とないでしょう、レディ。早く王子と仲直りなさってください」
では、と彼は馬を連れて去っていった。
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